堤防と夕陽
夏休みの終わりが近づくと、空の色が少しずつ変わっていくのを肌で感じるようになる。蝉の鳴き声が弱まり、代わりに夕方には鈴虫の声が混ざる。そんな季節の移り変わりを、俺と美咲はいつもこの堤防の上で見てきた。
川沿いにぽつんと置かれた古いベンチ。小学生の頃、かくれんぼで偶然見つけたのが最初だった。あれから十年近く経つけれど、ここは俺たちにとって変わらない「秘密の場所」だ。宿題をさぼって怒られたときも、テストで赤点をとったときも、俺たちはここで互いの愚痴を言い合い、励まし合ってきた。
田んぼと山に囲まれた、小さな町。
夕方になれば商店街は早々に店を閉じ、夜は虫の声ばかりが響く。
退屈だけれど、僕にとっては当たり前の景色だった。
けれど、今年の夏は違う。
ベンチの隣に座る美咲は、来週にはもうこの町にいない。
「ねえ、聞いた?あそこのスーパー来月で閉まるらしいよ」
美咲は麦茶のペットボトルを片手に、わざと明るい声を出した。
「まじで?あそこの焼き鳥好きだったのに」
「わかる!あのタレの味は他じゃ食べられないよね」
二人で笑い合う。だけど、どちらも心の奥で知っている。スーパーの閉店よりもずっと大きな別れが、すぐそこまで迫っていることを。
俺は言葉を探していた。けれど、胸の奥にあるものをそのまま口にする勇気はどうしても出てこなかった。
「……楽しみ?」
不意に口から出たのはそんな問いだった。
「え?」
「その、東京に行くの」
美咲は少し目を見開いてから、笑った。
「うん、楽しみ。でも怖いよ。だって、ここ以外で暮らしたことないんだもん。」
冗談めかして言うけれど、その横顔は少しだけ寂しげだった。
俺は、心臓が跳ねるのを感じていた。東京へ行く美咲を応援したい。夢を追いかける姿を眩しく思う。でも、その一方で、俺の中にはどうしようもなくわがままな感情が渦巻いていた。
——行かないでくれ。
口にした瞬間、俺は卑怯になるだろう。だから、何も言えなかった。
***
出発の前夜、堤防に呼び出された。
「最後にここに来たくてさ」
そう言って美咲は夕陽を眺める。西の空がオレンジ色に染まり、川面が金色に輝いていた。
「小さい頃さ、あたしここで泣いてたときあったよね。」
「……あったっけ?」
「忘れたの? ランドセルのカギなくして、帰れなくてさ。そしたらあんたが一緒に探してくれた。」
「ああ……あったな。」
懐かしい記憶がよみがえる。泣きじゃくる彼女に、どうしていいか分からず、とりあえず一緒に草むらを探した。見つけたときの、美咲のぱっと明るい笑顔。それが、俺が初めて「守りたい」と思った瞬間だったかもしれない。
「ありがとね。あのときからずっと。」
美咲は笑った。
その笑顔を見て、心臓が締めつけられる。ありがとう、なんて言葉で区切りをつけられるのが怖かった。
でも、結局この夜も俺は何も言えなかった。
***
そして、出発の日。
小さな駅は思いのほか人で賑わっていた。買い物帰りの人、部活に行く学生、親に見送られる若者。そんな中、美咲はキャリーケースを引きながら笑顔で両親と話していた。いつも通りの美咲に見えるけれど、その笑顔は少し強がっているようにも感じられた。
発車ベルが鳴り響く。胸の奥で何かが弾けた。
「美咲——!」
人混みをかき分け、声を張り上げる。
「好きだ!」
けれど、アナウンスとベルの音にかき消され、彼女の耳に届いたのかどうかはわからなかった。美咲が振り返った気がした。けれど、人の影に隠れて表情は見えなかった。
電車のドアが閉まり、車両がゆっくりと動き出す。窓越しに見える彼女の姿は、もうどんどん遠ざかっていく。
俺はただ、立ち尽くすしかなかった。
***
夕暮れ。気がつけば俺は、また堤防のベンチに座っていた。
川面を照らす夕陽は、昨日と同じように金色に輝いている。蝉の声は弱まり、代わりに鈴虫の声が響く。隣の席は空いたまま。ここに座っていたはずの笑顔も、声も、もう届かない。
「……忘れないよ。」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
——「ここから見える景色、たぶん忘れないと思う」
昨日の彼女の言葉が蘇る。
美咲。もしあの告白が届いていたら、君はどんな顔をしてくれただろう。届かなかったのか、それとも届いていても返事を選ばなかったのか。答えはもうわからない。
ただひとつ確かなのは、あの日々も、この景色も、そして君の笑顔も。俺の中から消えることはないということだった。
夕陽は沈みかけ、川面の輝きがゆっくりと夜の闇に溶けていった。