第16話「あの踊り場」
朝の教室。
席について、鞄を机の横にかけた。それだけのことが、やけに重かった。
「おはよー、天野」
隣の席の田中が声をかけてくる。
「おう」
返した。声に力がない。口角が上がらない。
田中が「元気ねーな」と笑った。いつもなら「お前もな」と返せた。今日は——口が動かない。
教室を見渡す。ゲージが目に入る。
田中。山口。窓際の女子グループ。朝の教室としては標準的な風景のはずだ。
以前はそうだった。当たり前のバックグラウンドノイズだった。
今は——うるさい。全部うるさい。
全員のゲージが同時に頭に入ってくる。
前は流せたのに、今は一つ残らず引っかかる。
目を逸らしても色が残る。一度見たゲージが、頭から出ていかない。
琴葉のゲージに目が行った。
マックス。教室の遮断モード。壁を張っている。
いつものことだ。教室ではいつもこう。クールな仮面の下で、誰も入れない。
——でもそれすら気になる。完全に閉じている。
さっき俺が来たとき、一瞬だけこっちを見たのに。もうスイッチが入っている。
教室にいる限り、琴葉はマックスでいる。俺がいても。
当然だ。分かっている。分かっているのに。
一限前にコンビニで買ったパンを齧った。三口で手が止まった。半分残っている。
——最近こういうの多い気がする。たぶん朝メシ食べすぎてるんだろう。
パンを袋に戻して、机にしまった。
◇ ◇ ◇
昼休みのチャイムが鳴った。
いつもなら、もう立ち上がっている。弁当を持って屋上に向かう。あいつがいる場所へ。
——今日は、大丈夫か。
この顔で行って。この声で。いつも通りに笑えるか。
あいつは鋭い。ゲージなんか見えないくせに、俺の不調にはすぐ気づく。心配する。ゲージが下がる。
——こいつに心配されるわけにはいかない。
俺がゲージで気づける側だから。それだけが俺にできることだ。逆は駄目だ。
でも——行かなかったら、それはそれで気にするだろ。
「望、屋上行かねーの?」
悟が声をかけてきた。
「……行く。ちょっと遅れる」
悟のゲージ。何か言いたそうに揺れた。でも追及はしなかった。
「おう。——ちなみに佐藤さんもう行ったぞ。」
「……頼んでない」
「……無理すんなよ」
「しねーよ」
悟が購買に向かっていく。教室が空いていく。
琴葉の席は、もう空だった。
——行こう。いつも通りの顔で。大丈夫。いつもやってることだ。
立ち上がった。教室を出た。
◇ ◇ ◇
屋上への階段。
一段が、やけに遠い。
行けば琴葉がいる。いつもの場所で、いつもの距離で。
——笑えるか。今日の俺で。
踊り場に差しかかった。
壁にもたれた。ちょっとだけ。すぐ行く。
——座り込んでいた。
立ち上がろうとして、膝に力が入らない。いつの間にか膝を抱えている。ちょっと休むだけのつもりだったのに。
——ここ、琴葉を見つけた場所だ。
壁に手をついて、息が浅くなってた。「なんで来るの」って——拒まれた場所。
今、同じ場所に俺が座っている。
誰もいないのに、頭の中がうるさい。
さっきすれ違った奴——オレンジのがいた。大丈夫か、あいつ。階段で見かけた運動部の奴は90%。あれは問題ない。
——もう見てないのに、勝手に思い出す。こめかみが脈打っている。
屋上には、たどり着けなかった。
でもここには琴葉がいない。琴葉がいなければ、好きだから追ってしまうゲージを見なくて済む。
……追わなくて済むはずなのに、気になっている。
琴葉のゲージ。今、何%だろう。
俺が来ないことに気づいたか。たまたま来なかった——そう思ってくれればいい。
——やめろ。見るな。思うな。
ここからじゃ見えない。なのに頭に浮かぶ。見えてもいないゲージを、追っている。
目を閉じた。
見えるのがしんどい。でも見ないのはもっとしんどい。
——でも今日は、見る側でいられる自信がない。
……疲れた。
本当に、疲れた。
好きだから追う。追うから削れる。削れても止められない。
——もう、減ってもいい。
どうせ見えない。自分のは。
……咲希姉さんも、こうだったのかな。「大丈夫」って言って、自分のゲージが見えなくて、限界まで気づかなかった。
いや、違う。俺は大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだ。
膝に額をつけた。冷たい。
目を閉じていれば、ゲージは見えない。当たり前だ。
でもまぶたの裏に色の残像がちらつく。緑。青。赤。重なって、混ざって、頭の芯がじんじんする。
閉じても消えない。
◇ ◇ ◇
どれくらいそうしていたか分からない。
足音が聞こえた。
この時間、この場所に来る人間はいないはずだ。
午後の授業棟の踊り場。用がある人間なんていない。
足音が近づいてくる。止まった。
すぐ近くで。
顔を上げた。
琴葉が立っていた。
「——ここにいたんだ」
たまたま、じゃない。琴葉は俺を、探しに来た。




