第三話 神様と二人暮らし
目が覚めると、見知らぬ天井が視界に広がっていた。
木造の、温かみのある天井だ。窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえ、柔らかな陽光が薄いカーテン越しに差し込んでいる。
「起きた?」
声のする方に首を向けると、テーブルの前に座った銀髪の青年が、こちらを見ていた。
——ルシエル。
昨日のことが一気に蘇り、リーシェは飛び起きた。
「ここは……?」
「王都の郊外だよ。小さな家を用意した。しばらくここで暮らそう」
ルシエルはさらりと言ってのけたが、リーシェの頭は追いつかなかった。
「暮らすって……あの、あなたは神様なんですよね?」
「うん」
「神様が、どうしてこんな小さな家に……」
「君がいるからだよ」
あまりにも真っ直ぐな答えに、リーシェの頬が一瞬で赤くなった。
「な、何を……っ」
「そんなに驚くこと? 私は君の安全を確認するまで離れるつもりはないから」
ルシエルは当たり前のように言ったが、リーシェにとっては何一つ当たり前ではなかった。
* * *
小さな家には、必要なものが全て揃っていた。
台所には新鮮な食材。暖炉には薪。本棚には何冊かの本。それから、花瓶に飾られた白い花。
「これ、全部ルシエルさ——じゃなくて、ルシエル様が?」
「ルシエルでいいよ。『様』はいらない」
「で、でも、相手は神様で——」
「昔は名前で呼んでくれたのに」
ルシエルが少し寂しそうに笑った。
記憶が蘇る。幼い頃、夢の中で——いや、本当は夢じゃなかったのだが——銀髪の少年を「ルシエル」と呼んでいた。
「……ルシエル」
「うん」
ルシエルの顔がぱっと明るくなった。神様のくせに、妙に人間くさい反応をする。
* * *
二人暮らしは、奇妙なほど穏やかだった。
リーシェが料理を作ると、ルシエルは目を輝かせて食べた。神様に食事が必要なのかは不明だが、「美味しい」と笑ってくれるので、リーシェも作りがいがあった。
午後は庭で過ごすことが多かった。リーシェが花の世話をしている横で、ルシエルは木の枝に腰掛けて本を読んでいる。時々、リーシェの方をじっと見つめていることがあり、目が合うと何でもない顔をして視線を逸らした。
夜は暖炉の前で話をした。
「ねえ、ルシエル」
「何?」
「あの時……私が処刑されそうになった時、どうして来てくれたの?」
ルシエルが本から目を上げた。
「来ない理由がない」
「でも、千年以上も地上に降りなかったんでしょう? 神殿の歴史書にも、ルシエル様の——ルシエルの降臨の記録はなくて」
「……千年の間に、降りる理由がなかっただけだよ」
ルシエルは暖炉の炎を見つめた。
「正直に言えば、人間にはあまり興味がなかった。世界を創った後、ずっと見守ってはいたけど、自ら関わろうとは思わなかった。でも——」
ルシエルがリーシェを見た。
「十一年前、神殿の裏庭で泣いている女の子を見つけたんだ」
リーシェの心臓が跳ねた。
「親もなく、友達もなく、でも泣いている理由は自分のことじゃなかった。『怪我をした猫を助けたいのに、力が足りない』って」
「……覚えてる。あの時、黒猫が塀から落ちて足を怪我して」
「うん。君は自分の力が弱くて猫を治せないことが悲しくて泣いていた。五歳の子供が、自分のことじゃなくて、猫のために泣いていた。——驚いたよ」
ルシエルの声は、どこか懐かしげだった。
「だから契約を結んだ。君の祈りに応える力を授けた。そしたら君は、嬉しそうに猫を治して、私に向かって満面の笑みで言ったんだ」
「——『ありがとう、ルシエル。大好き!』って」
リーシェは顔を手で覆った。
「そ、それは五歳の頃のっ……!」
「うん。でも、あの言葉が嬉しかった。千年生きて、初めて嬉しいと思った」
暖炉の炎が、二人の影を壁に揺らしている。
* * *
ルシエルが、不意に口を開いた。
「リーシェ。一つだけ聞いていいかな」
「……何?」
「三ヶ月、地下牢にいたんだろう。どうして私に祈ってくれなかった?」
その声は穏やかだったが、かすかに震えていた。
「君が祈れば、私には届く。すぐにでも助けに行けた。なのに——三ヶ月間、君の声が聞こえなかった」
リーシェは膝を抱えた。
答えなければいけないとわかっていた。でも、言葉にするのが怖かった。
「……怖かったの」
「怖い?」
「セレスティアさんが現れた時、マルクスがあんなに嬉しそうだったから。ああ、本物の聖女はこういう人なんだって。私の力なんて、最初から——」
声が詰まった。
「祈る資格がないと思った。偽物の私が、神様に助けてなんて……言えなかった」
ルシエルが、リーシェの手をそっと握った。
「君の力は本物だ。派手な光も、天から降る粒子も必要ない。君の祈りは、いつだって真っ直ぐに私に届いていた。……十年間、ずっと」
握られた手から、温かな光が溢れた。
それは、幼い頃に感じたのと同じ温かさだった。
「もう二度と、自分を偽物だなんて言わないでくれ」
ルシエルの声は優しかったが、その碧い瞳には、静かな怒りが燃えていた。
リーシェを偽物だと思わせた全てのものに対する、神の怒りが。
「……うん。ありがとう、ルシエル」
リーシェは小さく微笑んだ。
処刑台の上で泣いた涙とは違う、温かい涙が一筋、頬を伝った。




