第13話「嫉妬と点P」
「この前の休み、駅前のカフェにいたでしょ」
屋上の扉を開けて隣に座った瞬間、琴葉が言ってきた。
膝の上に紙袋を抱えている。
——先週「あたしがパン買ってくから」と言っていた、あのパンだ。
てっきりすぐ渡されるかと思ったのに、両手で押さえたまま離す気配がない。
駅前のカフェ。——ああ、こないだの咲希姉のことか。
「……うん。いたけど」
「窓際から、見えた。……で、一緒にいた人、誰?」
琴葉の声は平坦だ。でも紙袋を押さえる指先に、力が入っている。
「いとこの姉さんだよ。咲希っていう。久しぶりに会ったんだ」
「……ふーん。いとこ」
琴葉の肩から、ストンと力が抜けた。——けっこう、分かりやすく。
「いとこかあ……」
小さく繰り返して、自分の声にハッとしたみたいに口を閉じた。紙袋を持ち直す。
「仲良さそうだったよね?」
「まあ、姉弟みたいなもんだし」
「…………ふーん」
すっきりしたわけでもなさそうで、視線がほんの一瞬だけ泳いだ。
でも琴葉は何かを飲み込むみたいに小さく息をついて、紙袋を差し出してきた。
——さっきまで握りしめていた手が、やっと開いた。
「……正直に答えた臣下への、褒美」
中を覗いた。カレーパンと、メロンパン。
「お前はメロンパン?」
「……うん」
「……サンキュな」
琴葉のゲージを見た。——動かない。
教室にいるとうるさいくらい目に入るのに、屋上で琴葉と二人だと、他のゲージがない分だけ楽だった。肩の力が勝手に抜ける。
やっぱり、俺の言葉だけは削らない。
カレーパンを齧った。うまい。揚げたてじゃないけど、まだ温かい。
——ここ数日あんまり食えなかったけど、今日は入る。
隣で琴葉もメロンパンを齧っている。さっきまでの張り詰めた顔が、少しだけ緩んでいた。
◇ ◇ ◇
——それから数分後。昼食を食べ終え、残りの昼休み。
琴葉がため息をつきながらシャーペンを投げ出した。
「……ありえん。なんで点Pは勝手に動くのさ。じっとしててよ」
「姫、また数学でご乱心ですか」
「うるさい臣下。これ意味わかんない。助けて」
琴葉がノートをこちらに押し付けてくる。
この間もそうだったが、こいつは本当に数学が苦手らしい。
「ここは公式に当てはめるだけだろ。ほら、このxに……」
身を乗り出してノートを指差す。肩が触れる。
琴葉は気にするそぶりもなく、俺の顔とノートを交互に見ている。
「……あ、なるほど。そういうこと」
「分かった?」
「分かった。……数学だけは認めてあげる。臣下から昇進。右大臣」
「右大臣? 左大臣じゃなくて?」
「左大臣は歴史もできる人。あんた、壬申の乱で誰が勝ったか言える?」
「……天武天皇?」
「正解。じゃあその前の名前は」
「…………」
「大海人皇子。ほほほ、左大臣はまだ遠いのぉ」
……姫というか、皇女だったのかこいつ。
琴葉が小さく笑う。ゲージは80%台で楽しそうに揺れている。
俺の前ではこんなに素直に頼ってきて、ポンコツな顔を見せるくせに。
◇ ◇ ◇
午後、授業後の休み時間。
教室に戻ると、また全員のゲージが一斉に目に入ってきた。
屋上の静けさが嘘みたいだ。こめかみの奥が、じわりと重くなる。
自分の席で教科書を出していたら、斜め前の琴葉の席に、メガネをかけた男子が来ていた。
ノートを広げて何か聞いている。
——数学だ。声が聞こえる距離。
さっき屋上で俺が教えたのと同じ範囲。
見たくもないのに、そいつのゲージまで視界に入ってくる。
琴葉がクールモードのまま、淡々と説明している。
「……いいよ。ここの公式は——」
冷たい声。表情も変わらない。
いつもの、教室での佐藤琴葉。
さっき俺に教わった通りの説明を、完璧な優等生の仮面を被って口にしている。
質問している男子は、時々ノートから目を離して、琴葉の横顔をチラチラ見ている。そのたびに、そいつのゲージが小さく揺れた。
上がったり下がったり、落ち着かない動き。
——見たくなくても分かる。あいつ、絶対数学の質問は建前だろ。
男子が立ち上がって頭を下げた。
「ありがとう!助かったよ」
——琴葉のゲージが、ぐっと減った。
たった一言の「ありがとう」で。
机の下で、拳を握っていた。
さっきまで「点P動くな」って文句言ってたくせに。本当は苦手なのに、完璧な顔して教えて、そのお礼で削られてる。
——なんでだよ。なんで断らないんだよ。
俺の前では素直に「助けて」って言えるくせに、なんで他の奴の前では仮面被って、わざわざ自分を削ってまで応えてやってるんだ。
奥歯を噛んだ。音が出なかったのは、たぶん偶然だ。
——琴葉がこっちを見た。
一瞬だけ。もうクールモードに戻っている。
気づかれた? いや、たまたま目が合っただけだ。……たぶん。
◇ ◇ ◇
放課後。自販機コーナーでコーヒーを買っていたら、悟が隣に立った。
「お前、さっきからずっと顔怖いけど」
「……別に」
「嘘下手」
「…………」
ボタンを押す。缶が落ちる音だけが響いた。
「何かあった?」
「……別に何もない。ただ、さっき佐藤に数学聞いてた奴のこと、ちょっと」
「気になった? どう気になった」
頭の中にまだ、あの減っていく数値がこびりついていた。つい出た。
「……ゲージが減ったから」
——しまった。
「ゲージ? ……まあいいけど。で、何がそんなに引っかかってんの」
「……あいつ、無理してた。本当は苦手なのに完璧なフリして教えて、そのお礼で消耗してた。なんで断らないんだよ」
悟が少し黙った。
「……ゲージとか消耗とか、お前が何言ってんのか正直よく分かんねえけど」
——言われて、自分の言葉を振り返った。ゲージ。消耗。断らない。
……冷静に聞いたらだいぶヤバい奴の言い方だ。さっきまで握っていた拳を開くと、爪の跡がついていた。何をそんなに熱くなってたんだ、俺は。どうかしてる。
「……それ、心配してんの? 怒ってんの?」
「…………」
——分からない。あいつが削れるのが嫌で、それを俺が止められないのが腹立たしい。缶を持つ手に、また力が入っていた。
「……両方」
「燃費悪いな、お前」
「……うるせえ」
悟が笑った。俺は笑えなかった。
缶コーヒーを開けた。苦い。胸のざわつきも、まだ残っていた。
——明日も屋上に行く。行って、いつも通り隣に座る。
でも「なんで断らないんだよ」は、たぶん聞けない。聞いたらあいつを追い詰める。
点Pの軌道は変えられない。見てることしかできない。
……それでも見てる方を選ぶんだから、燃費が悪いのは認めるしかない。




