第1話「ありがとうは、減る」
「ありがとうは減らないから言い得」
なんて言うじゃないか。
あれは嘘だ。減る。
四月の教室。
高二の新クラスはまだどこかよそよそしい。
窓際の席で、女子生徒が友人にノートを返している。
「ありがとね〜」
軽い声。よくある光景。
ただ俺には、その子の頭の上にバーが見える。
横長の、ゲームのHPゲージみたいなやつ。
実際にそこに浮いているわけじゃない。
その子を認識した瞬間に、頭の上あたりにぼんやり重なって見える。
緑色。ゲージの上に数字まで出てる。
何のゲージかは、なんとなく分かっている。
心の余裕だ。
元気とか、気力とか、そういうのをひっくるめた
——心のバッテリー残量みたいなもの。
それがほんの少しだけ、減った。
緑が薄まり、黄色味を帯びた。
ほんの少し。気にするほどでもない量。
でも確かに、減った。そして返してもらった側——
ノートの持ち主の方は、ほんの少しだけ増えた。
「ありがとう」を言えば、少し減る。
言われれば、少し増える。いつもそうだ。
まあ、よくあることだ。
俺はなんとなく窓の外に目を向けた。
「のーぞーむー」
背中をバシバシ叩かれて、肩が跳ねた。
一瞬、教室の音が遠くから一気に戻ってくる。
ざわつき、椅子の軋み、誰かの笑い声。
俺は窓の外を見るフリをやめて、まばたきを一つした。
「……なに」
「昼メシ」
蓮見悟。俺の数少ない友人。
茶髪にピアス(片耳だけ)で、見た目通り中身もチャラい。
ただし寺の息子。実家の檀家さんが見たら卒倒するんじゃないかと思う。
「購買行こうぜ。今日カレーパンの日」
「知ってる」
「じゃあ早く」
悟に急かされて席を立つ。購買のカレーパンは確かにうまいが、人気があるぶん争奪戦になる。出遅れると売り切れる。
廊下を早足で歩きながら、すれ違う生徒たちの頭上をなんとなく見てしまう。
緑。緑。ちょっと黄色寄り。緑。
赤に近いオレンジ——
胸の奥がざわつく。あの子、大丈夫か?
……いや、やめとけ。
自分で決めたルールがある。
意識が向いて、ゲージに気づいても、スルーする。
他人の内側なんか、見たところでどうしようもない。見すぎると頭が重くなるし、何より——見えたって、俺に何ができるわけでもない。
だから見ない。気にしない。それがルールだ。
「——っしゃ! あった!」
悟がカレーパンを二つ確保して、満面の笑みでこっちを向いた。
「ほら望の分」
「……サンキュ」
俺が言うと、悟のゲージがほんの少しだけ増える。本当にほんの少し。
「いやいや、いつも世話になってるからな! 数学の宿題とか! 英語の和訳とか!」
悟が大げさに手を合わせる。
「ありがたや〜〜ありがたや〜〜」
仰々しい。寺の息子っぽいといえばそうだが、絶対ふざけてる。
「……生臭」
「ひでえ」
悟のゲージ、ほとんど減ってない。こいつの「ありがたや」は毎回そうだ。軽い。口癖みたいなもんなんだろう。
嘘じゃない。でも重くない。だから減らない。
そもそもこいつのゲージ、先生に怒られようがテストが返ってこようがピクリとも揺れない。鋼メンタルか。
生臭のくせに悟ってんじゃねえよ。
カレーパンを齧りながら、悟が言った。
「つーか望さ、最近なんかぼんやりしてね?」
「そう?」
「そう。なんか遠くの方ばっか見てる」
「……考え事」
「ふーん」
悟はそれ以上突っ込んでこない。こういうところが、こいつのいいところだ。空気を読むというか、察して流してくれる。
考え事——まあ、嘘じゃない。
気づいたのは今年の初め頃だ。ある日突然、人の頭の上にゲージが見えるようになった。最初は面白かった。なんだこれ、ゲームみたいだ、と思った。
でもすぐに分かった。面白がれるものじゃない。
気にして見てると、こめかみの奥がじわじわ重くなる。人混みの中でゲージを追いかけてると、頭の中がざわつく。集中が切れる。疲れる。
だからルールを作った。
意識が向いても、スルーする。他人のゲージは見ない。気にしない。
——で、そのルールは今のところ、だいたいうまくいっている。
◇ ◇ ◇
昼休みが終わって、五限目。
退屈な授業。先生がスクリーンに映したスライドを読み上げている。内容は教科書そのまんま。声は単調。教壇に立ってる意味ある?
