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第10話  レシュノルティア―笑顔の理由



 食べ終わったランチ皿をテーブルの端に寄せ、再び参考書とルーズリーフを取り出して勉強を始める。参考書の一つを手前に引き寄せてぱらぱら捲って、目的のページを見つけてシャーペンを握ってルーズリーフに書き映す。

 半袖の上に着たカーディガンの襟元を引き寄せて、前を合わせる。

 夏場に冷房のきいた喫茶店で長袖のカーディガンを着こんでコーヒーを飲むっていう図はどうかと思うけれど、家や図書館で勉強するよりもカフェ(ここ)が落ち着くから。

 それになにより、コーヒーが美味しくて落ち着くここに来ずにはいられなかった。

 時々、参考書をめくる手を止めてコーヒーを飲む。カップが空になったことに気づいて顔を上げると、ちょうど近くを通りかかった辰巳さんと視線が合う。

 トレンチの上に乗っている下げた食器をカウンターに置くと、近づいてきた。


「食器、お下げしてもよろしいですか?」

「はい」

「夏休みの宿題ですか?」


 器用に片手で持ったトレンチに食器を下げる辰巳さんに聞かれ、くすりと笑う。

 夏休みの宿題――という響きが懐かしくて。


「そうですよ」

「どこか旅行にでも行かれるんですか?」


 唐突な質問に首を傾げて、辰巳さんの視線の先を追ってテーブルの脇に置かれた小型のスーツケースを見ている事に気がついて苦笑する。


「いえ、旅行じゃないです」


 その言葉では説明不足に感じて付け加える。


「サークルの部室に置き忘れていた合宿の荷物を取ってきたんです」

「置き忘れていた荷物……」


 辰巳さんは怪訝に聞き返し、私はスーツケースを見つめてふわりと口元を綻ばす。



  ※



 遡ること二日前――合宿の次の日。

 お酒のせいなのか、失恋して泣いたせいなのか、体がだるくて。だけど重いしこりが解けて軽くなった心でバイトに向かい、帰り支度をしている時に携帯のバイブレーションが鳴る。

 カフェ・ブルーベルで秀先輩の電話を無視してから約一日、ずっと携帯電話に触れていなかったことに気づいて慌てて携帯を開く。

 着信は七海からのメールだったけど、それよりも早い時間――正確には十三日に着信が二件とメールが一件あって、どれも秀先輩からだった。

 秀先輩の電話を無視してしまった事に少しの罪悪感を覚え、躊躇いながらメールを開く。着信は無視した一回目の着信の数分後、メールはそのすぐ後の時間だった。


『From:犬飼秀先輩

 subject:無題

 本文:電話にでないから、心配でメールした。

    学校に鞄を置き忘れていたから届けようと思ったんだけど、今は俺に会いたくないよな……

    鞄は部室に置いたから安心して』


 メールを読んで初めて、合宿に持っていったスーツケースを食堂の前――秀先輩と話していた場所に置いたまま帰ってきてしまったことに気づく。

 秀先輩から二回も着信があったのは、鞄を忘れたことを伝えようとしてくれてたんだ。それなのに私ったらずっと電話を無視して。

 秀先輩の気遣いにちくりと胸が痛む。

 カーソルを動かすと、メールにはまだ続きがあった。


『さっきはごめん……ありがとう。羽鳥が俺のことを好きでいてくれたなんて全然気づいていなくて、正直驚いたけど嬉しかった。

 羽鳥の気持ちには答えられないのに、いままで通り仲の良い関係でいられたらいいと思うのは俺のわがままかな……?』

 

