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第9話「見えてしまう、止められない」

屋上に着いたとき、琴葉はもう壁際に座っていた。


あの風の日から、壁際が定位置になった。50センチ。息が届く距離。


「あ、来た」


琴葉が顔を上げる。軽い声。素のまま。


俺は隣に腰を下ろして、弁当を広げた。


「昨日の数学、やった?」


「出したよ」


「マジで。あたし後半の証明全部飛ばしたんだけど」


「飛ばしたのかよ」


「だってあの証明ありえんくらいムズくない?」


琴葉が箸を振りながら言う。日常になった時間。この屋上で、この距離で、この声で。


しばらく他愛もない話が続いた。テスト範囲の話。悟のボケの話。琴葉が体育のマラソンを全力で嫌がっている話。


弁当を食べ終わった頃。琴葉が不意に黙った。


蓋をぱちんと閉めて、空を見上げる。


「…………」


「…………」


沈黙。風が吹いて、琴葉の癖っ毛がふわりと揺れた。


「……あのさ、聞きたいことあるなら、聞けば?」


心臓が、跳ねた。


「…………」


「……答えるかは知らないけど」


琴葉は空を見たまま言った。声は軽い。


——でも、ゲージが一瞬揺れたのが見えた。


また。見てしまった。


琴葉は今、聞かれる覚悟をしている。緊張している。それがゲージの揺れに出ている。


言葉じゃなくて、数値で。彼女の覚悟を、盗み見てしまった。


「……ごめん。今は、まだ無理」


「……ふーん」


琴葉がお茶のペットボトルを開けた。


「まあ、いいけど」


ゲージが少し落ち着いた。安堵か、諦めか——分からない。揺れが何を意味しているのかも。


聞きたいのに聞けない。聞けないのに見えてしまう。見えてしまうから聞きたくなる。


——ループだ。この堂々巡りに、名前をつけたくない。


◇ ◇ ◇


翌日。一限目。


教室に座っていたら——何か、変だった。


蛍光灯が一本多い、みたいな違和感。いつもと同じ教室なのに、空気の密度がおかしい。


ふと、視界の端がちらついた。


黒板の横。窓際の列。後ろの席。——一瞬だけ、クラス全員のゲージがぼんやり見えた気がした。


色が重なって、数字がちらついて——でも、瞬きしたら、もう消えていた。


……なんだ、今の。


普段は、見ようとしないと見えないはずなのに。


こめかみを軽く押さえる。目をこすった。——もう、何も見えない。いつもの教室だ。


でも、さっきの残像がまだ頭の奥に残っている。緑と赤が混ざったような、ざわざわした感じ。


……スマホの見すぎかな。昨日、寝落ちするまで画面見てたし。


机に突っ伏した。腕で顔を隠す。


——たぶん、疲れてるだけだ。


◇ ◇ ◇


放課後。悟と並んで帰っている。


商店街の信号待ち。悟がぽつりと言った。


「なあ望」


「ん」


「最近お前、よく人の顔見てるな」


「……そうか?」


「授業中とかさ。なんかぼーっと周り見てるっつーか」


「…………」


「いや別にいいんだけど。気にしてんだなーって」


——違う。そういうんじゃない。


でも、そういうことにしておいた方が楽だった。


「……たまたまだよ」


「はいはい、たまたまね」


悟はそれだけ言って、話題を変えた。帰り道のラーメン屋が潰れた話。


——悟は深追いしない。いつもそうだ。踏み込む一歩手前で、さらりと流す。


◇ ◇ ◇


帰宅後。自室のベッドに転がっていたら、スマホが鳴った。


画面に表示された名前——咲希(さき)姉さん。年の離れたいとこ。


「望ー、元気?」


「……姉さん。久しぶり」


「うん。仕事、先月から復帰したんだ。報告しようと思って」


「……マジで」


「マジで。最初は時短だけどね。ちゃんとやれてるよ」


声が明るい。あの冬——ゲージが真っ赤で、声も掠れていた頃とは、まるで違う。


「で、望は? 学校どう?」


「……普通だよ」


「嘘。声が違う」


「……違わないだろ」


「違う。なんていうか——悩んでる声」


姉さんは相変わらず的確だ。ゲージなんか見えなくても、声だけで分かる人。


「……ちょっと、気になる人がいて」


「おっ」


声のトーンが一段上がった。電話越しでも、にまにましているのが伝わってくる。


「仲良くはなった。たぶん。でも聞きたいことがあるのに、聞けなくてさ」


「聞けない?」


「……うーん、なんか、踏み込んじゃいけない気がしてさ」


電話の向こうで、咲希が少し黙った。


「…………じゃあさ、今度会おうよ」


「え?」


「電話じゃ話しにくいこともあるでしょ。休みの日、どっかでごはんでも」


「……いいけど」


「じゃあ連絡する。楽しみにしてて」


電話が切れた。


天井を見ていた。


——聞きたいのに聞けない。聞けないのに見えてしまう。


その堂々巡りを、誰かに話したかったのかもしれない。

第9話、お読みいただきありがとうございます。


見えるのに聞けない、聞けないのに見えてしまう——望のループが、少しずつ輪郭を持ち始めた回でした。


悟の「よく人の顔見てるな」という何気ない一言が、本人が気づかないうちに変わり始めていることを映しています。


ちなみに今回登場した咲希姉さんは、別の短編『キッチンコンロと左手のレフトさん』からのゲスト出演です。本作だけで全く問題なく読めますので、気になった方だけどうぞ。


次話、咲希との再会。電話では言えなかったことが、対面でこぼれ落ちるかもしれません。


初見の方へ:第1話から読むと、二人の変化がより刺さります

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