クラスのゲージがじわじわ下がっていく。
前列から後列まで、均等に、全員減ってる。
おい。この授業が一番の消耗だろ。
と、ふと斜め前の席に目が行く。
窓辺に座る佐藤琴葉。
ダークブラウンの癖っ毛ショートボブで、毛先が軽く外にはねている。
なんとなく見た目は今風な感じの女子。新学期初日の自己紹介はこうだった。
「佐藤琴葉です。よろしくお願いします」
澄ました顔で、それだけ。愛想笑いもなければ、余計な一言もなかった。
クール。近寄りがたい。クラスでの評価は大体そんな感じだ。
美人だから話しかけたい奴はいるんだろうけど、彼女自身がそういう空気を出しているから、誰も近づけないでいる。
今も窓の外を見ている。ノートは広げてあるけど、何も書いてない。
——そしてゲージ。
席が斜め前だから、嫌でも目に入る。普段ならスルーするはずの距離なのに、この子のゲージだけ、やたらと引っかかる。
緑色で安定している。いつも安定している。
安定している、というよりは。
凪いだ水面みたいだ。波が来ない。波を立てるものが何もない。
100%満タン。バーの端から端まで、綺麗な緑一色。数字がデジタル時計みたいにくっきり光ってる。
クラス全員がじわじわ削れていくこの授業で、佐藤琴葉のゲージだけが微動だにしない。
100%の人間なんて初めて見た。
だからスルーできない。ルールが効かない。100%なんて異常な数字が、斜め前の席で毎日目に入ってくる。
——何だ、それ。
こめかみの奥が、じんわり重い。
ゲージを意識しすぎた。
「おーい、望」
悟が小声で肘をつついてくる。
「お前さ、さっきから佐藤さんのこと見すぎ」
「……たまたまだ」
「たまたまねー」
悟は全然信じてない顔でニヤニヤしている。
「つーかお前、タイプなの? クール系」
「そういうんじゃない」
「じゃあなんで見てんの」
「…………」
答えに詰まる。本当のことは言えない。「ゲージが見える」なんて言ったら頭おかしいと思われる。
「……気になるんだよ」
「お、素直」
「そういう意味じゃなくて」
「はいはい」
……別に、俺が気にすることじゃない。
見えるからって、全部に首を突っ込むわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
——放課後。
教室を出ようとしたとき、窓から校門の方が見えた。
佐藤琴葉が歩いている。一人で、いつものように。
そしてその少し先に、誰かがいた。荷物を落として、拾えずに困っている様子の——たぶん、近所のおばあさんだろう。杖をついている。
佐藤は、その横を通り過ぎようとして——
足を止めた。
少し躊躇うような間があって、それから屈んで、荷物を拾い始めた。
俺は窓枠を掴んでいた。いつのまにか。
おばあさんが何か言った。口の動きで分かる。たぶん——「ありがとう」。
その瞬間、佐藤琴葉のゲージが——
動いた。
——いや。
減った。
ガクッ、と。目に見えて。
喉の奥が詰まった。指先が冷たい。
「…………は?」
瞬きすら忘れていた。
減った。「ありがとう」を——言われた側が。
感謝ってのは誰かから誰かへ渡るもので、渡した側が少し減る——そう思ってた。
でも今、佐藤琴葉は——言われて、減った。
受け取ったはずの感謝が、回復じゃなくダメージになってる。
何だそれ。見たことない。そんなの、初めて見た。
佐藤琴葉は何事もなかったようにおばあさんに会釈して、そのまま歩き去っていった。
俺は窓際に立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送っていた。
四月の風が窓を叩いた。ガタ、と。掴んでいた窓枠が震えて、指先に伝わった。
はっと我に帰る——何だ、あの減り方。
こめかみが痛い。さっきからゲージを見すぎた。
別に、あの子のことをよく知ってるわけじゃない。
話したこともない。ただのクラスメイトだ。
気のせいだと思いたいけど、胸の奥のざわつきが消えない。
佐藤琴葉の後ろ姿は、もう校門の向こうに消えていた。




