砂漠の雨
朝、会社に行ってみると倒産していた。事務所の扉に素っ気無く貼り付けられた通知の紙を見て、僕は呆然とその場に突っ立っていた。そんな事は全く知らされていなかった、という泣き言はもう何にもならない。聞いてくれる相手がいないのだから。ひどい話だ。他にも社員が次々とやって来ていて、扉の通知を見て、大体同じような反応を見せた。これからどうしたらいいのか見当もつかないのだ。安全な場所に逃げ込んだのは、社長とごく一部の管理職だけだろう。大多数の下っ端社員は、社会の砂漠に水なしの身一つで放り出されたようなものだ。オアシスに辿り着くためには何らかの行動を起こさなければならない。まずよろよろと歩き出す。しかしそれでは効率が悪すぎることに気がつく。というより、諦めてしまう。結局砂漠に一人で、何の手がかりもなしにオアシスに辿り着くなど不可能なのだ。そうして砂の上に寝転がって、大きく口を開けて降るはずのない雨が降るのを待つよりほかなくなる。こんな馬鹿な話があってたまるかと思うのに、現実の社会はまさにそういう風に出来上がっているから嫌になってしまう。
集まったものの何も出来ないから、ちらほらと解散した。僕も含めて皆気が抜けたようになっていた。僕は社員の中でも特に懇意にしていた先輩と、近くの喫茶店に入った。席に着くなり、彼は煙草をふかし始めた。僕も似たようなものだ。今月最後の一箱は大切に使おうと思っていたのに。自暴自棄になりかけている自分を自覚する。
「ひどい話だね」先輩が言った。「よりにもよって夜逃げだなんて」
「まったくですよ」
「給料とか、残業代とか、どうなるんだろうね」
「払われないってことですか」
「さんざん面倒くさい手続きを踏めば、あるいは。どっちにしても、社長は見つけ出さないといけないだろうけど」
「色々お金もかかるんでしょうね、弁護士とか」
「ああ、まさにそういうことだよ」先輩は一際大きな煙を吐き出した。「我々にはお金がない」
煙草を買うお金もない。貯金はたまらず、少ない給料は日々の生活費に消えていく。上はいつも無理やり仕事を取ってきて、我々のスケジュールに無理やり押し込んでくるから、休みも何もあったものではなかった。そのくせ残業代は出ない。細かい文字でびっしり書かれた社則の第何条だかを持ち出して、払う必要はないと言う。そんなことがあるはずがない、彼らは社則を読めても御国の法律を読む目なんて物は持ち合わせていないのだ。そうして、下っ端社員の誰も知らないうちに、昨夜倒産してしまった。
倒産した。
僕は苦々しい思いでその言葉を呟いていた。まるで人を憎むように、その言葉自体を憎んだ。そうして自分にどうすることが出来ないということもよく理解していた。結局、イライラの矛先はいつも自分に跳ね返ってくる。自分の冷静さが気に食わない。あんなに社長が憎かったら、死に物狂いで地の果てまで追いかけてやればいい。倒産という言葉が憎いのなら、この世の全ての辞書から抹殺してしまえばいいのだ。こんなことでもやりかねない程に尖った気概、それがなければ、むしろ死んだのと同じではないか。つまり心が死んだようになって、この六畳一間の安アパートの一室に引きこもってしまうだけということだ。……僕はこれまでテレビの向こう側にしか知らなかった引きこもりに対してどんな感情を抱けばいいのだろうか。病める現代の子供たちに対して。僕はその子供たちの仲間入りをするのだろうか。
「最近の子供たちは大人に反抗するということをしなくなった」というのを、何かの雑誌で読んだ記憶がある。つまり、大人に反抗することは全く建設的ではないし、時に殴られるだけだし、それよりか余程価値のあることをやっている方が良いし、むしろ楽しくもある、ということを、子供たちは幼い頃から染み付いたように理解しているのだ。つまり、それだけ冷静なのだ、と僕は考えた。別に大人に巻かれる事が良いと考えているわけではない。そういう価値判断から一歩下がって、冷静に、そうだ、あくまで冷静に、物事の全体を見わたそうとしているのだ。まるで生物的な本能のように。
四角い部屋に一人でいると、色々なことを考えてしまうのだ。この時間はいつもならば事務所に缶詰になってコンピュータのキーボードを叩いていなければおかしいのだ。仕事さえしていれば、こんな馬鹿みたいな考えを起こさなくても済む。最近の子供たちのことなんか知ったことか。僕は自分の心配で手一杯なのだから。
つまり、これがほとんど2年ぶりの暇だった。時間が有り余る感覚を忘れていた。テレビを観たり、雑誌を読んだりしてぼんやりと過ごす。しかし心は全然休まらないし、それを発散することも出来ない。どうしてだろうと考えて、あることに気がついた。砂漠で退屈などありえないということ。結局、砂漠で寝転がっている奴らには、砂と太陽で作られた柩がお似合いなのだ。
僕は家を飛び出すと、ハローワークに向かった。空は曇っていたが気にしなかった。僕は彼らとは違うのだ。……雨など決して降るものか。
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