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あの時  作者: りんしぃ
28/32

10 犬

 思っていたよりもラーセン教授の観察眼は鋭かった。イ医師にとって、いったい何が一番の制裁になるのかをよく知っていた。

 あまりにも長い時間モニターを見つめていたので、すっかり目が乾いてしまった。伊達眼鏡を外し、しばし眉間を押さえると閉じた瞼の下でじわりと広がる涙の感覚が伝わってくる。乾ききった眼球がひりひりと痛んだ。

 不意に内線が鳴った。ここに来て一度たりとも鳴ったことのない内線は、来訪者の存在を告げていた。

「お通ししてください」

 白衣の皺を伸ばし、背筋を伸ばした。長時間の事務仕事で凝り固まった首がゴリゴリという不穏な音をたてる。

 ノックとともに来訪者が現れた。乗組員のつなぎを着ていないので見違えた。ノーカラーのジャケットの下の胸板が、意外と厚いのだと驚いた。

「あれ、先生。眼鏡、変えたんだ」

 来訪者はジョーイ・インだった。イ医師の顔を見るなり、挨拶もせず人を指さして笑う。そんな失礼な態度にも、この男だから仕方がないと思わせるものがある。

 この男が来ることは、数日前にサンダース副艦長からラーセン教授に連絡が入っていた。ブリッジに預けている問題児のことと言われれば、さすがに教授も断り切れなかったようだ。

 ところがこの男は、まるで暇つぶしのために友人にでも会いに来たかのような暢気な顔をして現れた。

「俺に言われたこと、気にしたの。あ、違うか。梨花子が言ったことだからだよな」

「おかげさまで、女性看護師の受けが良くなりました」

「ははは。先生も言うじゃん」

 インの指摘通り、岸に「学生みたい」と言われたので、元の居住層に戻ってからセルフレームの眼鏡をやめた。代わりにフレームなしの眼鏡にしたら、以前よりもスマートに見えるとなかなか好評だった。あのグエン師長でさえ賛同したのだから効果てき面である。それ以来、気をよくして縁なし眼鏡を愛用するようになった。やはり度は入っていないが、以前より世界が明るくなったような気がしていた。

 ニヤニヤしながら手近にあった回転いすを引き寄せたインは、勧めもしないのに勝手に腰かけた。しかし、何か用があって訪れたはずなのに、言い出しにくいのか意味もなく一回くるりと回ってみせた。

 仕方ないので、イ医師の方から口火を切る。

「ジョゼが良くしてもらっていると言っていました。ありがとうございます。彼はあなたのことを兄のように慕っているようですね」

「兄、ねえ。横暴な飼い主の間違いじゃないか」

「犬は序列に忠実です。あなたのことを自分より強いオスだと認めた。僕にはできなかったし、想像もつかなかった方法です」

 わざと「犬」だと言った。ジョゼを犬のようにした者たちに対する怒り、そして彼を苦しめたそれが、なおも彼の心の安寧の拠り所であるというやるせなさがあったからだ。だが、そんな挑発も一笑にふされた。

「先生には俺が強いオスに見えるんだ。でき損ないの狂犬なんだけどなあ」

 自虐的な言葉と裏腹に、何かを誇っているかのようにイ医師には思えた。

「聞きました。あなたは叙勲されるほどの腕前の狙撃手なんでしょ」

 「叙勲」という単語の部分で軽く肩をすくめた。良きにつけ悪しきにつけ、この事実を繰り返し人の口から聞くのだろう。ある意味うんざりしているのかもしれない。

「戦争という状況下では、人を殺した数が多いほど称えられる。だが、今、この船の中でそんな能力が何の役に立ちますか、先生。

 俺は一体何の序列の上位にいるんですか」

 以前、岸に言われたことがある。「自分の手が血で染まっていることに苛まれる者もいる」と。あの時あれは岸自身のことだと思っていたのだが、そうではなかったのだと気がついた。

「…失言でした、すいません。岸さんにも同じようなことを言われたんでした」

「人の命を救う医者から見れば、人の命を奪うことを生業にしている軍人なんかクズみたいなものでしょう」

「そういうことではありません。単なる個人的な妬みです。生物である人間の男としての僕の身体能力は、あなたにとてもかないません。外見的特徴もそうです」

「先生、面白い人だね」

 再び砕けた口調に戻ったインは、もう一度くるりと回ってみせた。「今日、ここに来たのはマリアのことを聞きたかったんだ」

「マリアのこと」

「そう。アイシャ、俺の同僚のシステムエンジニアなんだけど、彼女がマリアから聞いたんだ。マリアには出産経験があるって。そんな嘘はつかないだろうから、本当のことなんだろうけど、本人に確かめる訳にもいかないしさ」

