第2話 ラベンダーブルーの薫り
翌朝目覚めると、一人暮らしするアパートのベッドの中だった。
いきつけのカフェバーで酔いつぶれて、秀先輩に家まで送ってもらったような気がするけど、夢だったのかな――
そう思ってベッドから抜け出て、洗面台に行く途中の姿見の前で動きを止める。
鏡には、ふわりとうねる肩まで伸びた髪の毛、白い肌、二重で日本人にしては茶色い瞳が目立ち、白地に小花柄のプリントの半袖丸襟シャツに黒い細身のパンツを履いた私が映っている。
私の格好は昨日の服のままで、心なしか頭痛がする。
ゆめ、じゃ、なかった――!?
酔いつぶれたんじゃなければ、着替えずにそのまま寝るなんてありえなくて、その結論に辿り着く。
※
「あっはー、笑える!」
大学の講義室。二限目が終わって昼食を食べている七海があまりに大きな声で笑うから、その声が頭に響いて私はぎゅっと唇をかみしめて不快感を表す。
だんだん夏らしい気候になり、この前までは中庭で食べていた昼食も暑すぎて外では食べられなくて、冷房のきいている講義室に避難してきた。
「確かに笑えるかもしれないけど……ひどい、笑いすぎだよぉー」
私はミネラルウォーターのペットボトルを片手に椅子の背もたれに体重を預けてうなだれる。
人生で初めて経験する二日酔い――少しの頭痛と胃もたれ。何も食べる気になれなくて、朝から水しか飲んでいない。
ご飯を食べない理由を聞かれて、昨日カフェバー『ブルーベル』で酔いつぶれたことを話したら、七海の笑いつぼを刺激してしまったみたい。
「だって、れいが、ザルのれいが酔いつぶれたなんて相当飲んだんでしょ。いやぁ~、酔いつぶれたれい、見てみたかったな」
七海とは中学からの付き合いで、家もわりと近いし一番仲良い親友だと思う。背中に流した長い黒髪と、大きな黒目が印象的な綺麗め女子。私と違ってさばさばしてて、男子とも女子ともすぐに打ち解けてしまう羨ましい性格。人見知りで男性が苦手な私は、だいたいいつも七海の後ろに隠れて、七海を通して初めての人とは会話をする。ってか、そうじゃないと、まともに話せないの。
一つ前の座席に机を挟んで座った七海は、頬杖をつきながら言う。
「で、秀先輩に送ってもらったって?」
「それが、覚えてないんだ……秀先輩だった気がするけど、秀先輩が私の事を迎えに来るはずがないでしょ?」
昨日は酔っ払ってて現実と願望の境がおぼろげで、話しかけてきたのが秀先輩だって思いこんでいたけど、冷静に考えてみれば秀先輩じゃない確率が高い。
だって、秀先輩は私がブルーベルにいるなんて知らないだろうし、迎えにくる理由がない。もし来たとしても私のアパートを知らないはずだから、家まで送るのは無理だ……
「やっぱり夢だったのかな……」
考えれば考えるほど、結論は夢ってことになる。
「じゃ、酔いつぶれてどうやって帰って来たの?」
「自力で――?」
そう答えて、苦笑する。自力は無理そうだけど、それ以外に考えられないもの。
※
カフェバー『ブルーベル』は、私――羽鳥 れいが通う武蔵野理科大学と最寄りの運河駅の中間にある。
茶色を基調にして揃えられたアンティーク家具の店内は落ち着いた雰囲気。コーヒー豆の種類を数多くそろえるコーヒー専門店なんだけど、サイドメニューやアルコールメニューが豊富で、特にニューヨークチーズケーキは最高においしくて、週に一回は食べに行ってるんじゃないかな。
初めてブルーベルに行ったのは一年前の夏。七海が「素敵なカフェを見つけた」と言って私と七海と他に学科の友達が四人の計六人で訪れた。利根運河沿いの道から一本裏道に入った場所に、木々に囲まれたオープンテラスがある喫茶店があった。
黒い縁の硝子扉をあけると、西部劇に出てくるバーのような木の床とカウンター、天井にはお洒落な茶色いライト付きのシーリングファンが取り付けられている。店内の至る所に観葉植物が置かれ、壁にはラベンダーブルー色のベルの形をしたスズランに似た花が描かれていた。
「ねぇ、ここが?」
「きゃー、こっち見たっ!」
友達がそわそわと囁く中、私はラベンダーブルーの花に見入って壁に近寄る。壁一面に描かれた花はまるで本当にそこに咲き誇っているようで、匂い立つ美しさがある。
「この絵、気に入って頂けましたか?」
ふいに声をかけられて、びくりと肩を震わす。壁の絵から声のした方に視線を向けると、三十代半ばのがっしりとした体格で顎に髭を生やし、艶やかな少し長めの黒髪を無造作に流した男性がカウンターからこっちに歩いてくる。
「えっと、あの……」
なんと答えたらいいか分からなくて、というか話しかけられるとは思ってなかったからてんぱってしまう。
「綺麗な花ですね……」
なんとかそう言うと、目元を和ませた男性が壁に視線を向ける。
「“ブルーベル”というイギリスで初夏を告げると言われている花ですよ。開花の時期になると森一面に咲き、ブルーの絨毯のようでとても美しい風景になるんです」
ブルーベル――お店の名前の由来が分かって、男性がこの花をすごく好きだと言う事が伝わってくる。
私は人見知りするし男性は苦手なんだけど、お互い花の描かれた壁に視線を向けているから、緊張感が薄れる。
ブルーベルの壁画にはそれだけ魅力があって、ついつい見とれてしまう。しばらく二人して壁の絵を見つめていると、若い男性の声が聞こえる。
「虎沢オーナー! なに、お客をナンパしてるんですかっ」
「ははっ、辰巳じゃあるまいしナンパなんかしないよ」
オーナーと呼ばれた男性は声をかけてきた男性の首に腕を回して体を引き寄せ、じゃれあう。
えっ、ナンパ――!?
