第二話 神の降臨
広場を支配していたのは、恐怖だった。
数千の民衆は呼吸すら忘れ、石像のように固まっている。騎士たちは剣を抜くこともできず、膝をつく者さえいた。
それも当然だろう。
創世神ルシエル。この世界を創り、人に魔法を授けた始まりの神。神殿の壁画にのみ描かれ、千年以上もの間、地上に姿を見せることのなかった存在が、今、目の前にいるのだから。
「る、ルシエル様……まさか、そんな……」
大司教マルクスの声は震えていた。しかし、その瞳の奥に浮かんでいるのは畏敬だけではない。焦燥と、計算の光がちらついている。
「これは何かの間違いでございます。この娘は偽聖女として——」
「間違い?」
ルシエルの声は穏やかだった。穏やかすぎて、かえって恐ろしかった。
「この娘は、私が選んだ。私が契約を結んだ。私が力を授けた。それを『偽物』と呼ぶなら——お前たちは、私の目が節穴だと言うのか?」
空気が震えた。
物理的に、だ。ルシエルの声に呼応するように、広場の石畳にひびが入り、建物の窓ガラスが悲鳴を上げる。
神威。
言葉一つで世界を揺るがす、神そのものの力だった。
* * *
マルクスが必死に頭を回転させているのが、リーシェにもわかった。
「し、しかし! セレスティア様こそ真の聖女です! 神聖魔法の試験を全てクリアし、神の声を——」
「神の声?」
ルシエルが、初めて明確な怒りを滲ませた。
「私は、あの女に一度たりとも語りかけたことはない」
広場に、ざわめきが走った。
セレスティアの顔色が、紙のように白くなった。
「そ、それは……」
「お前が聞いたという『神の声』とやら、出所を教えてもらおうか」
ルシエルの碧い瞳が、セレスティアを射抜く。
セレスティアの手が、無意識に胸元のペンダントを握りしめた。その仕草を、ルシエルは見逃さなかった。
「……なるほど。魔道具か」
ルシエルが指を軽く振ると、セレスティアのペンダントが宙に浮き上がり、彼の手元に飛んできた。
「『神託の贋作器』。古代の禁術で作られた魔道具だな。これを使えば、あたかも神聖魔法を行使しているように見せかけることができる。だが、その力の源は——」
ルシエルがペンダントを握り潰した。中から、禍々しい紫色の光が溢れ出し、すぐに霧散した。
「——闇の瘴気だ。神聖とは真逆の力で、聖女の真似事をしていたわけだ」
* * *
民衆の間から、怒りの声が上がり始めた。
「騙されていたのか!」
「本物の聖女を処刑しようとしていたなんて……!」
マルクスの額に、大粒の汗が浮かんでいた。
「こ、これは陰謀です! 何者かがセレスティア様を陥れようと——」
「まだ言い逃れをするか」
ルシエルが一歩前に出た。
それだけで、マルクスの膝が折れた。神威の重圧が、彼の全身にのしかかったのだ。
「大司教マルクス。お前が何をしてきたか、全て見ていた。リーシェを道具のように扱い、都合が悪くなれば別の駒に差し替え、邪魔者は処刑する。それが神に仕える者のすることか」
「お、お許しを……お許しを、ルシエル様……」
「許しを請うなら、リーシェにだ。私にではない」
ルシエルはそう言い捨てると、踵を返し、リーシェの前に立った。
* * *
間近で見るルシエルは、記憶の中の少年とは似ているようで、どこか違っていた。
あの頃は、自分と同じくらいの背丈だった。泣いている自分の頭を撫でてくれた手は小さくて温かかった。
今、目の前にいるのは、人間離れした美貌の青年だ。銀色の髪が風に揺れ、碧い瞳がリーシェだけを映している。
「……本当に、あなたなの?」
リーシェの声は震えていた。
「夢の中の、あの子……?」
ルシエルが微笑んだ。先ほどまでの冷たい表情が嘘のように、その笑みは柔らかかった。
「夢じゃないよ。ずっと本物だった」
ルシエルが手を伸ばし、リーシェの手首を縛る縄に触れた。縄が光の粒子に変わって消える。
「遅くなってごめん。もっと早く来るべきだった」
「で、でも……あなたが神様だなんて……私、ずっと夢だと……」
「うん。知ってる。でも、契約は本物だったんだ。あの日、君は泣きながら言ったんだよ。『誰かの役に立ちたい』って。だから私は君を選んだ。この世界で、一番優しい魂を持つ君を」
涙が止まらなかった。
十年間、誰にも認められず、道具のように使われ、最後には偽物の烙印を押された。
でも、見ていてくれた人がいた。
たった一人でも、自分を本物だと言ってくれる存在がいた。
「リーシェ」
ルシエルが、そっとリーシェの涙を拭った。
「もう泣かなくていい。君は偽物なんかじゃない。世界で唯一の、私の聖女だ」
その言葉を聞いた瞬間、リーシェの意識は途切れた。
三ヶ月間の投獄と、処刑の恐怖と、そして安堵。全てが一度に押し寄せて、リーシェの体はルシエルの腕の中に崩れ落ちた。
ルシエルが当然のようにリーシェを抱きとめ、広場の民衆に向かって宣言した。
「聞け。この娘は私が選んだ唯一の聖女だ。彼女に手を出す者は、神への反逆と見なす。——覚えておけ」
そう言い残し、ルシエルはリーシェを抱いたまま、光と共に姿を消した。
後に残されたのは、茫然と立ち尽くす民衆と、崩れ落ちた大司教と、青ざめた偽りの聖女だけだった。




