凍て湖の花
目を開けたとき、私は雪の匂いのする神社の縁側に座っていた。白い息が見える。
現の世界では駅の階段を上っているはずだった。
けれど足元にあるのは石畳、手のひらに残るのは木の温度、そして遠くで凍った湖がきしむ音。
この場所に来るのは三度目だ。
初めて来たのは秋、木々が赤く燃えていた。次は初雪が舞う日。そして今、雪は音を奪い、空の色まで薄くしている。
拝殿の柱にもたれて、彼は私を見ていた。茶の襟巻と青の外套をまとい、片手に欠けた懐中時計をぶらさげている。
顔立ちは穏やかで、しかし深いさみしさを感じさせる。
彼は自分の名を名乗らない。私も名を告げない。名を口にすれば、世界が止まってしまうのだ、と初日に彼は言った。
「今日も少しだけ?」
彼の声は静かだった。
「ええ、たぶん、少しだけ」
私はいつもこう言う。「少しだけ」と。ここにいられるのは、いつも少しだけだから。
現の世界での私は、買い物袋を下げていたり、友人からの電話に出ようとしていたりする。
けれど不意にまぶたの裏が白くなり、次に世界を開くと、この神社に座っている。
今日の服装はここでは少々頼りなかった。
震える私に気が付いたのか、彼が巻いていた襟巻を渡してくれる。
コートの上から巻き付けた。暖かい。
「湖の氷は、今年は厚いよ」
「音がする。……誰かが泣いてるみたい」
「湖は昔、花の女神だったそうだ。泣くのがうまくて、春にだけ笑う」
彼はそう言って、懐中時計の蓋を指で撫でた。
聞けば懐中時計の針は、私がいるときだけ少し進むのだという。私の時間は反対で、ここではほどけてしまう。
どれほど彼と居ても、現の世界では一瞬。けれどその記憶だけは残る。少しずつ薄くなりながら。
彼は湖のほとりまで私を連れていった。雪に踏み跡が一筋だけ伸び、そこに私の足跡が並ぶ。並んだ形が、どこか不格好なのが恥ずかしい。
「転ばないで」
彼はそう言って手を差し出した。私は首を横に振った。
手に触れてしまえば、欲が生まれる。欲は時間を動かす。時間が動けば、別れが近くなる。
湖の上を薄い光が渡っていく。雲の切れ間から日差しが落ち、氷が色を変える。彼はその光を追い、私は彼の横顔を追う。
人は、見てはいけないものほど見てしまう生き物だ。見てしまったものは、目に焼き付く。
「春が来れば、梅が匂うよ」
「梅?」
「この神社の裏の丘に、古い梅の木がある。雪の下に眠って、春だけ目を覚ます。君が来るなら、見せたい」
私は笑って頷いた。けれど心のどこかで、春に来られるだろうか、と不安になっていた。
こちら側にいられる時間は、いつも削られているようで、気づけば短くなっている。
夕暮れ、神社の鈴を鳴らした。音が響き、すぐに雪に吸われる。彼は一礼し、私も頭を下げる。
手を合わせると、どういうわけか胸が痛んだ。
願いごとがあるからだ、と思った。願いごとは言葉にならず、胸を刺した。
目を閉じる。目を開けたとき、私は駅の階段を上っていた。巻いていた襟巻は消えていた。
ポケットの中で携帯が震え、通知が灯る。「今夜、飲みに行かない?」と現の世界の友人が誘っている。
私は「ごめん、また今度」と返す。胸に、雪の匂いが少し残っていた。
夜、枕元で目を閉じる。氷の上を渡った光、彼の手の指の長さ、欠けた懐中時計の静けさ。
思い出すたびに、記憶が薄くなるのがわかる。
私はその夜、春の匂いがする夢を見た。梅の白い花が、雪のように降っていた。
次に呼ばれたとき、神社の屋根から雪が落ちる音がした。
季節は少し進み、空気はまだ冷たいが、どこかに水の匂いが混じっている。
境内の隅、溶けかけた雪から土が見え、土の上に草が覗いていた。
彼は拝殿の前を掃いていた。竹箒の音がかすかに響く。
私に気づくと箒を止め、「来たね」と笑う。
彼が笑うたび、胸の奥で何かがかすかにほどける。
「梅は?」
「まだ固い蕾だけれど、ほら」
裏の丘へ続く石段を上る。彼は先に立ち、私は少し離れてついていく。風が強く吹き抜ける。髪が頬に貼りつく。
無意識に手を上げると、彼も同じ動きをした。私の髪を払うために。けれど彼は途中で手を引っ込め、代わりに空を指差した。