その言葉にビクリしていると、オーナーがにこりと優しい笑みを浮かべて私を見、窓側の席を顎で指す。
「お友達、あっちの席にいますよ」
「あっ、ありがとうございます」
私は慌ててお礼を言い、七海達が座る席へと向かった。
「わー、オーナーもイケメンっ!」
「私は、あの彼が格好いいと思う!」
私は七海の隣の席――通路側から二番目に座る。注文をしてから、みんなはそんな会話で盛り上がっている。
「ねえ、れいちゃん。さっき、オーナーと何話してたの?」
向かいに座る桃花ちゃんに聞かれて、私は首を傾げて答える。
「えっと、壁に描かれた花の名前を教えてもらったの」
「それだけ? れいちゃんはオーナーみたいなタイプが好みなの?」
と聞かれて……困ってしまう。助けを求めるように隣の七海に視線を向けると。
「あー、ないない。れいは男性が苦手だから、好きなタイプとかないから」
助け船を出してくれたんだけど。
「えっ、そうなの? れいちゃんって男性恐怖症!?」
なんか逆に興味を持たれてしまう。
「恐怖症って程のことではないんだけど、もともと人見知りだし、なんか男の人は苦手で、話すの緊張するっていうか……」
もごもごっと最後の方は声がしぼんでくる。
「まあ、話すの緊張するっていうのは分かるけど……ほら、あの店員さんも、あの店員さんも、あっちの店員さんも! すごく格好良くない!? そういう風に思わない?」
桃花ちゃんに瞳をキラキラと輝かせて聞かれ、苦笑するしかない。
あの店員さん――って言われても、私は視力が悪くて、そんなにはっきり顔が見えないんだよね。コンタクトか眼鏡をしたらいいんだろうけど、裸眼で生活しても少し見えにくいだけで特別困ることはないし、授業の時しか眼鏡をかけていない。
だって周りの人の顔が見えない方が、まだ少しは人見知りしないでいられるというか。
ってか、そっか。ここの店員さんはみんなイケメンなんだね……
興味が惹かれた訳ではなくて、七海が「素敵なカフェ」と言った理由が分かって納得する。七海は三度のご飯よりイケメンが大好き、美男子が大好きなんだ。
「男性を苦手になったきっかけってあるの?」
なぜか私の話は続行していたらしく、桃花ちゃんに聞かれて、私は記憶の手綱を引っ張って高校生の時の記憶を引っ張り出す。
「高校生の時……名前を呼ばれて振り返りざまに好きでもない男子にキスされてね。それがファーストキスで、今では相手の名前も顔も思い出せないんだけど、もしかしたら、それが原因だったのかもしれない」
正確には、もっと前から男の子は苦手だった。ただそれまでは話したり一応出来てて――その出来事があってからは、七海を間に挟んでじゃないと男子とはまともに会話も出来なくなってしまった。話しかけられるとびくびくしちゃうし、目も見られなくて、すごく悪い態度になっちゃう。
「あー……」
私の話を聞いて、みんなが渋い顔をして憐みの視線を向ける。
「ファーストキスがそんな苦い思い出だったら、男性恐怖症になったのも頷けるかも」
桃花ちゃんが同情して頭を優しくなでてくれたんだけど、七海が余計な一言を言う。
「そんな男性恐怖症のれいにはねぇ、好きな人がちゃんといるのよね~」
にたぁーっと頬を歪ませて口元に手を当てて横目で私を見る七海に、かぁーっと顔が赤くなる。
「なっ、余計なこと言わないでよ……」
「お待たせ致しました」
七海の口を塞ごうと伸ばした手を、男性の声が聞こえて、ぱっと引っこめる。
「モカ・クラシックでございます。紫陽花ブレンドでございます」
そう言った店員の声は澄んでいて、隠れた七海の背中から向かいの席に座る三人に視線を向けると、みんなぽぉ~っと店員を眺めている。声もすごく素敵だけど、顔もきっと格好良いんだろうな――なんて想像して、まぁ、興味ないけどねって、テーブルに次々と置かれるコーヒーに視線を向ける。
店内だけでなく、コーヒーカップの一つ一つもデザインが違い、お洒落で可愛い。
「本日のおすすめブレンドでございます」
私の注文したコーヒーが置かれて、七海の背に隠していた顔を少しだけ覗かせて、湯気の立つコーヒーカップを眺める。
「アイスコーヒーでございます。ごゆっくりどうぞ」
すべての注文を置き終え、お辞儀をして店員は戻って行った。
「すごくいい香り……」
そう言ったのは私じゃなくて七海で、首を動かし七海の顔を見つめる。
その視線の先に、カウンターに戻っていく半袖の白いYシャツに黒ズボン、腰に黒いロングエプロンを巻いた男性の後ろ姿がある。遠目でも分かるさらさらの黒髪は上半分だけ――ハーフアップって言うのかな――が結ばれている。
「あの店員さん、すごくいい香りがした……」
ぽつんと呟いた七海の言葉に、私は首を傾げた。
―人物紹介―
◆猿渡 七海
れいの中学からの親友、イケメン大好き、武蔵野理科大学二年