第21話 恋色ダイス―恋を始める距離
沈んだ気持ちで買出しを終えて電車に乗り込む。画材店があったのは学校がある運河駅から五駅離れた柏駅で、現地待ち合わせだったから駅で分かれるのかと思ったら秀先輩は買った物を学校まで運ぶと言ってくれた。
「どうせ、俺もサークルに顔出すから」
そう言った秀先輩の顔がなんだか寂しげに見えたのは気のせいだろうか……
部室に着くと七海が一人で雑誌を読んでいた。
「あれ? れい、今日はギリギリに来るって言ってなかった?」
「あー、うん、そうなんだけど……」
歯切れ悪く言って部室に入った私の後ろにいる人物を見て、七海が大きく目を見開く。
「えっ、あっ……秀先輩、こんにちはっ」
言いながら姿勢を正して頭を下げる。
三年生は十月の歓送会を終えて引退ということになっているけど、実際は夏の合宿を最後に研究室が忙しくて来なくなる人が多い。
九月からは三年生の出席は減って、二年生が最上級学年ということになっていて、目の前に現れた秀先輩に驚き、寛いでいた事への少しの後ろめたさから七海は居住まいを正した。
「こんにちは、猿渡。今日は俺もサークルに出ようと思ってね」
「あっ、そうだったんですか」
どもる七海にふわりといつもの優しい笑みを浮かべた秀先輩は、部室の奥へと行く。
「ちょっ……れい、どういうことよ!? なんで秀先輩と一緒に来たの!?」
肩の服を掴まれて側に引き寄せられ、七海に小声で尋ねられる。その瞳は好奇心を丸出しで、私は思わず苦笑する。
「えっと、かくかくしかじかで――歓送会の買出しを手伝ってもらいました」
手に持っていたビニール袋を持ち上げて、ぺこっと頭を下げる。
部室の奥に行っていた秀先輩が顔を出し。
「羽鳥、この荷物はここらへんに置いておけばいいかな?」
そう言って手に持っていた大容量のビニール袋を奥の空いている棚へと置く。
「はいっ、荷物持って頂いてありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
秀先輩は星の輝きの瞳を和ませ優しい笑みを浮かべるから、私もつられて微笑み、二人の間にほんわかした雰囲気が流れる。
だけど、そんなことに気づいていない七海が私と秀先輩の交わる視線の中に入り込んでくる。
「あっと、購買部に用事があるの忘れてた、れいもついて来て。秀先輩、すみません、サークル始まる時間には戻るので、お願いしますっ」
そう言った七海は、有無を言わせずに私の腕を引っ張って部室を出て行った。
「ちょっと、なに? どういうこと? どうしてれいと秀先輩が一緒に買出し行ってるのよ!?」
購買部と隣接する学食の一席で、興奮気味に捲し立てる七海を上目使いに見て、私はお茶を静かにすする。
「だからね、秀先輩に一緒に出かけようって言われてて、本当は映画に行く予定だったんだけど予定が合わなくてのびのびになって、これ以上伸ばすのもあれだしってなって、今日私が柏に行く用事があるって言ったら一緒に行こうってことになったの。それで買出し手伝ってもらって、サークル出るからって部室まで荷物持ってもらって……」
順序立てて説明する私の言葉を遮って、七海は悩ましげに額に手を当てる。
「なにそれ……れいって秀先輩に振られたんじゃなかった?」
「うん……」
「でも、二人で出かけたいって言われたんだよね? それってさ――秀先輩はれいのこと好きって事じゃないの?」
真剣な表情で言った七海を私は呆然と見つめ、それからあいまいに笑って首をかしげる。
「どうだろう……」
「どうだろうって、なによー。やる気ないわねぇ……れいさ、夏休みにこのままの関係でいいって言ったじゃない? 振られても好きな気持ちは変わらないって。引退してからも時々会えればいいって言うけどさ、そんな悠長なこと言ってたら、そのうちきっと後悔するよ」
「後悔――?」
七海の言葉がなんだか胸に深く突き刺さる。
このままでいたらダメ――なんだか警告にも似た言葉に胸がじくじくと痛み始める。
「私はさ、れいには幸せになってほしいと思って辛い恋なら諦めなって言ったよ。新しい恋を見つけるために嘘ついて合コンにも連れて行ったけどさ――前言撤回っ! きっとさ、秀先輩はれいに告白されて女性として意識するようになったんだよっ」
「そんな、七海の買いかぶり過ぎだよ……」
先輩が私に少しでも好意をよせてくれてたら嬉しい。だけど、それは七海の想像の域を出ないとこの話で、私は苦笑する。