「鷹だ。春を探している」
空を渡る影は小さく、遠い。私は頷き、彼の手が一瞬迷って引いたことを、心に刻んだ。
丘の上には、確かに古い梅の木があった。幹はうねり、皮は割れ、けれど枝先には固い蕾がいくつもついている。
近づくと、ほんのわずかに清潔な匂いがした。
「もうすぐ、咲く」
彼の声に、梅の枝が小さく震えた気がする。
私は枝を見上げ、ゆっくり呼吸をした。ここにいる間だけ、私はよく息ができる。
現の世界では、いつも少し苦しかったのかもしれない、と今になって思う。
「ねえ」
私は言った。言葉はゆっくり、足元の土を確かめながら出ていく。
「時計の針は、私がいると進むんでしょう?」
「うん」
「私がいないときは?」
「止まる」
「さみしくないの?」
自分で聞いておいて、胸がひやりとした。彼は少し考え、静かに応えた。
「さみしさは、僕の持ち物なんだと思っている。置いていけないし、預けられない。でも、君が来ると、持ち物の重さが少し軽くなる。……だから、そのままでいる」
私も、同じだと思った。大切に思うから、踏み出さない。踏み出せば、崩れると分かる。
神社に戻る途中、氷の端が解けて水になっているのを見つけた。
そこで私は足を滑らせ、前のめりに倒れかけた。反射的に腕を伸ばす。次の瞬間、彼の手が私の手首を掴む。
冷たい。けれど握る力は確かで、痛くなく、離せば落ちると知っている強さだった。
彼は私を引き寄せ、体を支えた。胸に彼の羽織が当たり、風の匂いがした。
私は息を止める。彼も息を止める。
ふたり同時に息を吐いて、彼はそっと手を離した。離れた手の痕が薄く火照る。
「ごめん」
「ありがとう」
言葉はすれ違い、けれどすれ違ったまま、仲良く並んで歩いた。手はもう触れない。触れなくても、先ほどの感触が、ずっと残っていた。
その日の夕暮れ、彼は懐中時計を開け、「今日、初めて針が一刻を越えた」と呟いた。
私が来るたび、時計はほんの少しだけ動く。けれど今日は、はっきり一刻の線を跨いだのだという。
「嬉しい?」
私は聞き、すぐに後悔した。時間が進むのが嬉しいというのは、別れに近づくのが嬉しいのと同じだ。彼は頭を振った。
「嬉しいわけじゃない。でも、君と見た梅は、一刻ぶん、確かだった」
私は頷き、言わなかった言葉を胸の内側に押し戻した。言ってしまえば、何かが壊れる。
現の世界への帰り道はいつも唐突だ。
私は彼と並んで火鉢に手をかざしていた。指先に火が熱い。熱いのに嬉しくて、笑ってしまう。
そんな瞬間の途中で、私は目を閉じ、目を開けると、電車の中で立っていた。吊革を握り、胸の中に火の熱さを少し持ち帰った。
次の日、手首を見ると、赤い痣が残っていた。彼が掴んだ場所と、まったく同じ形で。
日々は、現の世界で続く。
私はときどき立ち止まり、胸の奥の鈴の音を確かめる。
次に呼ばれたとき、梅は咲いていた。白い花が枝にともり、冷たい空に微かな香が立ち上る。
彼は梅の下に立ち、手袋を外して、指で花弁の縁をそっと撫でた。
私は近づき、うつむいて香りを吸い込む。胸の奥が温かくなる。
「きれい」
「うん」
私たちはそれだけ言って、しばらく黙った。黙ることは、言うことより難しいと知ったのは、たぶんここへ来るようになってからだ。
黙るには、互いを信じなくてはならない。沈黙は、ふたりで持たなければ重すぎる。
神社の石段に腰を下ろすと、彼が懐から小さな紙包みを取り出した。中には干し柿が二つ。白い粉のふいた丸い橙色。
「供え物のお下がり。甘いから、少しずつ」
私はかじり、目を細めた。甘さが舌に広がり、雪の残る空気と混じって、懐かしい味がした。
彼もかじり、そのまま遠くを見た。遠くには、凍った湖と、変わらない山並み。
「僕はね」
彼が言った。懐中時計の蓋を閉じる音が、ことりと鳴った。
「君を愛しているよ」
あまりにも静かな言い方だった。驚きより先に、胸の奥で何かが片付けられていく感覚があった。
長いあいだ散らかっていた部屋が整えられる、そんな感じだった。
「言わないつもりだった。でも、言わないと、君に失礼な気がして」
