第8話「雨の日は会えない」
雨だった。
朝から降り続く本降り。窓の外は灰色一色で、屋上に行ける気配はない。
三限目の授業中、俺はぼんやりと窓を見ていた。
雨粒が窓ガラスを伝って流れていく。屋上の床はずぶ濡れ、水たまりが出来ていることが容易に想像できる。
——今日は、行けないな。
当たり前だ。雨なんだから。屋根のない屋上で弁当なんか食えるわけがない。
分かってる。分かってるのに、朝から落ち着かない。
昼休み、購買でパンを買って教室に戻った。自分の席で食べる。いつも通りの光景。屋上に通い始める前は、毎日こうだったはずだ。
最近は毎日あいつと屋上で食べてた。カレーパンを半分こにしたり、琴葉の弁当のおかずを「一口だけ」と言って二口食べたり。
なのに、妙に物足りない。
「おー、望。今日は教室にいるじゃん」
悟が向かいの席に座り込んだ。
「……雨だし」
「いつもどっか行ってるもんな、昼休み」
「……たまたまだよ」
「はいはい、たまたまね」
悟がカレーパンを齧りながら、ニヤニヤしている。
「で、今日はどうすんの。ずっとここ?」
「……別に、どうもしない」
「ふーん」
悟が俺の顔をじっと見て、何か言いたそうにしている。
「……なに」
「いや。なんかソワソワしてんなって」
「してない」
「してる。貧乏揺すりしてるぞ」
俺は自分の膝を見た。確かに、右足が小刻みに揺れていた。慌てて止める。
「……クセだよ」
「初めて見たけど」
「…………」
悟がニヤニヤしている。こいつ、絶対分かってて言ってる。
「屋上行けなくて禁断症状?」
「出てない」
「出てるじゃん。足」
「……うるせえ」
(禁断症状出てないか? 屋上依存? いやいやいやいや)——自分にツッコむ。
俺はパンを齧って、視線を教室の中に向けた。
——斜め前の席。
琴葉がいた。
自分の席で、弁当を食べている。一人で。いつもの教室のクールな表情。
……いつもなら、今頃あいつは全然違う顔してるのに。
ふと、琴葉の手が止まった。
箸を持ったまま、窓の外を見ている。雨を。
それから、ほんの一瞬だけ——教室の中を見回した。
探すような目。何かを——誰かを。
俺と目が合った。
一瞬。ほんの一瞬。
琴葉がすぐに窓の方に視線を戻した。何事もなかったかのように。
でも、見えた。
——今、こっち見てた。
心臓がどくんと跳ねる。
いや、たまたまだ。たまたま目が合っただけだ。教室にいれば、誰とだって目が合うことはある。
「望」
「……なに」
「にやけてる」
「にやけてない」
「にやけてる。すごいにやけてる」
「…………」
悟が肩を揺らして笑っている。俺は手で口元を隠した。
——にやけてた。自覚がない。最悪だ。
午後の授業が始まっても、雨は止まなかった。
俺は時々、斜め前の席をちらりと見た。
琴葉は、いつも通りのクールな横顔で授業を受けている。ゲージは100%。微動だにしない。
……また、見てる。
気づくと、目が琴葉のゲージに吸い寄せられている。
教室にいるのに。目が、離せない。
心配、なのか? 違う気もする。でも何なのか、分からない。
……なんで見てしまうんだろう。
俺は窓の方に目を向けた。雨はまだ降っていた。
放課後。
雨はまだ降っていた。帰りの支度をして、昇降口に向かう。
靴を履き替えていると、隣に琴葉が来た。
目が合う。
琴葉が少しだけ驚いた顔をして、すぐにいつものクールな顔に戻った。
「…………」
「…………」
沈黙。周りには他の生徒もいる。ここは教室と同じだ。琴葉は素を出せない。
琴葉が傘を取り出して、少しだけ俺を見た。
「……あんた、なんか先週よりちょっと痩せた?」
「え?」
思わず自分の腹に手を当てた。痩せた? そんな自覚はない。
「……なんで?」
「…………」
琴葉が目を逸らした。
「……別に。気のせい」
クールな声。でも、トーンが教室モードと微妙に違う。素が少しだけ混じっている。
——なんで、そんなこと気づくんだ。ゲージなんか見えないのに。
琴葉が傘を開いて、雨の中に踏み出した。
その背中に、声をかけた。
「……明日、晴れるといいな」
琴葉が肩越しにちらりと振り向いた。
近い距離で見た横顔。
睫毛、長いな——
気づいてはいけないことに気づいたような感覚。すぐに打ち消す。今はそういうんじゃない。
琴葉の目が、一瞬だけ緩んだ。
「……ん」
小さな声。でも確かに、素の声だった。
昇降口だ。周りに人がいる。教室と同じ、素を出せない場所のはずだ。
なのに今、仮面が——ほんの一瞬、さらに外れた。
琴葉はすぐに前を向いて、傘を差して歩いていった。
俺はそれを見送りながら、気づいた。
屋上じゃなかった。フェンス際でも、壁際でもなかった。
雨の昇降口で、たった一言交わしただけ。
なのに胸が温かい。
傘を手に取り、外に出た。足取りが軽い。
雨はまだ降り続けているが、俺の心には少し晴れ間が見えたような気がした。
——ああ、そうか。
場所じゃなかった。
あいつに、会いたかったんだ。
帰り道、雨に濡れた傘を差しながら、俺はずっとそのことを考えていた。




