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第10話「言葉にすると壊れる」

日曜日。駅前のカフェで咲希(さき)姉さんと待ち合わせた。


ガラス越しに姉さんの姿が見えた。窓際の席で、アイスラテを飲んでいる。


——ちらり。


ゲージが見えた。


緑。80%台前半。安定した揺れ。


100%じゃない。でも——それが「戻った」ということなんだと思う。

あの冬の真っ赤とは、もう違う。


胸の奥がじんわり温かくなった。


「望ー! こっちこっち」


姉さんが手を振っている。満面の笑み。

朝からテンションが高いのは相変わらずだ。


「……姉さん、元気そうだな」


「元気だよー。ここのパンケーキめちゃくちゃ美味しいらしいよ。頼もうよ」


「俺はコーヒーでいい」


「えー。じゃああたしが頼むからちょっともらって」


メニューを覗き込みながら、姉さんがにこにこしている。


——その横顔を見ていて、不意に思い出した。


12月。親戚の集まり。あの日の姉さんも、笑っていた。

「仕事順調だよ」「忙しいけど楽しい」「大丈夫大丈夫」。

周りの親戚は誰も疑わなかった。


でも俺には、見えていた。姉さんのゲージだけが、真っ赤だった。

親戚の中で、一人だけ。鮮やかな赤。見間違えようのない色。


「望? どしたの、ぼーっとして」


「……いや、なんでもない」


——笑ってるのに真っ赤。あのときの違和感は、まだ体に残っている。


注文を済ませて、しばらく他愛もない話をした。

姉さんの職場の話。復帰後の業務量の話。新しくできた後輩の話。


「——ていうか姉さん、復帰してたなら早く言ってくれよ」


「あはは、ごめんごめん。1ヶ月ちゃんとやれたら連絡しようって決めてたの。心配かけたくなかったから」


 ——らしいな、と思った。自分で確かめてからじゃないと動かない人だ。


パンケーキが運ばれてきた。姉さんが「きたきた!」と目を輝かせている。


「で、電話のつづき。気になる人、って」


「…………」


「どんな悩みなの」


俺はコーヒーを一口飲んだ。ゲージの話はできない。

だから、言い換える。


「……その人に、聞きたいことがあってさ。でも聞いたら傷つけるかもしれない」


「うん」


「でも、気になって仕方なくて。知りたいのに、知ったら関係壊れるかもっていうか」


言いながら、また思い出す。

あの冬——姉さんのゲージが赤いのが見えていたのに、何もしなかった。


「ゲージが赤いよ」なんて言えるわけがない。

それに、言ったところで——高校生の俺に何ができた。


年が明けて、咲希姉さんは過労で倒れた。2ヶ月の休職。


その知らせを聞いたとき、頭の中にあの赤が蘇った。

見えてたのに、何もしなかった。

あの後悔は、今もまだ喉の奥に引っかかっている。


——だから琴葉のゲージがオレンジに沈んだとき、体が動いた。

姉さんの二の舞にしたくなかった。


見えているのに何もしない、あの後悔だけは、二度とごめんだった。


目の前で、姉さんがパンケーキを切りながら少し考えている。


「……望、一つ聞いていい?」


「うん」


「その人は、聞かれたがってる?」


「…………分かんない。でも、聞いていいとは言われてる」


「ふーん」


姉さんがフォークを置いた。


「じゃあさ、ちょっと別の角度から。——言葉に頼らないコミュニケーション、って考えたことある?」


「…………」


「一緒にいるだけ、とか。黙って隣にいるだけ、とか。言葉って便利だけど、万能じゃないから」


姉さんの声が、少し柔らかくなった。


「むしろ——言葉にすると壊れることもあるんだ」


——言葉にすると壊れる。


琴葉のことが頭をよぎった。「ありがとう」という言葉で壊れる子。

言葉が凶器になる子。


「私もねえ、休んでる間に学んだんだ。言葉にしなくても伝わることって、あるんだなあって」


姉さんが少し遠い目をして笑った。何かを思い出しているみたいだった。


——あのとき、俺が「ゲージが赤いよ」と言っていたら。言葉にしていたら。何か変わっただろうか。それとも——壊れていただろうか。


分からない。

でも今の姉さんは、言葉にしなくても伝わるものがあると言っている。

そんな経験を通って、そこに辿り着いている。


「無理に聞かなくてもいいんじゃない? 一緒にいる時間を増やすだけでも、伝わるものはあるよ」


「…………」


「相手が話したくなったら、向こうから話すよ。それまで、隣にいてあげれば」


◇ ◇ ◇


カフェを出た。駅までの道を並んで歩く。


「ねえ望」


「ん」


「私さ、倒れたとき——本当にきつかったんだよねえ」


「…………」


「後輩の仕事巻き取って、先輩の雑務も引き受けて。休日も家でずっと資料作って。体ぼろぼろなのに、止まれなかったわけさ」


「……なんで、そこまで」


姉さんが少し笑った。自嘲するみたいに。


「——『ありがとう』が欲しかったんだよね」


「…………」


「最初はさ、ただ困ってる人を助けたかっただけなの。でもいつの間にか——感謝されることが、止まれない理由になってたんだよね」


姉さんが前を向いたまま、淡々と続けた。


「『天野さんがいないと回らない』『ありがとう、助かった』。そう言われるたびに、もっと頑張れるって思っちゃって。もっと必要とされたいって。——気づいたら、ありがとうのために仕事してた」


——ありがとう、のために。


「それって、もう自分のためじゃないよね。他人の感謝で自分を保ってるだけ。……そんなの、いつか壊れるに決まってるのに」


姉さんの声が少しだけ震えた。


「倒れたとき、最初に思ったのが『これで誰にも感謝されなくなる』だったの。体が動かないことより、そっちが怖かった。——あはは、やばいよね」


「…………」


——ありがとう、という言葉。


琴葉の顔が、一瞬よぎった。


琴葉は「ありがとう」を受け取ると壊れる。

姉さんは「ありがとう」を求めて壊れた。


同じ言葉なのに——壊し方が、違う。


「でもね、休んでるうちにわかったの。感謝されなくても、私は私でいていいんだって」


姉さんが俺の横顔を見た。


「でも、戻れた。時間はかかったけど」

「壊れても戻れるんだよ。覚えといて」


——壊れても、戻れる。


姉さんのゲージは今、80%台で安定している。

あの冬の真っ赤が嘘みたいに。

100%じゃない。でも、それでいいんだと思った。


「ありがとう、姉さん」


「うん。また連絡してね」


改札の前で、姉さんが立ち止まった。こっちを向いて、右手を上げる。


「はい、望」


「……何」


「景気づけにハイタッチ」


しょうがないな。俺も右手を上げた。


ぱん、と軽い音。


咲希姉さんの手のひらは小さくて、温かかった。


「——よし。じゃあね」


姉さんがにっと笑って、改札を抜けていった。小走りで。振り返らなかった。


◇ ◇ ◇


——帰り道。一人になってから考えた。


屋上で琴葉に飴をもらったとき、俺は「サンキュな」と言った。

——ゲージは、減らなかった。


何が違うのかは、まだ分からない。

でも、分からないまま隣にいることはできる。


何も聞かない。何も言わない。ただ隣にいる。

——それでいい。そう思った。


でも。


聞かなくても、見えてしまう。

隣にいるだけで、ゲージは目に入る。


明日も屋上に行く。

聞かない。ただ、隣にいる。


カレーパンでも買って、「貢物にございます」とでも言えばいい。

そういう、くだらないやり取りのほうが、たぶん今はいい。


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