第14話「彼女の劇薬」
あれから何日か、同じ昼休みが続いた。
屋上に行って、隣に座って、何も聞かない。
琴葉も何も言わない。いつも通り。
その日も、そうなるはずだった。
屋上。雲が多い。日差しが翳ったり差したりする。
琴葉は弁当を食べ終わって、壁にもたれてぼんやり空を見ている。
俺も何も聞かない。いつもの沈黙。
「……ねえ」
「ん?」
「あんたといるとさ、戻るんだよね」
「……何が?」
「他の人といると削られるのに、あんたは違う。なんか、ここにいると戻る」
ぽつりと。独り言みたいに。
琴葉のゲージを見た。——85%前後。穏やかに揺れている。
教室の100%はいつもの鎧。ここでは外れている。
「……あんたがいると戻る」
二度目。さっきより少し小さい声。
何て返せばいいか、分からなかった。
嬉しいのか苦しいのか、よく分からない感情が胸を通り過ぎた。
「……そっか」
「……うん」
沈黙。風が雲を運んでいく。日差しが消えて、屋上が少し暗くなった。
「……前にさ」
琴葉が口を開いた。
「聞きたいことあるなら聞けば、って言ったじゃん」
「……うん」
「あんた、聞かなかったよね」
「……まだ無理だって、言った」
「うん」
沈黙。
「……あたしから話す。いい?」
「…………」
「……聞かれるよりマシかなって」
「……ん、聞く準備はできてる」
琴葉が鼻で笑った。力のない、でも少しだけ肩の力が抜けた笑い。
「あんたなら話せるかなって。——なんかさ、この前カフェのこと聞いちゃったし。借りっていうか」
「……別に借りとかじゃ」
「いいから。話す」
「……中学のときさ。あたし、今と全然違ったんだよ」
琴葉が空を見ながら話し始めた。
「素のまま。今あんたに見せてるのと同じ。でもみんなに優しくして、頼まれたら何でもやって」
「文化祭の準備とか、委員会の雑用とか。気づいたら何でも屋みたいになってた」
「『琴葉に頼めばやってくれる』『琴葉ちゃんがいると助かる〜』」
声は淡々としていた。
でも——声が震えている。微かに。普段の琴葉じゃ絶対に気づかないレベル。
膝の上の拳。指先が白くなっている。
「でも、なんかさぁ。疲れちゃったのさ。ありがと〜って、浴びすぎてもありゃ毒なんだって思ったね」
「『ありがとねー』がさ、次の押し付けの前振りだったんだよ。感謝してるから、次もよろしくねって」
「断れなかった。だって『ありがとう』って言ってくれてるのに。悪い人じゃない……って、思おうとした」
「でも限界来ちゃって」
琴葉が小さく笑った。自嘲。
「文化祭当日に熱出して、倒れちゃった」
一拍。指先が膝を掴む。
「……しかもさ。遠方で入院してるおばあちゃんがいて。文化祭の次の日に、家族でお見舞いに行く予定だったんだよね」
「…………」
「でも、文化祭の件であたしだけどうしても行けなくて」
声が平坦になった。感情を押し殺しているときの琴葉の癖だと、もう分かる。
「結局、あたしだけ会えないまんまになっちゃって」
「…………」
「あの日倒れてなければ、行けたのに。全部、あたしがお人好しだったせいだって——ずっと思ってる」
琴葉の声が途切れた。また小さく笑った。さっきより、ずっと苦い笑い。
「それから高校では誰とも関わらないって決めた。クールぶってれば話しかけられないし」
——聞いている間、俺のまなざしはぶれていた。
琴葉の言葉を受け止めたい。全部聞きたい。
なのにゲージが目に入る。
話すたびに下がっている。色が緑から黄色に変わっていく。
この話をしていること自体が消耗している。
黄色を通り越してオレンジに近づいている。
止めるべきか。
ゲージが「この子は消耗している」と警告してくる。
でも琴葉は自分の意志で話している。
どっちだ。ゲージの数値を信じるのか。琴葉の「話したい」を信じるのか。
——見えなければ、迷わなかったのに。
俺はゲージから目を逸らした。意図的に。
琴葉の顔を見た。
目。震えている指先。でも話し続けている。自分の意志で。
「……聞いてるよ」
ゲージじゃなく、琴葉を見る。今はそれでいい。
——でも視界の端で、数値がちらつくのは止められなかった。
◇ ◇ ◇
琴葉が話し終わった。
長い沈黙。
風が吹いた。雲が流れて、日差しが戻った。
屋上のコンクリートが明るくなる。
琴葉の肩から力が抜けている。
さっきまで白かった指先に、血の色が戻っている。
ゲージ。——低い。
でも、沈黙の中で——少しずつ上がり始めた。
オレンジが黄色に。黄色が緑に近づいていく。
出したから楽になったのか。溜め込んでいたものを吐き出して、軽くなったのか。
「……なんか、すっきりした」
「……そっか」
「誰にも言ったことなかったから」
「…………」
琴葉が口を開きかけて、閉じた。もう一度。
「——聞いてくれて、サンキュなっ」
心臓が跳ねた。
——俺の口癖だ。
「ありがとう」じゃない。あの言葉は使えない。
でも——俺の言い方を借りて、伝えてきた。
反射的にゲージを見た。
——動いていない。
……あの言葉を避けたから、か。でも——俺のを使ったのは、何でだ。
考えたかった。
でも頭の芯がぼんやりしていて、さっきまでの色の残像がちらついて、まとまらない。
琴葉は自分で「サンキュな」と口にしたことに驚いている。耳が赤い。
「……忘れて」
「忘れない」
「…………」
長い沈黙。居心地は悪くない。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴った。
教室に戻る。午後の授業。普通に受けた——つもりだった。
放課後。教室に一人。
琴葉が先に帰って、悟もどこかに行って、周りの席が空になった途端——どっと来た。
机に突っ伏した。身体が重い。頭がぼんやりする。
午後の教室がきつかった。屋上の二人きりとは違う。
目に入る全員分のゲージが、一斉に頭に入ってくる。
それに——琴葉のことが、ずっと頭にある。
あいつに、あんなことがあったんだ。それを——俺に話した。
同情とかじゃない。ただ——色々なものが一度に入ってきすぎて、処理が追いつかない。
目を閉じてもゲージの残像が消えない。
まぶたの裏に色がちらついて、じんわりこめかみが痺れる。
フィルターがもう効かない。前は、見たくないゲージは意識の外に追い出せた。
今はそれができない。全部が、等しい強さで目に入ってくる。
帰り道。足が重い。この前の「少しだけ重い」とは違う。明確に、重い。
これくらいで壊れたりしない。
——自分のゲージが見えたなら、今、どんな色だろうか。
◇ 琴葉
全部、言ってしまった。
誰にも言ったことなかった。なのに、アイツの前だと——出てきてしまった。
不思議だ。全部吐き出したのに、気分はわるくない。
アイツの前だと素のままでいられる。
アイツは、何も言わなかった。「大変だったね」とも「かわいそう」とも言わなかった。
ただ、聞いてくれた。
途中、すごく真剣な顔してた。苦しそうな顔。
——重い話したのは分かってる。でも、あんな顔させるつもりじゃなかった。
……でも、冷静に考えて、あたしの話だけで、ああなる?
帰り際、アイツの足取りが重かった気がする。いつもはもうちょっと軽いのに。
……気のせい、だよね。




