10-2 犬
押し黙ってしまったイ医師を笑うその声は、きっと何度もそうやってごまかしてきたのだろうという笑い声だった。
「先生、しかめ面しないでよ。そこは軽蔑でいいんじゃない」
「軽蔑、してほしいんですか」
インの顔から笑みが消えた。
「以前、岸さんに言われたことがあります。自分の手が血で染まっていることに苛まれる者もいるって。それは岸さん自身のことだと思っていたんですが、本当はあなたのことだったんですね」
「梨花子には、子供を撃ったことを話していない」
梨花子というのが岸のファーストネームだと聞き知っている。この男はイ医師が当たり前のように知っているとでも思っているのか、初めからずっとその名で呼んでいた。あるいはそれは一つの誇示なのかもしれない。岸梨花子の心を所有しているという意味の。
「でも、あなたが苦しんでいることは知っている」
言葉が終わらないうちに、急に激高したインが叫んだ。
「苦しんでいるんじゃない。俺は俺自身が信じられないだけだ。いざとなれば、俺は梨花子だって手にかける。自分が生き残るために、俺は必ず梨花子を殺してしまう」
立ち上がった時の勢いで回転いすが倒れた。その音にすら驚いて、そんな自分にやりきれずに手で顔を覆った。それはイ医師が想像もできなかったこの男の姿で、恐らくはこの男を知るほとんどの者が見たことのない姿に違いなかった。
「インさん、もしそんな場面に陥っても、あなたはきっと岸さんを手にかけたりしないと思いますよ」
「先生は知らないだけだ。俺は何度も夢の中で梨花子を殺してしまっている。何度繰り返しても、どうしても殺してしまうんだ。俺はそういう人間だ」
「…夢じゃありませんか、現実ではない。それともあなたは、他の誰にも奪わせないように、岸さんを殺してしまいたいんですか」
インは黙ってしまった。イ医師はそんなインのそばに歩み寄り、来客用のソファに誘った。頭半分背の高いインは、抜け殻のように力なくそこに腰かける。
「あなたのことを、自信に満ち溢れた傲慢な人だと思っていました」
「…誰だって確かな自信なんかない。あるように見せかけているだけだ。自分にも、他人にも」
「そうかもしれません。兄も、そうだったのかな」
脳裏に兄の顔が浮かんで消える。とても似た兄弟だと言われ続けてきた。容貌同様、その能力も兄と同等でなければならないと自分を縛り続けてきた。だが、ある時それに疲れてしまった。唐突に、疲れてしまったのだ。だが、兄があの美しい女性を伴って帰ってきた時、兄になり代わりたいと思ってしまったのも事実だ。自分は兄とどう違うのか。なぜ彼女は兄を選んだのか。
我に返り、なぜ急に兄を思い出したのか驚いていた。
傑勲の兄は救命救急医だった。民間の総合病院で勤務していたのだが、ある時突然、国境なき医師団に身を投じ火星の野戦病院に赴いていた。そこで軍立病院の研修医だったランバールと出会っている。そして、まだ医師として半人前だったランバールと突然結婚し、気がつくと双子の娘たちの父親になっていた。やがて妻が医師として復帰すると、何を思ったか妻が戦場に戻るのを許し、入れ替わりに自分は地球で開業医を始めてしまった。兄は「地域医療こそが夢だった」と言ったが、そんな話はついぞ聞いたことがない。そして、ある日突然、妻が辺境の地へ移住することを承諾したのだ。
イ医師には兄の考えていることが全く分からなかった。辺境の星への移住計画は彼がもたらした情報だったが、行くのは地球に居場所のない自分一人のつもりだった。まさか、ランバールが家族を捨てて、このプロジェクトに参加するとは夢にも思わず、また、兄がそれを許すなどとは髪の毛一筋たりとも思っていなかった。
兄の考えていることが全く理解できず、きっと兄は自分の計り知れない別の生き物なのだと思うようにしていた。目の前にいるインのこともそうだった。自分とは全く違う別の人種だと思っていた。だが、こうして話をしてみれば彼に抱いていた「なぜ」が氷解している。もしかすると兄とも、交わす言葉が足りなかっただけなのではないかと思い始めていた。
懐から取り出したタブレットをインが飲み干すのを見た。
「頓服薬、携帯しているのですか」
