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あの時  作者: りんしぃ
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11-2 透明人間

 傑勲には兄が二人いる。ランバールの夫である長兄、そして幼い頃に亡くなった次兄。物心ついた時には次兄は既にこの世にいなかった。そのせいなのか、幼い頃から母親は傑勲に対して過干渉だった。兄はそんな母親に思う所があったのかもしれない。目に見えて衝突することこそなかったが、常に母が望まないことを選択してきたように思う。

 決定的だったのは、大学入学を契機に姓の読みを「リー」に変えたことだった。表向きは世間の通りがいいからと言っていたが、これについて母と折り合いの悪かった祖母が手放しで喜んでいたのを傑勲も覚えている。

 兄はずっと祖母の手元で育てられていたので、祖母の持つ文化背景の洗礼を受けて育っていた。それ故、実はそれほど深い意味などなかったのかもしれない。だがそれ以降、母はますます兄を透明人間のように扱うようになっていた。

 いや、母にとっては傑勲もまた透明人間だった。母が見ていたのは失った次兄の面影であり、傑勲は単なる形代でしかなかった。ただそこにいるだけで、生きているだけで尊いのだというのが口癖だった。

 母の過干渉は幼い傑勲の自由だけでなく、自尊心すら奪うものだった。同い年の友達と遊びに行きたくても、必ず大人の使用人を伴わなくてはならなかった。走ることさえ禁じられ、遊んでいる友達の姿をただ遠巻きに眺めていた。友達と一緒に遊びに来ているはずなのに、傑勲だけがそこにいないように扱われる、まさしく透明人間だった。だから次第に友達は離れてき、クラスの中でも透明な存在にならざるを得なかった。

 傑勲に許されたのはただ息をしてそこにいること、ただそれだけ。例えば学年で一番の成績を修めても、もちろん母は喜んではくれるのだが、兄とは違うのだから無理をしなくてもよい、睡眠時間を削ってまで勉強することはないと、見当違いの心配を募らせてしまう。そのためいつもわざと誤答を書いて、一番を取らないように気を使わなくてはならなかった。

 このまま母の庇護のもとで一生を終えるのかもしれないと諦めていたある時、傑勲がわざと間違いを記入することに気づいた教師が現れた。ようやく本当の自分を認めてくれる理解者に出会ったと思った。初めての理解者である教師への憧憬が、教職への憧憬に変わるのは必然だった。そして母はそんな息子に、社交的とはいえない性格を指摘してみせ、子供を教える仕事はできないのではないか、心を病んでしまうのではないかと泣いた。母に泣かれては諦めざるを得ない。あの時はそうだった。

 母が泣いたのは、実は別の思惑があったのではないかと、今では思う。ハンカチで目元を拭いながら、そんな苦労をしなくても、父の会社を黙って継げばいいのだと言われたからだ。その時兄はすでに医学部で学んでおり、もう何年も家に寄り付かなくなっていた。

 母に逆らっても教師の道を選んでいたらと何度も後悔し、人間関係に躓くたびにやはり自分には無理だったんだと落ち込んだ。自由に思うままに自身の道を歩む兄と、母の呪縛に囚われ、ままならない境遇の自分とを比べて、お門違いにも兄を恨んだこともある。だが、時折祖母の家に帰ってくる兄に声をかけられると、天にも昇るような気持ちになるのだ。兄は傑勲の憧れでもあった。

 祖母の葬儀の日、喪服の母は笑いながら遺影に抹香を投げつけた。あの子の命を奪っておいて、自分はのうのうと永らえて満足な人生だったかと。その母を止めに入ったのは兄で、弟を殺したのは自分だ、恨むなら自分を恨んでくれと叫んでいた。父は空洞のような目をしたまま沈黙を貫いていた。透明な傑勲は親族席で息を殺しながらひたすら嵐が過ぎ去るのを待っていた。

 あの時、自分の家族が壊れていることを思い知った。そして母の傀儡でいるわが身に漠然とした不安を覚えた。一刻も早く母から逃れなくてはならない。だがどうやって。母は傑勲のことを何でも知っている。きっと使用人たちが一挙手一投足を報告しているのだろう。誰も信用できない。自分一人で、密かに母から逃れる計画を立てなければならなかった。

 その好機は驚くほど簡単に見つかった。大学受験だ。母が望まなかったので飛び級をしていなかったが、成績の良かった傑勲は幾度となく大学進学の誘いを受けていたのだ。その気になれば簡単に学校の推薦状を得られ、ただ書類を提出するだけで宇宙軍の擁する軍立大学医学部への入学資格を得ることができた。軍の学校を選んだのは、世界各国から生徒を募るため、完全全寮制で徹底的に外界と隔離されると知ったからだった。さすがの母でも軍の規律に阻まれて息子を追って来ることはできない、そう考えた。そうして母と決別し、かつて憎みもした兄と同じ医学を目指すことになるのは、傑勲にとっては運命だったのかもしれない。

