第二章:アベルマス・ウィドバーグ (5)
毎週土曜・日曜更新予定
祝日は追加更新あり
学園長室の奥にある応接室は、外の喧騒とは切り離された静寂に包まれていた。
重厚な木製の扉をくぐると、壁際には書架と古い甲冑、そして暖色の光を落とす魔素灯が並ぶ。中央には低い円卓と、向かい合う形で置かれた長椅子。
その一角で、ベアトリーチェさんが静かに茶を淹れていた。白磁の器に注がれる淡い琥珀色。湯気が柔らかく立ちのぼる。
「どうぞ。落ち着く香りですよ。」
俺は勧められるまま席につき、ハウゼンさんと向かい合った。
しばし沈黙。
茶の香りだけが部屋を満たす。
「さて。」
ハウゼンさんが穏やかに口を開く。
「先ほど話があるとは言ったが……その前に、一つ確認させてもらってもよいかな。」
静かな視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「君の記憶は、どこまで戻った?」
――やはり、そこからか。
小さく頷く。
「……はい。記憶については……」
言葉を選ぶ。
信じてもらえる保証などない。
自分でも荒唐無稽だと理解している。
それでも、言わなければ前へ進めない。
「大半は……戻りました。」
二人の視線が静かにこちらへ向けられる。
責めるでも、疑うでもない。ただ、待つ眼差し。
「俺は……この時代の人間ではありません。」
一瞬、部屋の空気が変わった気がした。だが、二人は黙ったままだった。
「およそ千年ほど前。魔王と戦っていた時代の人間です。……勇者、と呼ばれていました。」
自嘲気味に笑う。
「馬鹿げた話だとは分かっています。証明もできません。ただの妄言と受け取られても……仕方ないと、思っています。」
そこで言葉を切り、二人の反応を窺う。
だが。
ハウゼンさんは腕を組み、すぐには答えなかった。
深く考え込むように目を細め、やがて静かに口を開く。
「正直に言えば、勇者や魔王という言葉そのものに、わしらは正しく理解しておらぬ。大暗黒期よりも前の時代の話など、誰も知らないはずじゃからの。」
否定でも、嘲笑でもない。ただ事実を述べる声音。
「じゃが――お主が何か大きな戦いを背負っていることだけは分かる。 書庫に籠もり続けたこの一月のお主を見ておれば、少なくとも妄言に酔う類ではないことくらいは分かる。」
ベアトリーチェさんも、ゆるやかに頷いた。
「すべてを理解できたわけではありませんよ。けれど……あなたが嘘をついているようには見えないのです。」
柔らかな微笑み。
「根拠はありません。ただ、ここしばらく見ていて分かったことがあるだけです。迷いはあっても、悪意はない。そういう魔素は、人を欺きませんから。」
「……随分と、あっさりですね。」
思わず口をついて出た。
ハウゼンさんは小さく笑う。
「迷宮から棺に入って現れた少年に、常識を当てはめる方が無理というものじゃ。それに、理解できぬからといって切り捨てるほど、わしは若くない。」
胸の奥が、ふっと軽くなる。
信じてもらえない覚悟で来た。
疑われ、監視される未来も覚悟していた。
それなのに。
あまりに自然に受け入れられ、肩の力が抜けた。
同時に、胸の奥に小さな虚しさが残る。
――あれこれと最悪を想像し、ひとり肩に力を入れていた自分が、少し滑稽に思えた。
だが、それはすぐに安堵へと変わった。
「……ありがとうございます。」
一度息を整え、続ける。
「ただ、最後の記憶だけが欠けています。俺が魔王とどうなったのか。そして、なぜ俺の時代が歴史から消えているのか。」
視線が自然と机上に落ちる。
「俺たちが生きた証が、何一つ残っていない。それが、どうしても納得できない。」
沈黙。
「だから、迷宮を調べたいのです。」
顔を上げる。
「迷宮は俺の時代には……少なくとも、俺の知る限りでは存在しなかったはずです。だとすれば、どこかで何らかの転換点があったのではないかと……思っています。大暗黒期も含め、何かが隠されている可能性は……否定できないのではないかと。」