 秀先輩の言葉がじわりと胸に広がっていく。

 失恋してしまった――

 私の気持ちに秀先輩が答えてくれることはなかったけれど――

 ちゃんと気づいて、受け止めてくれた。秀先輩なりに私との関係を『仲がいい』と思ってくれてて、これからもそうでありたいと思ってくれたことが嬉しかった。

 失恋してもう普通に話す事も出来ないとかと思っていたけれど、秀先輩が今まで通りを望むのなら、それもいいか――と思う。

 秀先輩が私に優しくしてくれるのが、妹みたいに可愛がってくれてたからだっていう事実は寂しい。

 私の好きと、秀先輩の好意は違うもので、その気持ちが交わることはないのは切ないけれど。

 たとえ両思いになれなくても、いままで通りでいられるのなら、話す事も出来なくなるよりはいいと思った。

 秀先輩があまりに優しいから、このままでいいと思った――

 失恋した夜からずっと胸にくすぶっていた重たい気持ちがすぅーっと爽やかな風に吹かれたようになくなって、清々しい気持ちになる。

 辰巳さんが頑張ったねって慰めて励ましてくれたおかげもあると思う。

 私は勇気を出して、携帯の着信履歴を押して電話をかける。

 プルルル、プルルル……と耳に小気味良い音が響く。

 しばらく鳴った後。


『もしもし……?』


 耳の奥で響く大好きな声に心を震わせて、瞼を閉じる。それから瞳をあけて言う。


「秀先輩ですか? 羽鳥です」


 緊張して声が震えるけれど、ギクシャクした言い方にならないように心がけて、精一杯明るい声を出す。


「電話出れなくてすみません。鞄ありがとうございました、明日、取りに行きます」

『……っ』


 少しの沈黙の後、ふわっと温かな笑い声が聞こえて、胸に熱い物が込み上げてくる。


『メールちゃんと読んだんだな……安心したよ』


 安心した――その言葉が私自身を言っているように感じて、秀先輩の優しさに胸が詰まって泣きそうになる。

 こんなに好きな気持ち――そう簡単になくせない、と思った。

 秀先輩のことがどうしようもなく好きで、ずっとずっと、側で笑顔を見ていたいと思ってしまう。

 気持ちを伝えるだけで精一杯だったはずなのに。失恋したのに。欲深い自分に苦笑する。


「はい、ご迷惑かけてすみません」

『いいんだよ。それより……』


 そこで一度言葉を切った秀先輩が、少し掠れた声で尋ねてくる。


『今度、一緒に出かけないか?』


 そんな誘いを受けたのは初めてでぱっと顔を輝かせ、それから秀先輩が私のことを妹みたいと思っていることを思い出して、ぬかよろこびにならないように自分で自分に釘をさす。

 後輩としてのお誘いなんだ、変に喜んじゃいけない――


「はい、大丈夫ですよ。どこか行きたい場所があるんですか?」


 嬉しい気持ちを隠して、平静を装う。


『うん……そうだね、詳しい事はメールするよ』

「わかりました。じゃあ、失礼します」

『ああ。またね、羽鳥』


 名前を呼ばれただけで体の芯が震えてしまう。

 電話を切って机に寄りかかり、はぁー大きなため息をつく。

 座っていたのに緊張でいつの間にか立ち上がって電話していて、額に滲んだ汗を手の甲で拭う。手のひらに握りしめた携帯を見つめて、思わず笑みがこぼれる。

 普通に話せた――ただそれだけが嬉しくて、秀先輩の変わらない優しさが温かくて、出かけようと誘われたことが心を弾ませる。



  ※



「実はこの前お店に来た日は合宿の帰りだったんです。ちょっといろいろあって……」


 そこで辰巳さんに視線を向けて、きまり悪い笑みを浮かべる。


「慌てて学校を出てきたので鞄を忘れちゃったんです。で、先輩が部室に置いといてくれたのを今日取りに行って来たんです」


 いろいろイコール失恋だと気付いた辰巳さんが片眉を上げて心配そうに私を見つめるから。


「はは……、心配しないでください」


 両手の指を伸ばしてから汲んで、顎にあてる。その動作をゆっくりとやって、口元を和ませる。


「まだ気持ちの整理がついたわけじゃないんです。好きな気持ちは変わらず私の中にあって。でも、辰巳さんに話を聞いてもらって、すっきりしました」


 汲んだ手に視線を落としていた私は、ぱっと顔を上げて笑いかける。


「落ち込んでなんていられないって思えたのは、辰巳さんのおかげです。ありがとうございます」


 視線の先で、星空の瞳が大きく見開かれて和んだのを見る。


「俺は話を聞いただけですよ……」


 謙遜する辰巳さんに、私は首を振る。


「話を聞いてもらっただけで嬉しかったです。だって辰巳さんは、私の男友達第一号なんです」


 胸を張って誇らしげに言って、私はその時の辰巳さんの一瞬の表情の変化に気づいていなかった。


「友達第一号……」


 ぽそっと返された言葉に、えへへっと笑う。


「こんな風に話せる男の人っていなかったんですよね。嬉しいなぁ~、辰巳さんと知り合えて、あっ……同い年なのに辰巳“さん”って呼び方は変かな。辰巳君か、奏君……とか?」


 一人でぶちぶち言って顔を上げると、辰巳さんがきょとんとした顔で私を見ているから、小首をかしげる。


「ダメ……ですか? 名前で呼ぶなんてずうずうしいですか?」


 尋ねると、数回目を瞬いてから辰巳さんが妖艶な笑みでにやりと笑う。


「構わないですよ、奏で。それよりも、同い年なんですから敬語じゃなくていいですよ?」


 そう言いながらくすりと笑った辰巳さんは、自分も敬語で話している事に気づいていないのだろうか……なんて疑問に思いながらも、うーんと顎に人差し指を当てて考える。


「じゃ、奏。私のことも下の名前で呼んでいいからね」

「わかりました」


 そう言ってなんとも言えない複雑な表情で笑った奏を、ずっと忘れられなかった。




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