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第11話「素顔とくしゃみ、反則行為」

屋上の扉を開けた。


琴葉はいつもの壁際に座っていた。膝を抱えて、空を見上げて。


「あ、来た」


声が少し弾んでいる。


琴葉の髪が、いつもより整っている気がした。

癖っ毛が落ち着いていて、毛先が揃っている。


前髪が——いつもは無造作に流しているのに、今日はきれいに横へ分けられていた。


——気のせいだ。


壁の近くに、何か小さいものが転がっていた。

コンパクトミラー。琴葉の持ち物だろう。鏡面が伏せてある。


——さっきまで使っていて、慌てて置いたような角度だった。


視界には入ったが、特に何も思わなかった。隣に座る。

いつもの50センチ。缶コーヒーのプルタブを起こした。


指が少しもたついた。力の入れどころが分からないような、妙な感覚。

すぐ開いたから気にしなかった。


——何も聞かない。ただ隣にいる。それだけでいい。


姉さんの言葉を思い出す。昨日決めたことだ。


「今日暑くない? 五月の終わりでこの気温ありえんでしょ」


「まだ五月だしな」


「五月でこれなら七月どうなんの。溶けるんだけど」


「溶けないだろ」


「溶ける。あたし暑いのマジで無理」


弁当を広げながら、琴葉のゲージをちらりと見た。


——あれ。


いつもの数値。だが、妙に落ち着かない動きをしている。


見ていると——目の奥がちかちかする。


会話中にゲージが細かく揺れている。

呼吸するみたいに上がったり下がったりして、安定しない。数字が、ぶれて見える。


ウニョウニョと、不規則に変動している。


琴葉が素で話しているときは安定する。でも何かの拍子に——俺が琴葉の顔を見たとき?


一瞬ゲージがぴくんと跳ね上がる。

クールモードが混じる。そしてすぐまた下がる。


——何と戦ってるんだ、こいつは。


いや、分かってしまう。俺を見ると跳ねて、目を逸らすと落ち着く。それが意味していることは——。


聞かないと決めた。でも見えてしまう。

見えてしまうどころか、ゲージが勝手に答えを教えてくる。聞いてもいないのに。


「……何じろじろ見てんの」


「見てない」


「見てた。ずっとこっち見てた」


「……弁当見てた」


「あたしの弁当?」


「自分の」


「自分の弁当そっちにないでしょ」


「…………」


バレてる。


琴葉が眉を上げて俺を見たとき、ゲージがまたぴくんと揺れた。跳ねて、すぐ戻る。


——見てしまった。また。


風が吹いた。砂埃が少し舞う。


琴葉が目を細めた。


「…………っ」


鼻がむずむずしている。


「………………」


我慢している。顔を横に向けて、必死にクールな表情を保とうとしている。


ゲージが跳ね上がった。クール維持モード全開。

——同時に琴葉の口が大きく開き始める。次の瞬間


「ぶぇっくし!」


我慢しきれなかった。


盛大なくしゃみ。クールの「ク」の字もない。屋上に響き渡って、フェンスの向こうで鳩が何羽か飛び立った。


ゲージが一瞬で落ちた。取り(つくろ)いが、完全に崩壊した。


「…………」


琴葉が固まっている。


「…………」


「……今、すごいの出たな」


「うるさい。忘れて」


「……姫の威厳が」


「忘れろ」


「……鳩が驚いて飛んだ」


「殺す」


「はしたないですぞ」


「無礼者め」


——言ってから、琴葉が自分で吹き出した。


琴葉が顔を覆った。耳が赤い。肩が震えている。


笑っていた。


顔を赤くして。くしゃみの涙を浮かべながら。心底おかしそうに。


クールの仮面なんかどこにもない。素のまま、無防備に、笑っていた。


——反則だ。


思考が止まった。心臓が跳ねた。顔が熱い。目が離せない。


教室のクールな佐藤琴葉からは想像もできない顔。この笑顔を知っているのは、世界で俺だけだ。


——反則だ。こんなの。


その瞬間——ゲージが揺れたのが、見えてしまった。


がくん、と落ちて——すぐ戻った。


笑っただけで、こんなに動いた。嬉しいのか。恥ずかしいのか。防衛が外れた分、消耗(しょうもう)したのか。


——分からない。


笑顔に見とれていたかった。あの顔を、ただ焼きつけたかった。


なのに——さっきのゲージが頭の中を離れない。


チャイムが鳴った。


足元の缶コーヒーが一口分、残っていた。いつもなら飲みきるのに。


琴葉が立ち上がる。階段に向かう途中で、一瞬だけクールモードに切り替わった。


肩が上がって、背筋が伸びて、目が冷たくなる。ゲージが跳ね上がる。いつもの遮断。


「……また明日、来る?」


「……ん、たまたまな」


◇ ◇ ◇


教室に戻る廊下を歩きながら、さっきの笑顔を思い出した。


あの笑顔は、反則だ。


でも——同時に、その瞬間のゲージの揺れも、頭に焼きついている。


笑顔を思い出したいのに、数字がちらつく。


…………邪魔だ。


隣にいるだけでいいと決めたのに、隣にいるだけで見えてしまう。

聞かないのと、見ないのは別だ。


黙っていれば踏み込まないと決めた。それは守った。

でも——盗み見をやめられていない。


ゲージが揺れるたびに目が追って、数字が跳ねるたびに意味を読み取ろうとしている。

聞かなくても、見てしまえば同じだ。


ずっと振り回されてきた能力が、初めて明確に——邪魔だと思った。

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