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第12話「ありがたや、有り難し」

悟がプリントの山を落とした。


朝の廊下。先生に頼まれて配布物を運んでいた悟が、曲がり角で別のクラスの奴とぶつかって、三十枚近いプリントが宙を舞った。


「うわーーー」


悟がしゃがみ込む。プリントが廊下の床に散らばっている。ぶつかった奴は「すんません」と言って去っていった。


俺はため息をついて、しゃがんだ。


「……お前、ちゃんと前見て歩けよ」


「いや見てたって。向こうが急に曲がってきたんだって」


「どっちでもいいから拾え」


二人でプリントを集めた。上下左右がめちゃくちゃになっている。悟がうんざりした顔で並べ直そうとして、また崩した。


「……もういい、貸せ」


俺がまとめて揃えた。角を叩いて整える。悟に押しつける。


「おー、サンキュー。ありがたや〜」


悟がいつもの調子で言った。軽い。いつものやつだ。


——ふと、悟のゲージを見た。


ほぼ動いていない。


……そういえば悟はいつもそうだ。「ありがたや〜」「助かるわ〜」「マジ感謝」——口癖みたいに言うくせに、減らない。前からそうだった。


「悟」


「ん?」


「お前のその『ありがたや』って、どっから来んの」


「は? 急に何」


「いや、お前って全然——」


——危ない。ゲージの話をしかけた。


「……口癖だろ? どこで覚えた」


悟がプリントを抱え直しながら、首を傾げた。


「うちの親父がさ、何かっつーと『ありがたやありがたや』って言うんだよ。口癖が移った」


「そっか、お前んち寺だったな」


「そう。で、親父がたまにうんちく言うわけ。『ありがとう』は元々仏教の言葉なんだって。『有り難し』って書く。有ることが難しい。つまり滅多にないってこと」


「…………」


「なんか海に亀がいてどうのって話もしてた気がするけど、忘れた」


「ええ……」


「とにかく、誰かに何かしてもらうのは、当たり前じゃない。滅多にないことなんだよ。だから『ありがとう』」


悟が真面目な顔で言った。珍しい。


「……って親父は言ってたけど、俺のは完全に口癖だな」


「…………」


「つーか親父に『お前のは軽い』って怒られたことあるし」


「……実家で説法聞かされんの、どんな感じ?」


「最悪。飯時にやるから逃げらんない」


悟が笑った。俺も少しだけ笑った。


悟が、ふと思い出したように言った。


「あとさ、ありがとうって言われて嬉しいのと、ありがとうって言われて疲れるのって、何が違うと思う?」


「……急だな」


「いや親父がそういうこと言ってたなって。ありがとうにも種類があるんだぞーって」


「…………」


「何が違うと思う」


「……"次"がついてくるやつ、かな」


「お。深いじゃん」


「……別に」


でも頭の中では引っかかっていた。


悟の「ありがたや」は——軽いから、減らない。本心の重みがないから消費しない。


じゃあ。


俺の「サンキュな」も——軽いから減らないのか?


いや。俺は琴葉に本当に感謝してる。軽いつもりはない。


悟のは軽い。俺のは……?


同じ「減らない」なのに、何が違う?


◇ ◇ ◇


午前最後の授業が終わった。


気づけば教室を見回していた。


田中のゲージ。山口のゲージ。窓際の女子グループのゲージ。


——一人ひとりの色が、前より鮮明に見えている。気にしていないのに。気にしていないはずなのに、目が勝手に拾う。


頭の横でラジオが二局同時に流れてるみたいな感じ。うるさい、という程じゃない。でも前はこんな風じゃなかった。


……いつからこんなに見えるようになった?


