第二章:アベルマス・ウィドバーグ (2)
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再び目を覚ましたとき、窓の外は橙に染まっていた。
どうやら、もう夕方らしい。
身体は驚くほど軽い。
老婦人の言葉どおり、眠りは確かに薬になったようだった。
簡素な食事を摂り、短い湯浴みを済ませる。
湯に浸かったとき、左目の奥がわずかに疼いたが、それ以上の異変はなかった。
再び部屋へ戻ると、白髪の男とベアトリーチェさんが待っていた。
白髪の老人が、穏やかに口を開く。
「まずは、きちんと名乗っておこう。」
静かな声音だった。
「ワシはハウゼン・ヴィトバーグ。このグロリス学園の学園長を務めている。」
――学園。
聞き慣れない単語に、思わず眉がわずかに動く。
学園とは、何だろうか。
老婦人がくすりと笑いながら続けた。
「私はベアトリーチェ・ハイディーク。ここで医務を預かっております。昼間はあなたを診ておりましたよ。」
穏やかな声だった。
「体調はいかがですか。」
「……悪くはありません。」
ハウゼンさんは安心したように頷く。
「それは何よりだ。」
向かいに用意された椅子へ、ハウゼンさん勧めるままに腰を下ろす。
「では、改めて聞こう。名前は。」
「アベルマスです。」
迷いなく答えられる。
そうだ。俺はアベルマスだ。
……それ以外は、まだ思い出せない。それがひどくもどかしい。
「アベルマスというのは名のほうだろうな。して、苗字は。」
「……苗字、ですか。」
聞き慣れぬ問いに、わずかに眉をひそめる。
苗字――その言葉の意味は分かる。
断片的な知識として、苗字は貴族の象徴である、という情報が浮かんだ。
言葉に触れることで、記憶のどこかが揺れているのかもしれない。
そう思いながら、ハウゼンさんに答える。
「いえ……苗字は、なかった……と思います。貴族のような高貴な血筋ではなかった……はずですので。」
自分の言葉に、自分でも確信が持てない。間違ってはいないはずだ。
……いや、これもわからないな。付け加える言葉を探しても多分くらいの言葉しか出てこない。
そんなことを考えて一人で唸っていると、俺の答えを聞いたお二人は、静かに視線を交わした。
「はて? 貴族でなければ苗字を持たぬという習わしがある国など、あったかの。」
「少なくとも、私は存じませんね。」
お二人の表情には、明らかな疑問が浮かんでいる。 だが、それは俺も同じだった。
何かが、噛み合わない。
記憶が曖昧であることと、知識が食い違うことは、別の違和感だ。
ハウゼンさんが、穏やかな声で告げる。
「平民であれ貴族であれ、皆、苗字を持っておるぞ。」
「……そう、ですか。」
胸の奥に、小さな棘のような違和感が残る。
何がおかしいのかは分からない。
だが、何かが違うという感覚だけが消えない。
二人は、まだ記憶が混線しているのだろうと判断したのか、それ以上深くは追及せず、次の問いへと移った。
「では、次の質問じゃが。」
ハウゼンさんの声は変わらず穏やかだ。
「君は迷宮で発見されておったのだが、これについて何か心当たりはおるかの。」
「迷宮?」
聞いたことのない単語だった。
――いや。 もしかすると、かつては知っていたのかもしれない。
だが少なくとも、今の俺の中にはその言葉に結びつく記憶は存在しなかった。
先ほどの苗字のように、何かが引っかかる感覚もない。
ただ、空白だけがある。
俺の反応から察したのだろう。
ハウゼンさんとベアトリーチェさんは、責めるでも探るでもなく、ただ静かに頷いた。
――まだ混乱しているのだろう、と。
その視線には、理解と穏やかな温かさが滲んでいる。
胸の奥が、むず痒いようにざわついた。だが、不快ではない。
家族がいたのかどうかさえ思い出せない俺だが、もし祖父母という存在がいたなら、きっとこんな眼差しを向けてくれたのではないか――そんな、漠然とした感覚がよぎった。
「無理に思い出そうとせんでよい。今は混乱しておるだろうからな。」
ハウゼンさんが穏やかに言う。
「何かの拍子に、ふと戻ることもある。焦る必要はない。」
そして、ふと思い出したように続けた。
「ああ、そうだ。アベルマス君。文字は読めるかね。」
そう言って、懐から一冊の本を取り出し、俺へ差し出す。
表紙には、見慣れぬ装丁の文字が刻まれていた。
『グランディア大陸史――大暗黒期以後、人類と迷宮の共存』
……歴史書、だろうか。
ここでも、迷宮という言葉がある。
やはり、何も思い出せない。
本を受け取り、数頁をめくる。
文字は、問題なく読めた。意味も理解できる。
――誰かに、文字を教わった記憶がある。
はっきりとはしないが、そんな感覚が一瞬だけ胸をよぎった。
「はい……読むこと自体は問題ない、と思います。……あの、これは。」
「記憶を辿る助けになるかと思ってな。」
ハウゼンさんは軽く微笑む。
「書庫には話を通してある。興味のある本があれば、いつでも閲覧してよい。余計なお節介でなければよいのだが。」
「いえ、お節介だなんて、そんな……」
ベアトリーチェさんが、やわらかく口を挟む。
「私も、できる限りお手伝いしますからね。でも、無理は禁物ですよ。体はまだ本調子ではありませんから。」
二人の穏やかな笑みに、胸の奥がわずかに温かくなる。
面識もなく、記憶も曖昧な、言ってしまえば正体不明の俺を、ここまで自然に受け入れてくれている。
今の俺にできることは、せめて早く状況を理解し、迷惑をかけぬことだけだ。
「本当にありがとうございます。」
自分の声が、思ったよりも落ち着いていた。
戸惑いはある。だが、不思議と恐怖はなかった。
やっていけるかもしれない――そんな予感が、かすかに芽生える。
その後、ベアトリーチェさんに書庫までの道を簡単に教わった。
もっとも、今日はすでに日も傾いている。
実際に訪れるのは明日以降ということになった。
「今夜はゆっくり休みなさい。」
そう言われ、俺は素直に頷く。
――そして。
それからおよそ一か月の間、俺は書庫に籠もり、手当たり次第に書物を読み漁ることになる。
歴史書、地誌、迷宮の調査記録、素材目録、探求者の手記。
一行でも、ひとつの単語でも。
失われた何かに繋がる手がかりを求めて。
そうして俺の奇妙な再出発は、静かに始まった。
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