「そんなことないってっ! げんに、今日だって二人で出かけたならデートだよ! デートに誘うなんて好きだからだよ。先輩はまだ自分の気持ちの変化に気づいていないだけで、妹よりももっと特別にれいのことを見てると思うよっ!」
自信満々に言った七海が、私と視線があって首をかしげる。
「れい――?」
その時の私はどんな顔をしてたんだろうか? 諦めた顔、嬉しい顔、悲しい顔――そのどれもだったかもしれない。
七海が片眉を上げて、訝しげに私を見据える。
「なに? なにかあったの――?」
秀先輩のことよりも、今、私の胸に占拠した気持ちがどんどん大きくなって苦しかった。
「七海……私、ね……聞いてほしいことがあるの……」
掠れた声を必死に絞り出す。泣きそうで唇をきつく結んでから、顔を上げて七海に話し始めた。
「ブルーベルの従業員の――辰巳さんって分かる?」
「ああ、同じ中学出身の辰巳君のこと?」
「七海、気づいていたの!? ブルーベルで働いてるのが同級生だって……」
「ううん、まさか。お店で会った時はぜんぜん気づいてなかったよ。だから合コンで話した時に彼から言われてびっくりしたわ。辰巳君とは中二の時同じクラスだったけど、その時と印象が違いすぎてぜんぜん気づかなかった。すごいイケメンになったよね」
七海が奏に気づいていたのか確かめたかったんだけど、気づいていなかったと聞いて私だけじゃなかったんだとなんだか安心する。
「で、辰巳君がどうかしたの?」」
きょとんとした顔で尋ねる七海に、私はどう話を切り出そうかと戸惑う。
私が奏と初めて同じクラスになったのは高一の時で、その時七海と私はクラスが別だったから、奏が転校したことも、最悪の記憶の告白相手が奏だとも七海は知らない。
だけど、七海がたった一度同じクラスになっただけの奏のことを、今の奏とすぐに一致しないにしてもしっかりと覚えていたことに驚く。私なんて告白された時点でだって奏と同中だったことも知らなかったのに――
まあ、私は人見知りで人の顔と名前を覚えるが苦手ではあったけど。
黙り込んでしまった私に、七海は急かすでもなく辛抱強く待ってくれた。そんな七海の優しさに、私は思い切ってすべてを打ち明けることにした。
高一の時告白してきたのが奏だったこと、再会し二度目の告白をされたこと――
「復讐されたのよ――」
私の言葉に、ずっと静かに聞いていた七海の瞳が鋭い光を帯びてギラリと光る。
しばらく黙り込んだ七海は、顔を上げて私をまっすぐに見つめる。
「そうかな――? 辰巳君ってそういうことする人には思えないけど?」
あまりに意外な言葉に、私は数回目を瞬く。
「一度しかクラス一緒になったことないし、そんなに話した記憶ないけど。彼ってさ、真面目で思いやりのある人だったと思うよ。合コンで会った時も、すごく感じ良かったし、悪だくみとかして人を騙すようには見えない……」
「だけど――っ」
首を傾げて言う七海の声に被さって、私は悲痛な声を上げる。
「そうとしか思えないよ。奏には好きな人がいるって言ってたんだよ? それなのに私に好きだとか言ってキスするなんておかしい――……」
心が張り裂けそうな悲鳴のような声で言った私を、七海が真っ正面から見据えてくる。私はなんだか胸がドキドキとして、背筋がざわざわする。七海はふぅーっと大きなため息をついて俯き、上げた顔には複雑な笑みを浮かべていた。
「辰巳君のこと――好きなんでしょ?」
呆れた様な口調で七海が言い、すっと私にハンカチを差し出した。
ラベンダー色の四隅に刺繍の施されたハンカチ。見覚えのあるそのハンカチを見つめ、七海を見上げる。
「れい、泣いてる――秀先輩のこと話す時はそんな顔しなかったね。好きに……なっちゃったんだね、辰巳君のこと」
七海に言われてはじめて、自分が泣いていることに気づく。差し出されたハンカチを受け取って、目元を拭う。
私が落ち着くのを待って、七海が苦笑する。
「ずっと悩んでたのは辰巳君のこと? ブルーベルに行かないって言ってたのも辰巳君に会いたくないから?」
私は喋ったら、また涙がこぼれてきそうで、頷くだけで返事をする。
「悩んでるなら、私がいつでも話聞くし相談に乗る。でも、もやもや悩んでるだけじゃ何も解決しないんだよ? 怖くってもさ、本人にちゃんと聞いてはっきりさせた方がいいよ。何か事情があったのかもよ? ねっ、辰巳君に会いに行きな――」
諭すような静かな七海の声に、目元をハンカチで押さえる。その裏側で涙が溢れてくる。私は小さく頷いて、決意を固める。
はっきりさせる。
ブルーベルに行くわ――