 特待生の傑勲は、皆が課せられる軍事訓練を免除されていた。やがて軍立病院に所属するようになっても、配属希望した周産期医療センターは直接軍務と関わることがなかった。むしろ研究機関である他大学の付属病院や公立病院との連携がほとんどだった。開戦後にわずかに難民の後方支援に関わる程度だった。

 しかし火星での地上戦が激化した頃、ゲリラがいかに非人道的かを喧伝するため、宇宙軍が提供した最前線に立たされている少年兵の報道映像を目にすることになった。これまで現実から目を背けていたことを激しく後悔し、いても立ってもいられなくなった。大人に操られる子供の姿に、かつて母の傀儡だった自分の姿を見た。

 だが野戦病院への派遣を希望するも、周産期医療分野で有望視されていた傑勲を敢えて危険な場所に送ることはできないとあっさりと断られた。何度も何度も掛け合ってようやく許しを得たが、火星に降り立つことはできず、月基地の医療センターでの足止めを余儀なくされた。そこで火星の戦災孤児の保護活動を行っていたイスハーク博士の主催する慈善団体と巡り合った。

 慈善団体とはいえ声高に反戦を訴える活動も行っていたため、曲がりなりにも軍籍にある身の傑勲が公然と活動に賛同するわけにはいかなかった。それでもかつて教職を夢見た傑勲には、火星の孤児達を守り育てることこそ自分に与えられた使命なのではないかと思うようになっていた。

 終戦後にイスハーク博士とともに移民船に乗ると決めた時、自らの口で母に話さねばならないと決心した。逃げるように大学に入学して以来、兄の結婚式の時にほんの少し顔を合わせた程度で会話らしい会話をしてこなかったから、一体どうやって切り出せばよいのか夜も眠れず悩んだ。だが数年ぶりに顔を合わせた母は、拍子抜けするくらい兄と兄の家族のことしか見えていない人間になっていた。

 あの時、ああやはり自分は透明人間なのだという絶望と、呪縛から解き放たれた安堵を覚えた。母に必要だったのは傑勲という存在ではなく、母の思い通りになる「息子という存在」だった。今は兄がその役目を負ってくれているので、自分は既に用済みになっていた。たかがその程度のことに長年苦しめられた恨みよりも、結局誰からも必要とされていない惨めな人生をとてつもなく悲しく思った。

 けれどその母から、兄から、「家族」になりえずもがいていたランバールを奪うきっかけを作ったのは、紛れもなく傑勲だった。

 長らくかかって、夢を叶える一歩を踏み出した。後はひたすらその道を突き進むだけなのだが、どこで何をしていても傑勲は傑勲で、相変わらず人付き合いは苦手なまま。子供たちを育てるどころか、そのしたたかさに振り回されてばかりいる。思い描いていた理想通りにはなかなか事は運ばない。

 今日は非番。久しぶりに子供たちに会いに行きたいと思っていた。マリアやジョゼは印象深い子供たちだ。だからと言って彼らだけに時間を使うのは違うと思っていた。兄だけを愛した祖母、自分だけを愛した母、そんな偏った愛は呪いに等しい。ただ公平であろうとすればするほど、子供たち一人ひとりとの関係は薄くなってしまうジレンマは感じていた。また子供とはいえ相手も人間なので、合う合わないもある。その部分は仕方ないことだと思っているが、だからといって割り切ってしまうのも違うような気がしていた。

 移民船に乗せる子供たちをどう選ぶかという問題で、関係者からの意見が割れた。本人たちの意思を重視する者、無作為に選ぶことを主張する者、特別な問題を抱えた子供を優先するとした者、意見は様々だった。結局、月や地球に流れてきた難民を中心として、本人たちの意思は二の次に選ばれることになった。親のいない子供たちを収容する場所やその支援のための資金に困っていたからだ。彼らの養育環境は劣悪で、不良化し、社会に害をなす存在になってしまうことを政府機関は最も恐れた。それが第二、第三の火星での戦争の火種となる可能性をはらんでいるからだ。今回の戦火は火星という離れた場所で起こったものだが、受け入れた難民は月や地球を舞台として、再び戦争の火種を捲く恐れがある。

 それは大人たちにも同じことが言える。マリアたちが問題を起こした階層にいる男性の多くは戦争被害を受けた人々だ。住居、職業、家族を失い、食い詰めて集まったスラムから「狩られた」人々だった。月や地球に居場所を持たない彼らを遠い辺境の星へ入植させる。今度は火星という近い星ではなく、一度行けばもはや地球とも交信が不可能となる場所に、一種の島流しの刑に処されたのだ。

 そこには戦争で功績をあげた多くの軍属も含まれていた。戦争という非常事態の中でしか生活の糧を持たない人間たちを、もはや非常事態ではない世の中に置いておくわけにはいかなかったからだ。多くの一般入植者と軍属による希望入植者との違いは、消極的選択であれ本人たちの意思が反映されているという点だけだった。

 イスハーク博士は、新天地への夢を形にするためにこのプロジェクトを立ち上げた。だが、人は夢や理想だけでは生きては行けず、結果として人の都合でその理想を大きく歪められてしまっていた。

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