第3話「なんで分かったの」
あの目が、まだ残っている。
昨日の廊下。ふとこちらを見た琴葉と目が合った。
ゲージを見ていたはずなのに、数字なんかどうでもよくなった。
あの瞬間から、何かがずれた気がする。
席が斜め前だから、視界に入る。入るたびに、つい頭上を確認してしまう。
100%。今日もマックス。微動だにしない。
彼女は相変わらず誰とも話さない。
話しかけられても最低限の返事だけ。
プリントを回すとき、前の席から受け取って後ろに渡す。
それくらいの接触では、ゲージは一ミリも動かない。鉄壁だった。
——だからこそ、あのおばあさんの「ありがとう」で落ちたのが引っかかる。
何が違うんだ。プリントを渡すのと、何が。
答えは出ないまま、次の日になった。
その日の4時間目が終わった直後だった。
教室がざわつく。昼休みの空気に切り替わる時間帯。
俺は朝のうちに買っておいたパンを出そうとしていた。
——声が聞こえた。
「佐藤さん、今日の掃除なんだけどさ」
女子グループの一人が琴葉の席に寄っていた。
名前は確か——宮前。クラスの中心にいるタイプの子だ。
「私、今日ちょっと委員会があって。佐藤さん、代わってくれない?」
琴葉は少し間を置いて、小さく頷いた。
「……うん」
「ほんと? ありがとー! 助かるー!」
宮前が笑顔で手を合わせた。
——減った。
琴葉のゲージが、がくんと落ちた。
体が強張る。さっきまで100%だったのが、一気に下がった。
宮前は気づいていない。当然だ。琴葉の表情は変わっていない。
いつものクールな顔のまま。
宮前が自分のグループに戻る。
「佐藤さん引き受けてくれたー」
「やったー。あの子優しいよね」
「ね。今度なんかお礼しよ」
何気ない会話。悪意はない。たぶん本当に悪い子たちじゃない。
でも——仕事を押し付けておいて、引き受けてもらった後の「ありがとう」。
感謝の形をしてるけど、中身は——
ゲージを見る。
オレンジ。まだ下がっている。
さっきの短いやりとりだけで、ここまで。
琴葉は席に座ったまま、窓の外を見ている。
表情は変わらない。姿勢も変わらない。
——でも、ゲージは嘘をつかない。
身体が勝手に動く。後ろから斜め前の席に向けて上半身を伸ばす。
琴葉の席の後ろに頭だけ近づけて、口が先に開いた。
「……佐藤、大丈夫か?」
琴葉が体ごとこっちを向いた。
「……は!?」
声が、思ったより大きかった。周りの何人かが一瞬こっちを見た。
俺も驚きて身体を戻す。
防衛反応。素で出たみたいだ。
怒りともびっくりとも違う——突然触られた猫みたいな。
「いや、その……顔色、悪いから」
そう言った瞬間、琴葉の目がわずかに揺れた。
一瞬だけ、何かを確かめるような目。
——すぐに消えた。
「……別に」
短く言って、琴葉は自分の反応を取り繕うように姿勢を正した。
「余計なお世話」
低い声。怒りではない。ただの遮断。
しまった、声が大きかった——みたいな気まずさを隠すように、弁当の包みを掴んで席を立った。
教室を出ていく。足取りは普通。姿勢も崩れていない。
——見た目は、何も変わっていない。
「……おい、望」
悟が後ろから声をかけてきた。
「今の何」
「……は?」
「は? はこっちのセリフ。いきなり佐藤さんに話しかけて、秒で撃沈したけど」
「……顔色、悪そうだったから」
悟が怪訝な顔をした。
「顔色? 普通だったろ、あの子」
「…………」
「ていうかいつもと同じだったぞ? 全然変わんなかったけど」
——そうだ。
そうなんだ。悟から見たら、琴葉はいつも通りだった。
表情も、姿勢も、声も。何も変わっていない。
変わっていたのは、ゲージだけだ。
俺にしか見えないもの。
「……勘違い、だったかも」
「勘違いであれやったの? 度胸あんな」
「……うるさい」
「まあ、話しかけたかっただけだろ。素直に言えよ」
悟はそう解釈した。そのほうが自然だ。
クラスメイトの女子に話しかけたくて、下手な口実を作った男子。
——違う。でも、そうとしか見えないよな。
悟がパンを広げ始める。
俺もパンを食べ始める。あまり食欲がない。
琴葉のゲージは、オレンジだった。あの子の顔は、いつも通りだった。
俺だけが知っている。俺にしか見えない。
——それが正しいのかどうかも、分からない。
5分ほど経って、俺は残りのパンを一気に口に詰め、水で胃に流し込む。
「悟、ちょっと出る」
「お、追撃?」
「……便所」
「……メシ時に言うなよ」
悟が顔をしかめた。俺はそのまま教室を出た。
琴葉を探していた——わけじゃない。ただ、あのオレンジが頭から離れない。
普段100%の人間が、あそこまで落ちて、一人で大丈夫なのか。
前にも、一度あった。ゲージが赤くなっている人を見て、何もしなかったことが。
あのときは、大丈夫だと信じた。信じて、何もしなかった。
——結果がどうなったかは、考えたくない。
階段の踊り場だった。
琴葉が壁に手をついていた。
もう片方の手には弁当の包み。まだ食べていない。息が浅い。
——ゲージは赤に近い。落ちている。昼休みに入って、まだ回復していない。
足が止まった。
琴葉が俺に気づいた。目が鋭くなる。
「……何? なんで来るの」
さっきの教室よりも低い声。だが今度は、さっきみたいに大きくはならなかった。
琴葉が俺から背を向ける。離れようとしている。
一歩。二歩目で、足がもつれた。
体が傾ぐ。壁を掴もうとした手が空を切る。
手が伸びていた。
琴葉の腕を掴む。細い。思ったより、ずっと。
「——っ」
琴葉が目を見開いた。
「離して」
振り払われた。強くはなかった。でも、明確な拒絶だった。
琴葉が屋上への階段に向かう。弁当の包みは落とさなかったようだ。
それを抱え直して、一段、二段と上がっていく。
俺は追わなかった。追えなかった。
さっき振り払われた手のひらに、まだ感触が残っている。
数段上がったところで、琴葉が足を止めた。
振り返りはしなかった。
「……教室で」
小さな声。
「なんで分かったの」
階段に反響して、少しだけ遅れて届いた。
俺が答える前に、琴葉は階段を上がっていった。
錆びた扉の音がして、それきり静かになった。
一人残された踊り場で、俺は手のひらを見た。
——なんで分かったの。
顔色は普通だった。悟もそう言った。見た目には、何も変わっていなかった。
なのに俺は「大丈夫か」と言った。
琴葉はそれを、不思議に思った——いや、違う。
あの声は、不思議がっていたんじゃない。
確かめようとしていた。
この踊り場は薄暗い。窓もない。誰もいない。
琴葉の足音はもう聞こえない。
手のひらを握る。あの細さが、まだ消えない。
答えられなかった。何も。
——でも、聞かれた。
琴葉は初めて、俺に問いかけた。




