第1話 最悪の記憶
あれは高校一年の春――
高校生になって二週間くらい経った頃だった。
下校時間を過ぎ校内を歩いている人はまばらで、校舎から校門に続く桜並木をゆっくりと歩いて行く。並木道の隣の運動場からは部活をやっている生徒の声が聞こえてくる。
青い空に雪のように白く映え、うっすらと紅に染まった桜の花びらが、風に乗ってくるくる舞い落ちてくる様子があまりにも綺麗で、空ばかりを見上げて歩いていた。
だから後ろから声をかけられて、最初は自分を呼ばれているんだと思わなかった。
「羽鳥さん――っ!」
振り向くとすぐ目の前、息が触れそうな距離に男の子が立っていた。身長は私とさほど変わらない、黒く量のある髪は少しうっとうしそうに目にかかり、眼鏡の奥の瞳は見えない。
えっと確か、彼は同じクラスの――そう考えたのは振り向いてからほんの一秒くらいの間で。
振り向きざまに、彼と私の唇が触れる。
――っ!
私は驚いて、ばっと体を後ろにそらして彼との距離を開ける。
振り向いた時、あまりに彼が近くにいて触れてしまっただけかとも思ったけど、彼が私との距離を一歩ずつ詰めてくるから、彼が纏う雰囲気から、事故じゃなくて故意にキスしたんだと伝わってきて、背中がひやりとする。
「羽鳥さん、好きです」
そう言われた瞬間――私は彼に背を向けて走り出していた。
私のファーストキスが……!
振り向きざまにキスされてしまったことがあまりにもショックで、それ以外なにも考えられなくて、夢中で駅まで走って家に帰った。
だから今では、彼の名前は思い出せないし、顔すらおぼろげにしか思い出せない――
※
昔の嫌な記憶を思い出したのは、気分が沈んでいるからかもしれない。
サークルで資料として一冊三万七千円する本を買うことになって発注を頼まれたんだけど、一冊買うはずが十冊注文してしまい――先輩にはそこまで言わなくてもってくらい怒鳴られまくり、気持ちはへこへこに沈んでいた。業者さんに頭を下げてどうにか返品してもらうことが出来たけど、さすがに今日は飲まずにはいられなかった。
いきつけのカフェバー『ブルーベル』でビールを頼んで次から次へと喉に流しこんでいく。
大酒のみの父親の遺伝なのか、お酒には強くていくら飲んでも顔が赤くなったりはしない。女の子なのにお酒が強いなんて可愛げがないかもしれないけど、飲めても私はあまりお酒が好きではない。このカフェバーに来てもいつもは――というか今までは、コーヒーしか頼んだ事がなかった。
だけど今日は飲まずにはいられなくて、やっていられない気持ちを誤魔化するように瓶が空になれば追加を頼み、すでに机の上には空き瓶が何本も溜まっている。
いつもみたいに親友の七海が一緒にいれば「飲みすぎだよ」って止めてくれたかもしれないが、残念ながら七海は今日はバイトで一緒にいない。
ぼぉーっと見つめる視線の先、店内はぼやけてよく見えない。そんなに飲んだつもりはないのに頬が火照って、思考が鈍くなる。
空になったグラスを机に置き、くにゃりと力の入らなくなった体を机の上に乗せて頬杖をつく。
お酒に強いっていっても、普段飲まなかったら弱くなるものかしら――
それとも、気持ちが弱っているから、こんなに泣きたい気分になるのだろうか――
目の前のぼやけた視界に人影が近づき、何か話しかけられる。
「――――っ」
なんと言ったかは聞こえないけど、知っている声に、私はふわっと微笑む。
「秀先輩……」
サークルの三年生、犬飼 秀先輩。すらりと長身で、ノンフレームの眼鏡の奥に見えるのは優しいこげ茶色の瞳。日に透ける細くて柔らかい髪は癖があって、瞳と同じこげ茶色。
私のミスに激怒する三年生の中で、唯一私を庇ってくれたのが秀先輩だった。
「迎えに来てくれたんですね、うれしい……」
愛しい人の名前を呼んで――私の意識はそこで途切れた。
―人物紹介―
◆羽鳥 れい
武蔵野理科大学二年、コーヒー好き、人見知り、男性が苦手、視力が悪い、秀に片思い中