第十話 神様のお気に入り
あの日から、一ヶ月が過ぎた。
大司教マルクスは全ての地位を剥奪され、王国の牢に収監された。ルシエルの神罰により全ての力を失った彼は、もはやただの老人だった。
セレスティアは、父親であるヴァレンシュタイン公爵と共に謹慎処分となった。しかし、リーシェの嘆願もあり、刑罰は軽いものに留められた。
「セレスティアさんも被害者です。利用されていただけの人を、厳しく罰するのは違うと思います」
リーシェがそう国王に進言した時、広間にいた誰もが驚き、そして納得した。それが、リーシェという聖女なのだと。
教会は大改革が行われ、腐敗した上層部は一掃された。新たな大司教には、マルクスの不正に抵抗し、レオンに証拠を渡した心ある神官が就任した。
* * *
そして今日。
リーシェは王宮の謁見の間に立っていた。
「聖女リーシェ。この度の功績に報い、改めてアステリア王国の聖女として正式に叙任したい。それに加え、望むものがあれば何でも申してみよ」
国王の言葉に、広間の人々が期待の眼差しを向ける。
爵位か。領地か。あるいは王族との婚約か。
リーシェは、にっこりと微笑んだ。
「ありがたいお言葉です、陛下。ですが——聖女の座は辞退させていただきます」
広間がどよめいた。
「何と……辞退だと?」
「はい。私は、もっと広い世界で困っている人たちを助けたいのです。王都に留まっていては、辺境や他国の人たちに手が届きません」
国王が言葉を失う中、リーシェは続けた。
「聖女という肩書きがなくても、祈ることはできます。癒すことはできます。私に必要なのは、地位ではなく、この足で歩ける自由です」
* * *
謁見が終わった後、王宮の庭園で。
「聖女の座を蹴るなんて、さすがに驚いたよ」
レオンが苦笑しながら近づいてきた。
「あれだけ苦労して取り戻したのに」
「取り戻したかったのは聖女の座じゃなくて、自分が偽物じゃないっていう証明だったから。それはもう手に入ったし」
リーシェは庭園の花を眺めながら言った。
「レオン殿下。あの時助けてくれて、本当にありがとう。殿下がいなければ、公開検証もできなかった」
「僕はただ、正しいことをしただけだ」
レオンが言葉を選ぶように間を置いた。
「……リーシェ。旅に出るなら、一つ聞いてもいいか」
「何?」
「その……一人で行くのか?」
リーシェが小首を傾げると、レオンの耳がかすかに赤くなった。
「いやその、危険な旅だろう。護衛が必要なら、僕が——」
「一人じゃないよ」
庭園の木の上から、声が降ってきた。
見上げると、枝の上にルシエルが腰掛けていた。
「私が一緒に行く。リーシェの隣は私の指定席だ」
「……いつからそこにいたんだ」
「最初から」
レオンが露骨にため息をついた。
「創世神ともあろう方が、木の上で盗み聞きですか」
「盗み聞きじゃない。監視だ。君がリーシェに変なことを言わないかと思って」
「変なことって——」
「告白とか」
レオンの顔が真っ赤になった。
「な、何を……! そんなつもりは……!」
「ふうん。じゃあいいんだけど」
ルシエルが木から飛び降り、リーシェの隣に立った。
リーシェは二人のやり取りに、くすくす笑った。
「もう、二人とも。——レオン殿下、ありがとう。でも大丈夫、ルシエルがいるから」
レオンが小さくうなずいた。
「……わかった。でも、困ったことがあったらいつでも言ってくれ。王族として、いや——友人として」
「うん。ありがとう」
* * *
王都の門。
春風が、リーシェの髪を揺らしていた。
小さな旅荷を背負い、隣にはルシエル。
門の前では、かつて彼女の護衛だった騎士団長ヴァンが待っていた。
「……リーシェ」
ヴァンの顔には、深い後悔が刻まれていた。
「すまなかった。俺は——お前を守るべきだった。なのに、目先の権威に惑わされて……」
「ヴァンさん」
リーシェは穏やかに微笑んだ。
「恨んでないよ。あの状況で、大司教に逆らえる人の方が少ない」
「だが——」
「これからは、本当に正しいことのために剣を振ってください。それで十分です」
ヴァンが深く頭を下げた。
リーシェはもう一度微笑んで、前を向いた。
* * *
王都を出て、街道を歩く。
春の陽光が温かい。道端には野花が咲き、小鳥がさえずっている。
「ねえ、ルシエル」
「何?」
「どこに行こうか?」
「どこでも」
ルシエルが空を見上げた。
「東には砂漠の国があって、水の精霊が枯れかけているらしい。南の海には呪われた島がある。北の山脈には千年前の大戦の傷跡が残っている。西の森には——」
「全部行きたい!」
リーシェが目を輝かせた。
「困ってる人がいるなら、全部行こう」
ルシエルが笑った。
「欲張りだな」
「だって、やっと自由になれたんだもの。今まで行けなかった場所に行って、会えなかった人に会って、助けられなかった人を助けたい」
リーシェが、ルシエルの手を握った。
「一緒に来てくれる?」
「当たり前だ」
ルシエルが握り返した。
「世界の果てまでだって、君と一緒なら」
リーシェの頬が赤くなった。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「そういうこと、さらっと言うところ」
「事実を言っただけだよ」
リーシェがぷいと顔を背けたが、繋いだ手は離さなかった。
* * *
街道の先には、どこまでも続く青空が広がっていた。
偽聖女と呼ばれた少女は、今日から本当の旅を始める。
隣にいるのは、世界を創った神様。
行く先にあるのは、きっとたくさんの出会いと冒険と、そして少しの恋。
リーシェは空に向かって大きく伸びをした。
「さあ、行こう!」
風が、二人の旅立ちを祝福するように吹き抜けた。
——了——