ハウゼンさんは静かに顎髭を撫でた。
「理屈としては……筋が通っているようにも聞こえる。」
「無謀だとは分かっています。それでも――」
言い切る前に、ハウゼンさんが手を上げて制した。
「無謀ではない。方法を誤らねばな。」
「……方法?」
「実はな……本来、ワシが話そうとしておったのも、そのことじゃ。」
ハウゼンさんはゆっくりと言葉を継いだ。
「迷宮を調べたいのであれば、探索者になるのが、おそらく一番現実的な道じゃろう。……そしてお主には、その資格があるように見える。」
あくまでも穏やかな声色だった。
「ここグロリス学園は探索者育成機関。その中でも最高峰と評される場所じゃ。迷宮を調べるという目的において、これ以上に適した環境はそうあるまい。」
ベアトリーチェさんが茶を注ぎ足しながら微笑む。
「学園の正式な身分があれば、迷宮へのアクセスも研究資料も、今よりずっと自由になりますよ。学内で動く分には、余計な疑いを向けられることも少なくなりますし。」
「……ですが、俺は身元不明です。」
「そこは問題ない。」
ハウゼンさんが即答した。
「ワシが後見人となろ。元より、そのつもりでおった。」
思わず言葉を失う。
「学園長であるワシが保証すれば、身分は整う。苗字も与えられる。」
静かな提案。
だがその重みは理解できる。
「条件はただ一つ。無謀な単独行動はせんこと。迷宮は焦って答えをくれる場所ではない。」
しばし沈黙。
迷う理由は、ない。
だが。
この申し出は、単なる便宜ではない。後見人とは、名を預けるということだ。
「……俺に、そこまでしていただく理由は。」
ハウゼンさんは微かに笑った。
「老いぼれの好奇心じゃよ。千年前の勇者、というものかどうかはさておき……迷宮の異変から現れた少年が、この先どこへ行き着くのか。それを見届けたくなっただけじゃ。」
ベアトリーチェさんが肩をすくめる。
「それと、放っておくと無茶をしそうですから。」
苦笑が漏れる。
長い沈黙の末、俺は頭を下げた。
「……お願いします。」
顔を上げる。
「後見人として、あなたの名を頂けるなら。」
ハウゼンさんはゆっくりと頷く。
「ならば今日から、お主はアベルマス・ウィドバーグと名乗るとよいじゃろ。」
その名を口の中で転がす。
アベルマス・ウィドバーグ。
不思議と、違和感はなかった。
その名は、千年という空白を越えてようやく掴んだ、新しい足場のようにも思えた。
「さて、そうなると明日から忙しくなるじゃろ。諸々の手続きと準備が終わるまで、少しばかり辛抱せねばならんがな。」
ハウゼンさんの言葉に、現実へと引き戻される。
その日の応接室での話し合いは、静かな余韻を残したまま終わった。
茶の香りとともに、新しい名だけが胸の内に残る。
そして翌日から、編入の手続きと後見人登録の準備が始まった。
書類の確認、身分保証の記録、学内への通達――想像していたよりも多くの工程があり、すべてが整うまでにはそれなりの時間を要した。
その間、俺には学園の寮の一室が仮に与えられた。二人部屋だが、編入前という事情もあり、当面は俺一人で使ってよいとのことだった。
簡素な机と寝台が二つ、向かい合うように並んでいる。まだ誰の気配も染みついていない空間は、妙に広く感じられた。
俺はその部屋で、静かに時を過ごした。
およそ千年前の記憶と、これから歩む未来を、何度も頭の中でなぞりながら。
そして俺がハウゼンさん――学園長から編入を提案された日からちょうど1週が経つ頃。
すべての手続きが完了し、俺は正式にグロリス学園へ編入したのだった。
――こうして、俺はグロリス学園の生徒となった。
※面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。




