10-3 犬
さっきまでとはうって変わって、まるで無垢な子供のような衒いのない微笑。この男はなぜこんなにも素直な言葉が言えるのかと、またしても嫉妬が沸き起こってきた。
「あなたは一体、ここに何しにきたんですか。マリアのことを心配していらしたんじゃないんですか」
「マリアのことも心配してるさ」
「マリアのことも」
急に眼を三角にしたイ医師が身を乗り出してきた。あまりの近さに今度はインの方がたじろいだ。
「先生、なにか怒ってる」
「怒ってなどいません」
まるで大事な愛娘の話をする父親のような顔をしている。だから少しからかってやろうと思った。みっともない姿を見せてしまったので、ちょっとした意趣返しのつもりだった。
「先生、マリアは俺のことを好きなんだってさ」
その言葉に、イ医師の眉尻が勢いよく吊り上がった。思った通りの反応にほくそ笑んだ。
「適当なことを言わないでください」
「いやこれは本当のことだ、イ先生。なんならジョゼに聞いてもらってもいい」
太い眉根を寄せ、何かを思い出そうとするかのように遠い目をする。色素の薄い琥珀色の瞳にインの顔が映り込んでいたが、彼が見ているのは目の前の男ではなかった。そのうち悲しみのような、諦めのような色が漂い始める。
一見色白でひ弱そうに見えるが、太い眉とくっきりとした二重の目元がこの男の意志の強さを現わしていた。固くて太い頭髪をもう少しすいて量を抑えれば、もっさりしたさえない雰囲気も変わるのにと思う。だが多分、わざとさえない男でいたいのだ。
「ねえ、先生。大丈夫」
イ医師は憑き物が落ちたかのようにがっくりと肩を落とした。
インの言葉を疑っていたのでない。さもありなんとわかっていた。マリアは昔から父親に対する憧れが強く、年上の男性に依存する傾向が見られた。だから不幸にして性的虐待の対象ともなってしまったわけだが、彼女自身はまったくそれに気がついていない。大人の男に踏みにじられ恐れていながら、なおも大人の男に思いを寄せてしまう、その矛盾した行動を繰り返しているのだ。
「あの子は父親の面影を追っているだけです。まだほんの子供なんです」
この居住層にいた時も、イ医師に対して恋情に似た感情を抱いていたのは知っていた。だからこそ彼女から距離を置いてきたのだ。それがブリッジに行った途端、こうも簡単に別の男へ移ってしまっていることに衝撃を受けた。しかも、ジョゼすら手懐けた、よりにもよってこの男。
またしても怒りの炎が燃え上がる気配を見せたため、慌てて目の前に両掌を掲げた。
「言葉にならない恨みのまなざしを向けるのは、怖いから止めてもらいたんいけど」
そう言われてようやく我に返ったようだ。
「すいません、つい。あの子はついこの間まで、僕に対してそうだったんです」
「そうって、マリアがイ先生のことを好きだったってこと」
「はっきりと言われたわけではありません。でも、何となく他の子供と距離感が違ったというか…」
「言いたいことはわかるよ」
虚空をみつめたまま小さく頷く。
「それがブリッジに行った途端、急に他の人に目移りしたんだって思うと、ちょっとなんというか、複雑な気分もあって…」
「まあ、その気持ちもわからなくはない」
まだ子供だと侮る気持ちと、子供だが女なのだという恐れのようなもの。まさしくインが直面している状況をイ医師はすでに経験しているのだった。扱いに困り、自分の中で「娘のようなもの」として納得させていたのだ。だがその「娘」の心はすでに自分になく、他の男に目を向けていると知った時の悲しみや虚しさ。失恋ではないが、気持ちは失恋のようなものだった。
イ医師の飾らない率直な物言いは、インにはとても好ましく思えた。
「さすがの俺でも、マリアを食うほどケダモノじゃないって」
「あなたがそんな人だとは思ってはいません。ただ世の中には卑劣な大人もいます。これは、とても、難しい問題なので…」
彼はおよそ嘘というものをつけないのではないかと思った。だから少しからかってやりたい気持ちが芽生えた。
「マリアって、ちょっと梨花子に似てる。頭の回転が速くて策を弄するけど、どこか詰めが甘いところとか」
「…インさん」
