第29話 いつどんな時も
「羽鳥、ここ間違ってる」
言いながら、机の上に広げられた分厚い実験ノートを指さした秀先輩は、ふわりと優しげな笑みを浮かべる。
ノートから顔を上げた私は、甘やかな瞳と視線があってしまって、不覚にもドギマギしてしまう。
あの日――、秀先輩と会った私は、先輩とは付き合えないこと、奏のことを好きになり始めていることを告げた。
まだ秀先輩のことは好きだけど、それはなんだか、先輩が私のことを妹みたいと言った言葉に近い気がした。
今でも初めて会った時のことを覚えている――
ノンフレームの眼鏡の奥に見える優しげな瞳に吸い込まれそうになって、見とれてしまったこと。ふわりとやわらかい雰囲気をまとって、人懐っこい笑顔が印象的だった。
優しくて、いつも私のことを気にかけてくれていて、頼りになる先輩で、七海を間に挟まなくてもちゃんと話せる初めての男性だった。
憧れから始まった気持ち。秀先輩といると心がほかほかして楽しくて、嬉しい気持ちが増えていって、大好きだなって素直に思えた。だけど。
奏は――奏のことを思うと嬉しいのに、切なく胸が締め付けられて、自分でもどうしようもない強い気持ちに戸惑うばかりだった。
奏のことが好き――
それが私の、今一番強い気持ちだった。
私が話す間、秀先輩は静かに話を聞いてくれて、そしていつものふわりと優しい笑みを浮かべて言ったの。
「羽鳥の気持ち、わかるよ。分かったから」
って。
「だけど俺も、自分の気持ちをもう誤魔化せない。羽鳥が俺のことを先輩としてしか見ていなくても、俺は羽鳥が好きだから。時々でもいいから、これからも一緒に出かけたりしたい。望みがなくても――友達としてでも」
真摯な言葉がまっすぐに伝わってきて、はかなげな微笑みが胸に沁みて、泣きそうだった。
私の気持ちを理解してくれて、秀先輩を傷付けた私とこれからも良好な関係を築いていこうとする深い思いやりに心が打たれた。
そんなわけで、私は冬休みの間、秀先輩にこうして分からない課題を教えてもらうことになったのだった。
私は手に持っていたシャーペンをテーブルに置いて、ずっと尋ねてみたいと思っていたことを口にする。
「あの、秀先輩にお聞きしたいことがあるんですけど……」
私の言葉に、秀先輩はふわりと優しい笑みを浮かべて振り仰ぐ。
「なに?」
その瞳が愛おしそうに揺れているのを見て、たまらなかった。
「えっと……」
もぞもぞっと膝の上に置いた手をいじり、それから秀先輩の後ろの壁に描かれたラベンダーブルー色のベルの形をしたスズランに似た花の絵を見上げる。
「秀先輩って、ブルーベルには来るのは初めて……ですか?」
お店の名前の由来でもあるブルーベルの花が、本当に一面に咲いているように色鮮やかに描かれている。
「いや。時々、来るよ」
期待どおりの答えに、ごくんと唾を飲みこんで、私は拳を強く握りしめる。
今日、会う約束をした時、秀先輩からブルーベルで勉強をしようと言われた時から、ずっと気になっていて、ずっと聞きたかった言葉が喉まで出かかって、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「あの……前に、ここで私と会ったことありますか?」
「ん?」
首を傾げた秀先輩の茶色い瞳の上に、日に透ける細くて柔らかい髪がかかって、茶色の瞳に美しい影をつくる。
「その……私が酔っ払って……」
酔っ払ったなんて恥ずかしい話をしたくなかったけど、秀先輩が以前にもブルーベルに来たことがあると聞いて、あの時、私を家まで送ってくれたのはやっぱり秀先輩なのではないかという確信に心を震わせて話したのだけど――
「羽鳥もここには来たことあるんだな。だけど、会ったことは――ないよね」
斜めにこっちを見つめた秀先輩の瞳に甘い笑いがにじんでいる。くすりと笑って、いたずらっぽい声で言う。
「酔っ払ったんだ? 羽鳥はお酒飲めないのかと思ってたけど、酔うまで飲んだりするんだな」
送ってくれたのは秀先輩じゃなかったという残念な気持ちと、酔ったという醜態を知られてしまった恥ずかしさに顔を赤らめて僅かにうつむいた。
秀先輩じゃなかった。秀先輩だと思ったのは夢? やっぱり私は一人で帰ったの? それとも――
考え込んでしまった私の鼻先に、香ばしさの中に混ざったフローラルな香りが漂い、ぱっと顔を上げる。
そこには、白シャツに黒ズボン、腰に黒いロングエプロンを巻いた奏がトレンチを片手に持ち、眩しいほどの営業スマイルを浮かべているから――私はぴくっと肩を揺らして体を縮込める。
実は――クリスマスイブ、ハンカチを返してもらい、逃げるように帰ってから奏とはまともに話していなかった。もちろんブルーベルにも来ていない。
誰もが見ほれるような艶やかな笑顔を浮かべた奏が、なんだか嘘っぽくて逆に私には怖い。
「お待たせ致しました。おすすめブレンドでございます、ブルームーンブレンドでございます」
丁寧な口調で言い、流れるような流暢な仕草でトレンチからコーヒーカップを二つテーブルに置いた奏は、トレンチを体の脇に持ちお辞儀する。顔を上げた奏の端正な横顔に一瞬、もどかしげな影が浮かんで消える。それから。
「酔っ払ったお客様を自宅までお連れしたのは俺です」
なぜか営業口調で言われ……
じゃなくて、えっ!? 奏が――
久しぶりに飲む大好きなブルームーンブレンドのカップを口に近づけようとしていた私は、衝撃の事実にカップに歯をぶつけ、痛みに片目を閉じて口元を手で押さえる。
そんな私を奏はくすりと鼻で笑って、艶やかな瞳を向ける。
「それから――れいが好きなそのブルームーンブレンドを作っているのは俺ですからね」
そう言った奏の美しい瞳の中に、私を射とめるような、うっとりするほど甘い光がきらめいたから、私は口に含んだコーヒーにむせる。
「奏、が……?」
「ええ、れいは俺のことを“秀先輩”――と勘違いしていたみたいですが。閉店まで飲み、酔いつぶれていたのを、家まで運びました」
「家までって……だって、奏はあの時、まだ私の家を知らなかったはずじゃ……」
「家が近くですから。たまたま近くを通りかかった時に知っていただけです」
言って、私から秀先輩にちらっと視線を流した奏は不敵な笑みを浮かべる。
「れい――」
名前を呼ばれて振り仰ぎ、強く見据える魅惑的な瞳と視線があってしまって、心がきゅっと締め付けられる。まっすぐに見つめる切れ長の黒い瞳には力があって、なんだかぞわりと背筋が震えてしまう。
だって、あまりに素敵な瞳に見つめられて、好きだって、口から想いがこぼれてしまいそうで怖かった。
もし、奏に、私のことを好きだと言った言葉が過去の想いだと言われたら悲しすぎるから。そんな言葉は聞きたくなくて。
なにか言いたそうに私を見つめる瞳から逃れるように慌てて席を立ち、トイレへと駆けこんだ。