第一話 偽聖女の処刑
——死にたくない。
それが、処刑台の上で最初に浮かんだ言葉だった。
真冬の王都に吹きすさぶ風が、薄い囚人服を容赦なく突き刺してくる。手首を縛る縄が食い込んで、とっくに感覚はなくなっていた。
目の前には、数千もの民衆が集まっていた。
彼らの瞳に映るのは、同情ではない。嫌悪と、好奇と、そしてほんの少しの後ろめたさ。
「偽聖女リーシェに対し、神への冒涜の罪により、本日をもって処刑を執行する」
大司教マルクスの声が、王都の広場に朗々と響き渡った。
白い法衣をまとった初老の男は、慈悲深い微笑みを浮かべている。だが、リーシェは知っていた。あの微笑みの裏にある、冷たい計算を。
* * *
三ヶ月前まで、リーシェは聖女だった。
正確に言えば、この国——アステリア王国で唯一、神殿に認められた聖女として、十年以上を過ごしてきた。
孤児だったリーシェが神殿に拾われたのは、五歳の頃だ。理由は単純で、リーシェには不思議な力があったから。手をかざせば傷が癒え、祈りを捧げれば枯れた花が咲いた。神官たちはリーシェを「神に選ばれし聖女」と称え、神殿の奥深くで大切に育てた。
大切に、というのは語弊がある。
正しくは、利用価値のある道具として管理された、というべきだろう。
リーシェの日常は祈りと癒しの繰り返しだった。朝は貴族たちの病を癒し、昼は神殿の儀式で祈りを捧げ、夜は翌日の儀式の準備。自由な時間などほとんどなかったが、リーシェはそれでも幸せだった。
自分の力が誰かの役に立つなら、それでいい。
そう思っていた。
* * *
すべてが変わったのは、三ヶ月前のことだ。
「大司教様、お客様がお見えです」
神殿の応接間に現れたのは、見たこともないほど美しい女性だった。
波打つ金髪に、宝石のような翠の瞳。純白のドレスに身を包んだその姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのようだった。
「はじめまして。私はセレスティア・フォン・ヴァレンシュタイン。このたび、神の啓示を受けました」
公爵令嬢セレスティアは、優雅に微笑んでそう名乗った。
「啓示……ですか?」
リーシェが小首を傾げると、セレスティアは胸の前で両手を組み、目を閉じた。
「はい。神が私に仰ったのです。『汝こそ真の聖女なり』と」
その瞬間、リーシェの背中を冷たいものが走った。
しかし、リーシェ以上に目の色を変えたのは、大司教マルクスだった。
* * *
セレスティアの「検証」は、あっという間に終わった。
大司教が用意した神聖魔法の試験を、セレスティアは見事にクリアしてみせた。光り輝く魔法陣、瞬時に癒される傷、天から降り注ぐ光の粒子。
どれもリーシェにはできない、派手な演出だった。
リーシェの癒しの力は地味だ。手をかざし、静かに祈り、ゆっくりと傷を癒す。光の演出も、天から降り注ぐ粒子もない。ただ、確実に癒える。それだけだ。
「皆様、ご覧ください。これこそが神の御業です!」
大司教マルクスは、セレスティアの「奇跡」を前に、恍惚とした表情を浮かべていた。
そして、一週間後。
「リーシェ。お前はこれまで聖女を騙ってきた罪により、その地位を剥奪する」
大司教の宣告は、あまりにも突然だった。
「騙る……? 私は、ずっと神殿のために——」
「黙りなさい。真の聖女が現れた以上、お前の存在は神への冒涜に他ならない」
弁明の機会すら与えられなかった。
リーシェの護衛だった騎士団長ヴァンも、いつの間にかセレスティアの側に立っていた。
「すまない、リーシェ。だが、これが正しい選択なんだ」
ヴァンは目を逸らしながらそう言った。リーシェを地下牢に連行する手は、かすかに震えていた。
* * *
——そして今、リーシェは処刑台の上にいる。
「最後に何か言い残すことは?」
大司教マルクスが、慈悲深い声で問いかける。その隣では、セレスティアが悲しげな表情で佇んでいた。よくできた演技だ、とリーシェは思った。
言い残すこと。
ある。たくさんある。
私は偽物なんかじゃない。十年間、ずっと人々のために祈り続けてきた。嘘なんかじゃない。
でも、誰も信じてくれない。
リーシェは静かに目を閉じた。
——神様。
心の中で、幼い頃の記憶に語りかける。
あの日、神殿の裏庭で泣いていた私に、手を差し伸べてくれた銀色の髪の少年。あの子はきっと、夢だったのだろう。でも、あの温かさだけは本物だと信じていたかった。
——もし本当に神様がいるのなら、お願いです。せめて、私の祈りが本物だったと、それだけ証明してください。
* * *
処刑人の剣が振り上げられた。
民衆が息を呑む。
そして——
世界が、白い光に包まれた。
それは朝日のような優しい光ではなかった。世界そのものが焼き尽くされるかのような、圧倒的で、絶対的な光。
処刑人の剣が粉々に砕け散った。
広場を揺るがす地鳴り。天から降り注ぐ光の柱。
民衆が悲鳴を上げ、逃げ惑う中——光の中心に、一人の人影が現れた。
銀色の髪。碧い瞳。この世のものとは思えない美貌の青年が、虚空に立っている。
リーシェは目を見開いた。
その顔に、見覚えがあった。
「——遅くなった」
青年は、リーシェだけに微笑みかけた。
「迎えに来たよ、リーシェ」
その声を聞いた瞬間、リーシェの頬を涙が伝った。
忘れるはずがない。幼い日、たった一人の友達だと思っていた、夢の中の少年の声だ。
広場が、静寂に包まれた。
青年がゆっくりと地上に降り立ち、大司教マルクスに視線を向ける。
その瞬間、マルクスの顔から一切の血の気が引いた。
なぜなら——青年の背後に広がっていたのは、神殿の最奥に祀られている壁画と、寸分たがわぬ姿の、十二対の光翼だったから。
「創世神……ルシエル……」
マルクスが、掠れた声で呟いた。
青年——創世神ルシエルは、冷たい微笑みを浮かべた。
「私の聖女に、何をしている?」
その一言が、すべての始まりだった。