冗談でも許さないという顔をしていた。だが、そう言いながら素直に認めてしまう所も彼という人ならではだった。
「気が強いのに、すごく脆いところがあるのは確かに似てますが…、だからといってまだ子供ですから。岸さんの代わりにはなりませんよ」
言ってしまってから後悔が押し寄せてきたような顔をしていた。そこからまたしても見当違いの怒りが湧いてきたようだ。
「だいたい、あなたという人は、岸さんにそれだけ執着しているくせに、なぜ他の女性にも気軽に接するんですか。ランバール先生にも馴れ馴れしくしてましたよね。岸さんに不誠実だと思わないんですか」
矛先が急に別の所に向き始めた。初めからイ医師に気にいられているとは思っていなかったが、そういう評価を受けていたのだと興味深かった。
「つまり、マリアが次に選んだのが、よりによって俺だっていうのが気に入らないってこと」
「そうですね」と頷き、しまったという顔をした。「あ、いや、あなたが悪いということではなくて…」
「あー、もういいよ。先生によく思われているとは初めから思ってないし。
だけど、正直どうすればいいのか、よくわからないからここに来たっていうのは本当だ」
イ医師はまた肩を落とした。
「マリアは勿論、あなたと岸さんのことを知っているのでしょう。だったら、困ることは何もないじゃないですか。初めから叶わないことはマリアが一番よく知っている」
本当に敵わないと思っているのかは極めて怪しかった。十代の若者は根拠なく無敵だからだ。かつての自分がそうだった。
それに、誰かを好きになる気持ちを理屈や理性で捻じ曲げることはできない。ましてや無敵の十代の少女にはすこぶる不健康な選択肢だ。
イ医師がまた烈火のように怒りはしないかと様子を窺いながら、言葉を選んで伝えた。
「イ先生、俺はあんたみたいに、大人の顔をして高みからあの子を突き放すことはできないよ。女としてではないが、俺はあの子が好きだから、はぐらかしたりごまかしたりして泣かせることはできない」
イ医師は頷いた。怒りでも悲しみでもなく、ただ頷いていた。
「僕の顔色を窺うことはありません。あなたにはあなたの考えがあるのはわかります。それに僕は、彼女の何者にもなれなかった男です。ただ…」
「ただ、何。残酷だって言いたいの」
急に下を向いたのが笑っていたからだとすぐには気がつかなかった。顔をあげたイ医師に無数の笑い皺ができている。こんな風に笑うのだと少し意外だった。
「インさん、あなたの素行には感心できませんが、どうやら僕はあなたのことが好きなようです」
インもつられて笑っていた。
「俺も先生が好きだ。先生、面白いから」
「マリアがあなたに思いを寄せる理由がわかる気がします。僕は、マリアをただ子供扱いして、マリアの気持ちをなかったことにしようとした。あなたのように、あの子の気持ちを受け止めようとはしなかった」
「買いかぶりすぎとは思うけど」
インは肩をすくめて立ち上がった。そして、ふと思い出したようにこう言った。
「なあ先生、今日俺が話したことは梨花子には言わないでくれ。先生の心の中だけにしまっておいてくれ。お願いだ」
それが戦争中の出来事をさすのだということは、すぐにわかった。
「わかりました。ですが、それと知っても彼女はあなたを軽蔑しないだろうし、心変わりしたりしないと思いますよ」
「それでも、知られたくない。俺が悪魔だと彼女にだけは知られたくない」
イ医師には彼が必要以上に自分を苛んでいるのがわかっていた。恐らくは彼自身にもわかっている。あの時はそうするしかなかったことを、そうすることでしか精神の均衡を保てなかったのだということを。そうして生き残り、自分へ罰を与えることの無意味さを。
あなたはとても心優しい人だと思いますと言ったら、インはどんな顔をするだろうか。きっともっと自分に厳しい罰を与えようとするに違いないとイ医師は思った。だから、違う言葉を選んだ。
「今日聞いたことは、決して口外しないと約束します。
ただ、インさん、僕はあなたを悪魔だと思わない。あなたも僕も同じ人間だと思っています」
インはただ笑って会釈した。




