第19話「2人の劇薬」
「——私がいるから、しんどいの?」
世界が止まった。
違う。
違う。真逆だ。お前がいるから持ってる。お前がいなかったらとっくに——
でも言えない。説明できない。
「お前の頭の上にバーが見える」なんて。
「…………」
口を開いた。声が出ない。
「……違う」
それだけ絞り出した。
「違う、って……じゃあ何なの」
「…………」
「何に苦しんでるの。私を見る時——あんた何考えてんの?」
——答えられない。
答えたい。全部話したい。でも。
「お前のゲージが見える」「ずっと数値を追ってた」「見たくないのに見えてしまう」
言えるわけがない。
沈黙が落ちた。重い沈黙。
琴葉のゲージが——下がっている。
60%台から、50%台に。
不安で削れている。
——また、ゲージを見てる。
こんな時にまで。こいつの顔じゃなくて、数値を。
目を逸らした。ゲージから。
琴葉の顔を見た。
目が潤んでいる。唇を噛んでいる。答えを待っている。
何か言いたい。でも言葉にならない。
「……お前の、せいじゃ——」
途切れた。違う。そうじゃない。もっとちゃんと。
「お前がいなかったら——俺——」
また途切れた。出てこない。
何を言っても嘘になる気がした。
全部は言えないから。
一部だけ渡しても、それは欠けた言葉で——
「…………」
「…………」
沈黙。西日が傾いていく。
琴葉の視線が斜め下にずれた。足元のフェンスの影を見ている。
——このまま黙ってたら、あいつは「やっぱり私のせいだ」って思う。
でも言葉が見つからない。
ゲージのことを抜きにしたら、何が残る——
「…………」
長い沈黙。
琴葉の肩が小さく落ちた。
フェンスに寄りかかったまま、腕を抱くように組んでいる。
逆光の中で、少しだけ小さく見えた。
——琴葉が、こっちに向き直った。
目が赤い。でも——口元が、わずかに動いた。
「……許す。申せ」
——は。
小さい声だった。
いつもの姫ムーブ。踊り場で「入城料」と言った時と同じ——
——同じじゃなかった。
声が、震えている。
ふざけようとしている。場を軽くしようとしている。
自分も怖いのに。答えが怖いのに。
俺が言葉に詰まってるのを見て——待ってくれている。
逃げないまま——道を作ろうとしている。
——こいつは。
ゲージなんか見えないのに。数値なんか知らないのに。
俺が苦しんでるのを、素手で見つけて、素手で追いかけて、今ここに立っている。
聞きたくない答えが返ってくるかもしれないのに——聞きに来た。
——有り難い。
そうだ。有ること自体が、難しい。こんなこと。
立ち上がった。
膝が少し笑っている。
壁を背にしていた方が楽だった。でも、座ったままじゃ言えない。
琴葉との距離。三歩分。
フェンスの影が二人の間を横切っている。
「……全部は話せない。今は——ちゃんと説明できない」
琴葉がこっちを見た。
「…………」
「でも——お前のせいじゃない。逆だ。全部逆なんだ」
声が震えた。自分の声が。
「お前がここまで俺のこと見ててくれたこと——」
言葉が止まらなかった。
「痩せたって気づいてくれたこと。心配してくれたこと」
「笑い方がおかしいって——手、掴んで止めてくれたこと」
「全部、お前がいなかったら俺どうなってたか分かんない」
一語しか見つからない。
探した。他の言葉を。何か別の、もっとうまい言い方を。
違う、うまくなくていい。ただ素直な言葉を。
この言葉しかない。これだけが嘘じゃなかった。
「だから——ありがとう」
「は!?」
琴葉の目が見開かれた。
ゲージが——満ちた。
50%台だったバーが一瞬で100%を超え、溢れるように青みがかっていく。
減らなかった。——増えた。「ありがとう」で、増えた。
今まで見たどの色とも違う。
でも、そんなことはどうでもいい。琴葉を見ろ。
「……これ以外の言葉が、出てこなかった」
——知っている。この言葉があいつにとって何なのか。
知った上で言った。他に言葉がなかった。