琴葉がクラスメイトにプリントを渡していた。委員の仕事だろう。受け取った男子が「ありがとうございます」と言った。


琴葉はクールモードのまま「別に」と返した。


——ゲージが微減した。いつものパターン。「ありがとう」で削れる。


もう一人、女子が来た。「佐藤さん、これもお願い」。

琴葉が無言で受け取って処理する。「ありがとー」。また微減。


今日二回目だ。


俺は、気づいたら立ち上がっていた。


「あ、俺もそれ見せてもらっていい?」


琴葉の隣に立って、女子に声をかけた。意味のない行動だ。別に見る必要のないプリント。でも女子の注意が俺に移って、琴葉から離れた。


女子が俺にプリントの説明を始めた。適当に頷いた。


琴葉のゲージが——微回復した。


琴葉が少しだけ俺を見た。


「……何」


「たまたま」


「……」


琴葉は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


屋上。昼休み。


壁際に座って弁当を広げた。今日はいい天気だ。風がぬるい。五月の終わりの空。


琴葉は隣で弁当を食べている。


最近、言葉が少なくなった。姉さんのアドバイスを実践して、無理に喋らないようにしている。


静かだ。気まずくはない。


「……こういうの、いいね」


琴葉がぽつりと言った。


「何も喋らないで、ただいるだけ。楽」


「…………」


嬉しかった。琴葉が「楽」だと言ってくれている。


——でも、ほんの少しだけ。何かが引っかかった。すぐ消えたから、気にしなかった。


弁当のおかずを箸で突いた。唐揚げが三つ。ポテトサラダ。ミニトマト。


——箸が止まった。


唐揚げを一つ食べた。二つ目を持ち上げかけて、やめた。弁当箱の蓋を閉める。


「……もう食べないの?」


「ん。朝食べすぎた」


「ふーん」


琴葉は特に追及しなかった。


沈黙が続く。


やることがないから——どうしても、ゲージに目が行く。


琴葉のゲージ。85%前後。小刻みに揺れている。最近ずっとこのパターンだ。素と取り繕いの間で。


風が吹いた。琴葉が目を細めた。穏やかな表情。


ゲージが82%に下がった。


リラックスしてる? それとも何か考えてる?


——考えるのをやめられない。ゲージが視界に張りついて、頭が勝手に数字を追いかける。


沈黙だと、ゲージしか見るものがない。


邪魔だと思ったはずなのに、止められない。


午前の悟の言葉を思い出した。


有り難い。有ることが難しい。滅多にない。


じゃああの屋上で過ごす時間は——滅多にないことなのか。


滅多にない時間を、俺はゲージばかり見ながら過ごしている。


……最悪だ。


◇ ◇ ◇


放課後。悟と並んで歩いている。


「つーかさ、望」


急に顔を覗き込んできた。


「お前、最近ぼーっとすること多くない?」


「…………」


「今日も授業中、先生に当てられて固まってたじゃん」


「……あれはたまたま」


「たまたま多いな。大丈夫か?」


「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」


「寝不足?」


「色々考えちゃって」


悟がじっとこっちを見た。


「無理すんなよ」


「してない」


「相変わらず嘘ヘタだな」


悟と別れて一人になった。


少しだけ足が重い。


琴葉のことを考えた。今日の屋上。目を細めた顔。

「こういうの、いいね」って言ってくれた声。


——不意に、足取りが軽くなった。さっきまで重かったのに。


…………。


でも家に着いた途端、また足が重くなった。

考えすぎてるだけだ。寝不足が続いてるだけだ。


自分のゲージは見えない。だから「大丈夫」と思えてしまう。


分からないまま、また明日も屋上に行くんだろう。


有り難い時間を、ゲージばかり見ながら。




◇ 琴葉


休みの日、駅前のカフェに行った。一人で。


たまにやる。カフェラテ頼んで、スマホで漫画読んで、ぼーっとする。それだけ。


窓際の席に座って、ストローに口をつけたとき——見えた。


アイツがいた。


カフェの奥のテーブル席。知らない女の人と向かい合って、何か話してた。


——笑ってた。


知らない顔だった。


教室でのへらっとした顔でもない。屋上で私の隣にいるときの、ちょっと間の抜けた顔でもない。力が抜けてて、年相応で、楽しそうで。


相手の女の人も楽しそうだった。年上っぽい。パンケーキを食べながら、身振り手振りで何か喋ってて、アイツが時々ツッコんでて。


……声は聞こえなかった。でもずっと見ていた。


気づいたら、漫画のページが進んでなかった。


アイツには、あたしの知らない時間がある。あたしの知らない顔がある。


全部知ってるつもりだったわけじゃない。それは分かってる。


でも胸がざわっとした。嫉妬って呼ぶには大げさだし、怒りでもない。

ただ、なんか——ざわざわする。


……もっと知りたい、って思った自分に、ちょっとびっくりした。

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