第6話「100%の仮面」
連休が明けた。
三日間、屋上に行けなかった。
それだけのことなのに、なんだか落ち着かなかった。連休中は悟と出かけたり、家でだらだらしたり、普通に過ごしていたはずなのに。
——別に、気になってたわけじゃない。
月曜の教室。曇り空。四限目の終わりを待ちながら、俺はもう昼のことを考えている。
チャイムが鳴る。昼休みだ。
俺は弁当を持って席を立ち——いつものように、屋上に向かおうとした。
廊下に出たところで、足が止まった。
琴葉がいた。
教室の前の廊下で、クラス委員の女子と何か話している。
「佐藤さん、これ提出物なんだけど、明日までにお願いできる?」
「……ん、分かった」
声が、低い。教室で聞くいつもの声だ。表情も変わらない。クール。近寄りがたい。完璧な壁。
クラス委員が「ありがとね」と言って去っていく。
その瞬間、琴葉のゲージが削られる。緑色のゲージが黄色に色づく。
——やっぱり、減る。
もう驚かない。確認。おばあさんのときも、宮前のときも、そして今も。「ありがとう」を受けると、この子のゲージは減る。
琴葉はそのまま、屋上への階段に向かった。俺は少し間を空けて後を追う。
屋上の扉の前に立つ。取っ手に手をかけたとき、向こう側から声が聞こえた。
「——っはー、だっる」
手が止まった。
その声が、教室で聞いたものとまるで別人だった。さっき廊下で聞いた「分かりました」の、あの冷たい声と、まるで違う。全身から力が抜けたような、素の声。
——これが、一人のときの琴葉か。
少し迷って、扉を開けた。
琴葉がいつもの場所に座っていた。フェンス際。膝を立てて、空を見上げて。こっちを見て、一瞬だけ肩が動いた。
「あ、来た」
軽い。声が軽い。表情も緩んでいる。口元がへにゃっとしていて、目も細くなっている。
——連休明けの最初の素顔が、これか。
「……どうしたの? 固まってるけど」
「いや……」
俺は屋上の扉を閉めて、彼女の隣に向かった。
「今、すげえ声出てたな」
「は?」
「——っはー、だっる、って」
つい、聞こえたままの声で言ってしまった。
琴葉の顔が引きつった。
「——聞っ、聞いてたの!?」
声が裏返った。目が泳いで、手が意味もなく髪を触っている。
「聞かなかったことにして。今すぐ。今この瞬間から」
「無理だろ」
「無理じゃない。記憶消して。諦めない。やれば出来る。」
「超能力者じゃないんだけど」
——嘘だ。能力持ちだ。でもそれは言えない。皮肉が効いてることに、俺だけが気づいている。
琴葉が唇を尖らせた。
「さっき廊下で話してたとき、全然違ったな」
「…………」
琴葉が黙った。少しだけ、表情が硬くなる。
「……あれは、まあ。そういうもんだし」
「そういうもん?」
「教室じゃ、ああしないと面倒だから」
面倒。そう言い切る声は、少しだけ疲れていた。
「ずっとあの調子なのか。教室にいるとき」
「……まあ」
琴葉が膝を抱え直し、膝の上に顎を乗せた。
「あんたの前じゃ、別にいいかなって。もうバレてるし」
「…………」
バレてるし。
——割り切りがいいというか、なんというか。
「……あの委員の子、毎回あたしに頼んでくるんだよ。他にもいるっしょ、頼める人」
「……人望?」
「ありえん。大人しくしてるから逆に断らないと思ってるだけ。マジでむかつく」
「姫のご機嫌がよろしくないようで」
琴葉が一瞬きょとんとして、それからため息をついた。
「……ずっとやんの、それ」
「臣下が姫を褒めるのは当然かと」
「褒めてない。いなしてるだけでしょ」
「姫の洞察力に恐れ入ります」
「……あんたさぁ」
呆れた顔。でも、嫌じゃなさそうだった。口元が少し緩んでる。
弁当を食べながら、他愛もない話が続いた。琴葉は素のままだった。口が悪くて、ちょっと大げさで、「マジで」「ありえん」が口癖で。
ちらりとゲージを見た。
80%くらい。愚痴を言うたびに少し減って、俺が相槌を打つと少し戻る。
——普通だ。普通の人みたいに、自然に揺れている。
教室の100%は鉄壁だった。何も動かない。何も入れない。でもここでは——生きてる。ゲージが呼吸しているみたいだ。
素を出している琴葉の隣にいると、頭の中のざわつきが静まる。普段はゲージが視界に飛び込んでくるたびに疲れるのに、ここでは、そのざわつきが遠くなる。
なんだろう、これ。
楽だ。ただ、楽だ。
◇ ◇ ◇
昼休みの終わり。階段を降りようとしたとき、下から足音が聞こえた。
誰か上がってくる。
琴葉の空気が、一瞬で変わった。
肩が上がる。背筋が伸びる。口元が引き締まる。目が冷たくなる。
——切り替え、早っ。
ゲージが動いた。80%あたりで揺れていたのが、すっと上がっていく。遮断されたみたいに。100%に向かって、急速に——閉じた。
踊り場で、一年生の男子とすれ違った。男子が琴葉をちらりと見て、少し緊張した顔で通り過ぎていく。
琴葉は微動だにしない。完璧なクール。一秒前まで「ありえん」と笑っていたのが嘘みたいだ。
男子が去った後。
琴葉の肩から、すっと力が抜けた。
「……なるほど」
つい、声に出た。
琴葉がぴくりと肩を震わせた。
「……何が『なるほど』なわけ?」
「いや、大変だなって」
「…………はー最悪」
琴葉が顔を覆った。耳が赤い。顔を隠した指が落ち着かない。額を撫でて、頬をさすって、こめかみを押さえて——どこに手を置けばいいのかわからないみたいに、せわしなく動いている。
「忘れて」
「さっきも言ったけど、無理」
「…………」
琴葉が指の隙間からこっちを睨んでいる。でも、怒ってる目じゃなかった。恥ずかしくて死にそう、みたいな目。
「……誰にも言わないから」
「……当たり前でしょ」
「秘密、また増えたな」
「……あんたのせい以外にある?」
琴葉がため息をついて、階段を降り始めた。
その背中を見ながら、俺は思った。
知ってしまった。
あの仮面の裏側を。一瞬で切り替わる姿を。切り替わった後の、赤い耳を。
——もう、知らなかった頃には戻れない。
教室に戻ると、琴葉はいつも通りの顔で窓の外を見ていた。
冷たい横顔。近寄りがたい空気。ゲージはマックス。完璧に閉じている。
でも俺は知っている。あの仮面の下に、どんな顔が隠れているのか。
——なんで、あんなに違うんだろう。
同じ人間なのに。同じ声帯から出てるはずなのに。教室の琴葉と、屋上の琴葉が、まるで別人みたいだ。
無意識に、自分の手のひらを見た。
この目は、見えすぎている。ゲージも、仮面の裏も、本人が隠したいものばかり。知りたくて覗いたわけじゃない。でも——見えてしまった。見てしまった。
それなのに——自分だけが知っている、ということに、どこか落ち着いてしまっている自分がいる。
その感覚に、うまく名前がつけられなかった。ただ、少し後ろめたかった。
——このときの俺は、まだ知らなかった。
名前をつけられなかったこの感覚が、じわじわと輪郭を持ち始めることを。気づいたときにはもう、後戻りできなかったということを。