私は唇を噛んだ。自分の唇の温度がわかる。言えば、もう離れられなくなる。言わなければ、何も始まらない。私はどちら側にも立てないまま、彼の横顔を見た。
「忘れてしまってもいい」
彼は続けた。
「君が幸せなら。いや、違うな。忘れないでほしい。でも、君の重荷にはなりたくない。……だから、どちらの言葉も、本当だ」
私は目を閉じ、干し柿の甘さを舌の端で溶かした。甘さが泣きたさを連れてくる。
私は首を振る。涙はまだ早い。泣くためには、もっとたくさんの沈黙が必要だ。
「君と出会えてよかった」
彼が、空に向けて言った。
私は小さく息を吸い、頷いた。
「もう少しだけ、このままでいさせて」
そう言うと、彼は笑わず、しかし目尻が少し柔らかくなった。笑いかける、その手前で止まる顔が一番好きだ、と私は思う。
その日、私たちは手を繋いだ。指の平たさ、骨の細さ、脈の小さな跳ね。すべてが今の証拠であり、同時に別れの準備だった。
私は日々を過ごしていた。資格取得を求められ、勉強に悪戦苦闘していた。
鈴の音が聞こえた気がして、私は目を開けたまま頭を振った。音は消えた。
行かなければ、彼とはこのままでいられるのかもしれない。
――それとも、名前を与えて、あの世界を止めてしまおうか。
その考えは、喉の奥に砂糖を押し込むみたいに甘くて、少し息苦しかった。
春の雨が続いたらしい。次に呼ばれた境内には、濡れた土の匂いが濃く漂っていた。
梅はもう散り、若い葉が光っている。彼は拝殿の前に座り、懐中時計を握りしめていた。
顔色が少し悪い。私を見ると、無理に姿勢を正す。
「無理しないで」
私が言うと、彼は「無理はしない」と返した。言葉と体の様子が合っていない。
「時計がね」
彼は静かに言った。
「今日、日付が変わった」
懐中時計の針は元より時間だけを示すものだったはずだ。けれど彼の言う「日付」は比喩ではないらしい。
「どうして?」
「わからない。君の何かが、削られているのかもしれない」
私は息を呑んだ。たしかに、現の世界での私は最近、ふいに言葉が出てこないことがある。
駅名を忘れる。友人の誕生日を忘れる。鍵をどこに置いたか忘れる。
誰にでもあることだと思っていた。けれど忘れるたび、胸の奥の鈴の音が弱くなっていた。
――私の時間は、この場所でほどけている。代わりに何かが欠けていく。
「僕は、君にここへ来てほしい。でも、君の世界が君を傷つけるなら――」
そこまで言って、彼は口を閉じた。
「さよならは言わない」
彼は自分に言い聞かせるように言う。
「また会えると信じているから。信じることは、僕にできる唯一のことだから」
私は彼の肩に額を寄せる。肩の硬さ。衣の目の粗さ。
私は目を閉じる。彼の心臓の音がかすかに聞こえる。
「あなたを守りたい」
私は初めて、願いを言葉にした。彼は、困ったように笑った。
「守られてばかりだよ、僕は。君が来るたび、僕は救われる。君はいつも、いちばん必要なものを持ってくる」
「何も持ってきてない」
「君自身が来る。それが、すべてなんだ」
雨が上がり、雲間から光が差した。濡れた石畳に、淡い空が映る。
私はふいに、言わなければ、と感じた。今言わなければ、この言葉は二度と私の口から出てこない。
「私も、あなたを愛している」
言った瞬間、胸の中で何かが壊れた。壊れたものは静かに沈んだ。
けれどそれは新しい空間を作った。
空間に光が入る。
彼は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「言ってくれて、ありがとう」
「言ってしまった。もう、離れられない」
「離れることと、離れられないことは、同じ形で共存できる。……人は皆、そうしてきたんだと思う」
湖の方から、風が吹いた。水の匂いが濃くなる。私はふいに、ここへ来られるのが、あと一度か、二度かだと悟った。
誰かに告げられたわけではない。呼吸の深さと、鈴の音の薄さと、懐中時計の重さが教えた。
「最後のとき、君は泣く?」
彼が、唐突に尋ねる。私は少し考え、「わからない」と答えた。
