第7話「50センチと風の距離」
四限目が終わり、昼休み。教室がざわつき始めた頃だった。
今日は朝から風が強いこともあり、いつもより音がざわめく。
宮前が琴葉の席にやってきた。この前、琴葉に掃除を頼んでいた子だ。手に小さな紙袋を持っている。
「佐藤さん、この前ありがとね。これ、お礼」
笑顔。屈託のない、透明な笑顔。
中身はたぶんお菓子だ。
押し付けた——いや、宮前の中では「代わってもらった」なのかもしれない。少なくとも今、この子はちゃんと覚えていて、ちゃんとお礼をしに来ている。
善意。100%の善意だ。悪意なんかどこにもない。
琴葉が小さく頷いた。
「……ありがとう」
宮前が「うん!」と笑って去っていく。
——削れた。
琴葉のゲージが、赤い方にずれた。
体が固まる。
この間の宮前は、仕事を押し付けた後の「ありがとー!」だった。見返り型の、中身の薄い感謝。あれで削れるのは——まだ分かる。
でも今のは違う。わざわざお礼を買ってきて、わざわざ渡しに来た。形だけじゃない。気持ちが入っている。
それでも、削れた。
……これでも、駄目なのか。
琴葉の問題は「悪い人を避ければ解決」するような、そんな単純なものじゃない。善意だろうが悪意だろうが、「ありがとう」を受けること自体が——
じゃあ、俺の「サンキュな」は何なんだ。あれだけ何も起きなかったのは、なぜだ。
分からない。分からないまま、琴葉は屋上へ向かった。
屋上の扉を開けた瞬間、風に押し戻されそうになった。
琴葉はいつものフェンス際——ではなく、壁際に座っていた。
「今日、風やばいから」
琴葉が髪を押さえながら言った。ダークブラウンの癖っ毛が暴れている。
壁際。座れる場所が限られている。俺はいつもの二メートルの距離を取ろうとして——無理だと悟った。壁に沿って座ると、琴葉との距離は一メートルもない。
「……隣、いいか?」
「別に?座る場所ないしね」
琴葉は何でもないふうに言った。
腰を下ろす。近い。明らかにいつもより近い。
ちらりとゲージを見る。さっき教室で削れた分が、少しずつ戻ってきている。ここに来ると回復する。教室が危険な場所なら、屋上は——安全な場所だ。
「……何か飲む?」
俺は鞄からペットボトルのお茶を二本出した。
「貢物?」
「……まあ」
「ふ、苦しゅうない」
琴葉がお茶を受け取る。
弁当を食べながら、琴葉がスマホを取り出した。漫画アプリだ。この間、気づいた習慣。片手で画面をスクロールしながら、もう片方の手で卵焼きを摘んでいる。器用だな。
そんな琴葉の様子を、パンを食べながら窺うと、ちらっと画面が見えた。
——あれ、それ。
「……『バトルフィールド・エンカウンター』?」
「え」
琴葉が顔を上げた。
「知ってんの?」
「知ってるっていうか……結構前にSNSで流れてきて。読み始めた」
「あたしは無料の1巻読んだらハマった」
「入口違うのに同じとこに辿り着いてんだな」
「……別に珍しくないっしょ、有名だし」
琴葉がそっけなく言ったけど、目は輝いていた。素だ。興味のある話題になると、クールが剥がれる。
「続きは?」
「……1巻だけ。無料キャンペーンだったから」
それ以上は言わなかった。お小遣い事情、だろう。
「2巻から面白くなるやつ。持ってくるよ」
「マジで!?」
一拍。
「……でも、まあ、持ってくるなら読む」
素直じゃないな。でも目は期待してる。
「明日持ってくる」
琴葉の口調が変わっている。教室じゃ絶対に聞けない声。早口で、語尾が上がって、楽しそうで。
「……ここの構図、好きなんだけど」
琴葉がスマホを俺の方に傾けた。1巻のバトルシーン。
「見開きだからスマホだと微妙なんだよね」
「ああ、そこ。紙で見ると全然違うぞ。迫力が段違い」
「……マジで」
「一緒に持ってくる」
「……ふーん」
興味ないフリ。でも目が泳いでるからバレてる。
——翌日。
俺は約束通り、2巻から4巻までと、1巻を鞄に詰めて屋上に上がった。
琴葉は昨日と同じく壁際にいた。俺の鞄を見て、少しだけ姿勢が前のめりになった。
「……持ってきたんだ」
「貢物の追加だ。貸すだけだけどな」
「……苦しゅうない」
1巻を開いて、例の見開きを広げた。
「……うわ。全然違う」
琴葉が身を乗り出した。俺も開いた本を支えながら覗き込む。
ページを挟んで、二人の顔が近い。琴葉が指で構図の線をなぞる。
「ここからここまで一本の動線で繋がってるの、スマホじゃ分かんなかった」
「だろ。ここの効果線も紙だと——」
気づいたら、肩が触れていた。
本を一緒に覗き込んでいるうちに、二人の距離がいつの間にか消えていた。
琴葉は気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか。そのままページをめくっている。
「ここの台詞がさ——」
肩が触れている。琴葉の声が近い。髪がなびいて、シャンプーの匂いがした。
——息が、止まった。
「……あんた、息してなかった?」
「してた」
「嘘。今吐いた」
「…………」
琴葉が小さく笑った。
肩は、まだ触れたまま。どっちも避けない。避ける理由がない。
俺はちらりとゲージを見た。
——マックスじゃない。
80%くらい。話しかけると少し減る。笑うと少し戻る。
——呼吸してる。
教室では100%で固まっているゲージが、ここでは普通の人みたいに動いている。
俺といると、この子のゲージは生きている。
それが嬉しくて、同時に、少し怖かった。
——ここにいると、楽だ。
頭の中のざわつきが静かになる。普段は人のゲージが視界に入るたびに消耗していくのに、琴葉の隣では、その疲れが遠くなる。
「……何考えてんの」
「ん」
「難しい顔してる」
「……たまたまそういう顔なだけ」
「たまたまの使い方おかしいでしょ」
琴葉が呆れた顔をする。でも肩は、まだ触れたままだ。
風が少し弱まった。日差しが雲の切れ間から差し込んでくる。
温かい。肩が触れている方が、特に。
「…………」
「…………」
しばらく、何も言わずに空を見ていた。
チャイムが鳴る。昼休み終了。
琴葉が立ち上がる。俺も続いて立つ。
肩が離れた瞬間、触れていた場所が急に冷たくなった。
「……また明日、来る?」
「たまたまな」
「また、たまたま」
琴葉が笑った。
教室に戻る廊下で、俺は右肩にまだ残る温度のことを考えていた。
普通の人みたいにゲージが動いてる。それがなんだか嬉しくて——胸が暖かくなった。
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◇ 琴葉
コイツの隣にいると、疲れない。
誰かの隣にいるだけで何かが削られる。いつもそうだった。教室でも、廊下でも、どこでも。
なのにコイツは——隣にいるだけで、楽になる。
漫画の話で盛り上がった。同じやつ読んでるとか、思わなかった。
紙で見る見開き、全然違った。気づいたら肩が触れてた。避けなかった。
避ける理由が、なかった。
……意外と、肩幅、あるんだ。