「頭がぼおっとするから、本当は飲みたくない。だが時々、飲まなきゃ幻聴が聞こえる。爆撃の音が耳の奥から消えないんだ」
「…インさん」
急に目の前でひざまずいたイ医師にぎょっとした。
「『犬』だなどと、失礼なことを言って申し訳ありません」
「…先生、やっぱり面白い人だ」
笑顔を作ろうとしてかなわない。けだるそうに体を起こし、背もたれに体を預けなおす。
「俺なんかに謝らなくてもいい。俺は人の心を魔物に売ったんだ。これはその代償。でも、先生や梨花子といると、もう一度人に戻れたような気になる。
本当は…、梨花子には、先生のような人が相応しいんだろうな」
この男にとって岸梨花子は、かつての罪に対する許しを与えてくれる神のような存在なのではないかと思った。人は神ではない。だから岸はあの時微妙な表情をしたのではないのだろうか。彼女にはその役割が重荷になっているのではないか。
「心にもないことを言いますね。あなた、岸さんを誰にも譲る気はないじゃないですか」
「そうでもないよ。人の皮を被り、人並みに生きたいと望むのは、俺に許されることじゃないってわかっている。呪われた俺の人生に彼女を巻き込むべきじゃないってことも。
心の底では、彼女が幸せでさえあれば、隣に立つのが俺じゃなくてもいいと思っている。むしろ俺じゃない方がいいってわかっている。だがそこに居場所がない現実を直視できない。耐えられそうにない」
居場所。イ医師も地球に居場所がないと思っていた。だからこの船に乗った。だが、どこにいても結局同じなのではないかと思い始めている。この船の中でも、ここだという自分の居場所が見つけられていない。もしかすると居場所は自然と生まれるものではなく、あらかじめ用意されているものでもなく、自分で作り出さなければならないのではないかと、そう思い始めている。
そこに居場所がないというインも、自分で自分の居場所を諦めているのではないかと思った。
「なぜ、彼女の隣に立てないと思うんですか」
「俺が人ではないからだ」
即答だった。だが、だから、岸だけには迎え入れてもらいたい、そう言っているように聞こえた。
「その…、うまく言えないのですが、岸さんはあなたを救うために存在するわけでは…。彼女は神様でもななんでもありません」
閉じられていたインの目がぱっちりと開いた。ゆっくりと頭をあげて、傍らにいるイ医師を見つめ返す。
「失礼、ちょっとそんな気がしたもので」
イ医師は自分の言葉に驚いたように、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。インはインで腹の底から大きく息を吐いた。
「先生、やっぱすごいわ、あんた」
いったい何がすごいのか、大きく何度も頷いた。
「そうだよ、女神さまだ。俺にとって梨花子は、俺が生きていていいって許してくれる女神なんだよ。
だけどそれが彼女を苦しめているって、先生は言いたいんだろ」
狂気じみた興奮に怖気づいた。インは笑っているが、今にもつかみかかられ、笑いながら首を絞められるのではないかとあらぬ思いが脳裏をよぎる。
「…すいません、わかったようなことを言って」
「いいよ、本当のことだ」
インの切れ長の目はまるでスコープのようだった。標的としてロックオンされると逃れられなくなる。目の前で体を横にずらすためにインが腰を浮かせた瞬間、本当は走って逃げ出したかったのだが、現実は微動だにできなかった。イ医師が隣に座ることができるだけの場所をあけたインは、笑顔でそのスペースを叩く。最初は固辞しようと言い訳を考えていたイ医師も、何も思い浮かばないので観念してゆっくりとそこに腰をおろした。並ぶと明らかに膝の高さが違う。勿論そんなつもりはないのだろうが、足の長さを自慢されているような気になって、隣あって座るのは少し居心地が悪かった。
そんなことなどお構いなく、熱に浮かされたようなインの言葉は続いている。
「名も知らぬ者、仇なす者すら慈しむ。彼女の傍にいれば、俺も許される気がする。彼女の愛を受けられる気がする」
ちょっとうんざりしていた。
「愛なら受けているじゃありませんか。神ではなく、人の子の愛です」
インの口元がゆっくりと微笑みを形作る。
「それが本当なら、…嬉しいけど」