「泣くかどうかなんて、まだ決められない」
彼は小さく笑う。笑いは、また途中で止まる。
決められない、という答えを、そのまま受け取ってくれる人は少ない。
「泣いても、泣かなくても、君は大切な人だ」
目を開けるとカラオケボックスにいる。友人が歌っていた。
歌詞が耳に入ってくる。「さよならは言わない」――私は目を閉じた。
胸の奥で、鈴が小さく鳴った気がした。
最後の一度は、思ったよりも早くやってきた。
現の世界で私は、机に置いたコップの水をこぼし、それを拭こうとした。布巾に手を伸ばす途中で、視界が白くなった。
白い光の中から、鈴の音が呼ぶ。目を開けると、神社にいた。
夏の気配がもう近く、樹々の葉が濃い色に変わりつつある。彼は拝殿の前で待っていた。
私は彼に近づき、何も言わずに抱きしめた。彼も何も言わずに、私を抱きしめる。
私の頬に、彼の髪が触れた。髪は少し湿っていて、日向の匂いがした。
私は目を閉じる。閉じたまぶたの裏に、梅の白と、湖の青、溶けかけた氷の光が順番に現れる。
「私の名前を伝える」
彼は短く息を吸い、視線だけで制した。
言葉にならない拒絶だった。
「言えば――戻れなくなるよ」
「構わない」
その瞬間、空気が薄膜のように震えた。
世界が息をひそめた。
「私の名前は――」
声が消えるより先に、静寂が降りた。
風が止まり、時計が音を喪った。
彼の影だけが、遅れて揺れを失う。
「……ああ、やっぱり駄目か」
彼は笑うというより、表情をほどいた。
輪郭が水面のように揺らいでいる。
「世界が止まると、僕は保たれない。ここは僕の時間でできてるから」
ぱちり、と秒針が動きそこねた音が残った。
「……忘れないで」
私は言った。
「忘れない」
彼は即座に言った。迷いのない声だった。私は、その声も好きだと思う。
「さよならは言わない」
彼が言い、私も頷く。私たちはさよならを言わない。
彼の肩越しに、拝殿の鈴を見た。風にわずかに揺れ、鳴らない。
ゆっくりと彼から離れ、彼の顔を見た。
私は頷き、彼の頬に指を伸ばす。指は途中で止まり、空を撫でる。
「もしも、あの時、出会わなければ」
私は言いかけ、口を閉じる。後悔の言葉を最後に残したくない。
「君と出会えて、よかった」
私は言い直した。
「たとえこの先、何も残らなくても」
彼は目を閉じ、深く頷いた。頷きの影が、地面に落ちる。影は風に揺れ、消えない。
私は鈴の紐に手を掛け、そっと引いた。澄んだ音がひとつ、空に上がる。
音は薄くなり、消えかけ、消えないまま、どこかへ続いていく。私はその音を追うように、目を閉じた。
目を開けると、コップが倒れていた。水の輪が光る。布巾はそこに置いたままだ。
携帯が震え、「今日の空、きれいだよ」とメッセージが届く。私はベランダに出て、空を見上げる。
薄い雲の向こうに、白い光。梅の香りが、ふと鼻先を掠めた気がする。
季節がいくつか過ぎた。私は忘れたものの数を数えようとしたが、途中でやめた。
夜、ふと目が覚めた。部屋は暗く、窓の外に細い月が立っている。
私は起き上がり、キッチンへ行き、水を飲む。コップの縁に月が光る。
その時、胸の奥で鈴が鳴った。ほんの、ほんの小さな音。私は立ち止まり、息を止める。
音は一度だけだった。けれど確かに鳴った。私はベランダの戸を少し開ける。
夜の匂いが入ってくる。どこか遠くで、花の匂いがした。季節外れの、梅の匂い。
私は目を閉じ、頬に手をあてる。温度だけが微かにある。
私は小さな声で言う。
「忘れてしまってもいい。あなたが幸せなら」
言葉は窓の外へ流れ、夜の中に溶ける。返事はない。返事はなくていい。
返事がない沈黙は、ふたりで持った沈黙の残響だ。
私は窓を閉め、ベッドに戻る。目を閉じる。眠りの手前で、私はひとつの約束を思い出す。
いつか、雪が降る夜に。あるいは、梅が香る朝に。凍て湖のほとりで、私はもう一度だけ振り向く。
そこに彼がいるかどうかはわからない。
それでも私は、信じる。信じることだけは、今も私にできる唯一のことだから。
鈴の音が、胸のずっと奥で、ひとつだけ鳴った。




