第九話 神罰
追い詰められた獣は、往々にして最も危険な行動に出る。
大司教マルクスは、全てを失ったことを悟った。
権力も、名誉も、地位も。
だが、最後の手段がまだ残っていた。
* * *
「——ならば、こうするまでだ」
マルクスが懐から取り出したのは、血のように赤い宝玉だった。
禍々しい光が広間を染める。
国王が立ち上がった。
「何をしている! 衛兵、取り押さえろ!」
「遅い!」
マルクスが宝玉を高く掲げた。
「『終末の秘石』——千年前の大戦で封じられた禁術の核。これさえあれば、神とて——」
宝玉が砕けた。
そこから溢れ出たのは、純粋な闇だった。
広間の空気が一変した。温度が急激に下がり、壁面の聖女の肖像画にひびが入る。光が吸い込まれ、闇が生き物のように蠢き始めた。
民衆が悲鳴を上げ、逃げ惑う。
マルクスの体が闇に包まれ、膨れ上がっていった。
「はは……はははは! これが力だ! 千年前、神々さえ恐れた力!」
もはやマルクスの姿は人間のそれではなかった。闇の塊が人の形をとり、天井に届くほどの巨体となって広間を見下ろしている。
「神も、王も、聖女も——全て、消してやる!」
* * *
リーシェは動いた。
考えるより先に、体が動いた。
「結界展開!」
金色の光がリーシェの体から放射状に広がり、広間の人々を包み込む巨大な結界を形成した。
マルクスの闇が結界にぶつかり、激しい衝撃波が走った。
「ぐっ……!」
凄まじい圧力だった。リーシェの足が石畳を削りながら後退する。
でも、折れない。
「私の結界を……破れるものなら、破ってみなさい!」
リーシェの瞳が金色に輝いた。
結界が強化され、闇を押し返し始める。
しかし——
「小賢しい!」
マルクスが全力で闇を叩きつけた。
結界に亀裂が走った。
「——っ!」
このままでは保たない。リーシェの力は覚醒したばかりで、千年前の禁術と正面からぶつかるには——
* * *
その時だった。
広間に、静かな声が響いた。
「——もう十分だ、リーシェ」
銀髪の青年が、結界の外側に立っていた。
いや、違う。
先ほどまで人間に紛れていた時とは、存在感が根本から異なっていた。
十二対の光翼が、ルシエルの背後に広がった。
処刑場で見せたものとは比較にならない、圧倒的な神威。
広間の石畳が光に染まる。闇が、悲鳴を上げるように後退した。
「ル、ルシエル……!」
マルクスの声が震えていた。闇の巨体が、目に見えて縮んでいく。
「『終末の秘石』か」
ルシエルが一歩踏み出した。
「千年前、私がこの世界に封じた闇の残滓。それを暴いて使うとは——お前の愚かさには際限がないな」
「ひ、ひぃ——」
「リーシェを偽物と呼んだ。私の目を欺いた。私の聖女を殺そうとした。それだけならまだ許す余地もあった」
ルシエルの碧い瞳が、冷え切った光を放った。
「だが——今、この場で無関係な人間まで巻き込もうとした。その罪は万死に値する」
ルシエルが右手を掲げた。
光が凝縮する。広間全体が白に染まった。
「神罰——『断罪の光』」
一条の光が、マルクスを貫いた。
闇が蒸発した。『終末の秘石』の残骸が粉々に砕け、光の粒子に変わって消えていく。
後に残ったのは、全ての力を失い、白髪と化した老人の姿だった。
マルクスは、もはや立つ力も残っていなかった。
* * *
広間に、静寂が戻った。
リーシェの結界がゆっくりと消え、守られていた人々が呆然と周囲を見回す。
誰一人、怪我をしていなかった。
「リーシェ」
ルシエルが振り返った。
十二対の光翼はすでに消え、銀髪の青年の姿に戻っている。
「よく耐えた。君の結界がなければ、被害は出ていた」
「ルシエルが来てくれたから……」
「いいや。最初に動いたのは君だ。私が来る前に、君は自分の力で人々を守った。——それが聖女だ」
ルシエルが微笑んだ。
広間に、拍手が起こった。
一人、二人、やがて数百人。
民衆が、貴族が、騎士たちが。
リーシェに向かって、割れんばかりの拍手を送っていた。
「聖女リーシェ万歳!」
「本物の聖女だ!」
「リーシェ様、ありがとうございます!」
リーシェの目から、涙が溢れた。
偽物なんかじゃなかった。
ずっと、ずっと本物だったのだ。
リーシェは泣きながら笑い、広間の人々に向かって深くお辞儀をした。