琴葉が口を開いた。閉じた。また開いた。
——何も出てこない。
言い返そうとして、言葉が追いつかない顔をしている。
琴葉の頬に、涙が伝った。
一筋。本人は気づいていない。
「……なんで」
声がかすれている。
「…………」
「質問に答えてない。全然答えてない!」
「……うん」
「意味分かんない。聞きに来たのに。なんで——」
手の甲で目元を拭った。
そこで止まった。——濡れていた。
「なんで、ありがとうなの」
泣いてる。
「——泣いて、ないし」
「……ずるい」
ゲージの色が深くなっていく。
藍に近い。脈動している。速い。
「あんたの『ありがとう』——ずるいんだよ」
——分かる。こいつにとって「ありがとう」がどれだけ重い言葉か。
中学で浴びた「ありがとねー」は、次の要求のための潤滑油だった。
でも俺のは——次がない。打算もない。
理由すら十分に説明できないまま、ただ差し出しただけだ。
不器用で。足りなくて。でも——嘘じゃない。
だから大丈夫だと思った。
ありのままぶつけるしかなかった言葉は、こいつを壊さない。
ゲージの色が——紫を通り越した。見たことのない色だ。
脈動が加速している。心臓の鼓動みたいに。
琴葉が涙を拭った。何度も。止まらない。
風が止まっている。世界から音が消えたみたいだ。
琴葉が、深呼吸した。震えている。
フェンスから背を離した。一歩こちらに近づく。
こっちを見た。
涙の跡。赤い目。赤い耳。
また一歩。
手を伸ばせば届く距離で——泣き顔のまま、口を開いた。
「……こっちこそ」
「…………」
「あたしに——大丈夫かって。最初に声かけてくれたこと」
「何も聞かないで、ずっと隣にいてくれたこと」
「あたしが全部ぶちまけた時——ただ、聞いてくれたこと」
声が震えている。止まらない。でも止めない。
琴葉の顔が——晴れていた。
涙の跡が残ったまま、口元だけ笑っている。
泣き笑い。すっきりしたような、怖いものを乗り越えたような。
「——ありがとう」
避けなかった。
自分を壊した言葉を——自分の意志で、選んだ。
胸の奥が、じわりと温かい。
染み渡っていく。——満たされていく。
ゲージの色が——白くなった。
全ての色が混ざり合って、白。
琴葉は崩れなかった。壊れなかった。
過去の「ありがとねー」は琴葉を壊した。
浴びすぎて、潰れかけた。
でも今の「ありがとう」は——琴葉が自分で撃った。
壊れることを覚悟して、撃ち返した。
白いゲージが一瞬、ぱっと光り、薄くなっていく。
薄くなって——
消えた。
琴葉の頭上に、ゲージがない。
気づいたら、もうなかった。
視界が——開けていた。
フェンス。空。雲。何も浮かんでいない。
ただの景色が、やけに鮮やかだった。
ずっと鳴っていた耳鳴りが——止んでいた。
怖くない。
怖くなかった。
琴葉が——崩れるように、一歩踏み込んだ。
俺の胸に、顔を埋めた。
額が鎖骨のあたりに当たる。髪が触れる。温かい。
「……真っ赤だから見ないで」
声がくぐもっている。顔を上げない。
耳が——真っ赤だ。
ゲージの赤じゃない。ただの、赤。
ゲージはもう分からない。
琴葉が今何パーセントなのか、見えない。
でも、赤い耳は見える。震えている肩は見える。
制服越しの体温は——感じる。
「真っ赤だな」
「……見んなよぉ」
「……見てるけど、ゲージは見てない」
「何それ」
「……何でもない」
琴葉の手が、俺の制服をぎゅっと掴んだ。離さない。
そっと肩に手をかけて、抱き寄せた。
---
ゲージは、見えなくなった。
代わりに——ずっと見落としていたものが、見えるようになった気がする。
だから——いい。
答えられなかった質問は、まだ宙に浮いている。
いつか話せる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
でも——こいつの手が、ここにある。それだけで。
ここまでお読みくださり「ありがとう」
次回、最終回。フィナーレです。