 アイシャの名前は知っていた。この船のオーナーであるイスハーク博士の妹の名だ。一度あったことはあるが、かの深窓の令嬢、目の覚めるような美少女だったが、蚊の鳴くような声であいさつの言葉を口にしただけでブルーグレイの目を伏せてしまった。そういえば、この船にエンジニアとして乗っていることも博士から聞いて知ってはいた。

 しかし、岸とランバール、インとアイシャ、これほど知り合いがつながっているとは驚きだった。

「先生、マリアのこと知ってるんだろ。もしかして、医者の守秘義務ってやつで話せないとか、そんな堅いこと言いっこなしだ」

「あなたはジョゼの兄も同然の存在になっているんだから、マリアとも当然かかわりを持っているでしょう。そのあなたに隠しておく必要はありません」

 片側の口角を上げて見せる、そんな仕草も様になっていた。背筋を伸ばしたインは、小さく息を吐いて、努めて感情を抑えた声で言った。

「あの子は、以前にも虐待を受けていたのか」

 虐待という言葉にはあらゆる意味が込められている。恐らく一番聞きたいのは「性的虐待」に違いない。だが、直接その意図を酌んだ答えを避けた。

「彼女は戦災孤児です」

 戦争という非常事態の中では非常識こそ常識だ。生物としての本能をすべて抑え込んだ常識という名の建前など何の力も及ばない。勿論、その戦争に自ら望んで身を置いてきた相手には釈迦に説法であるに違いない。ただ、そう宣言することで、マリアが特別な存在ではなく、数多くの犠牲者のうちの一人であるに過ぎないのだと言いたかったのだ。

 イ医師は初めてマリアと出会った日のことを鮮明に覚えている。あの時、戦場の設備では彼女と彼女に宿っている命を救えないと判断した野戦病院の軍医が、危険を冒して月の施設まで搬送してきたのだ。イ医師も地球から招集された。たった一人の少女への厚遇の裏には、イスハーク博士の主催していた慈善団体の力がある。そのつながりでマリアの情報がイ医師にもたらされたのだ。

「親族がゲリラ活動をしていて、その拠点に隠れ蓑として母親や幼い兄弟とともに住まわされていたんです。母親がそれと気づいた時には20週を過ぎていました。幼い体で妊娠の継続が難しいと、母親も気づいたのでしょう。娘の命を救うために、地球軍への投降を決心したんです」

「あの子は父も母もいないと言ったそうだ。母親は、死んだのか」

「一度軍に保護されたのですが、母親とマリアが投降したことを知ったゲリラたちが報復のため残された子供たちを殺して家に火を放ちました。それを知り半狂乱になった母親は、自ら命を絶ちました」

「父親は」

 まるで尋問を受けているかのようだった。

「父親のことは詳しくはわかりません。ただ、以前住んでいた家が爆撃でなくなったと言っていたので、その時に死んだのかもしれません」

「子供は、男の子だったと言っていたそうだが」

「そうです。帝王切開で取り上げました。マリアには無事に育って貰われていったと伝えていますが、本当はすでに死んでいました」

 インの尋問はそこで終わった。砂をかんだような後味の悪さに顔をしかめたまま、しばらく何も言わなかった。淡々と話し終えたイ医師は、椅子に腰かけてインが顔をあげるのをじっと待っていた。長い沈黙だった。

「…彼女だけが特別ではない。子供は誘拐されて、男の子ならジョゼのように少年兵にされ、女の子は器量の良しあしで振り分けられて大人の慰み者にされている。

 俺が撃った少女兵も…」

 顔を上げたインのまなざしが、彼をまっすぐに見つめていたイ医師と交わった。そして、言いよどんだ言葉の先を続けるのだった。

「俺が撃った少女兵も腹ボコだった。やれない体になったから銃を持たされてたんだろう。俺が一瞬ためらった隙に引き金を引いて、俺の腹に穴をあけやがった。頭に血が上った俺は一発で眉間を打ち抜いたが、至近距離だったから頭が吹っ飛んじまった」

 今度はイ医師が質問する番だった。

「あなたは狙撃手でしょ。なぜ至近距離で」

「俺は元々、前哨部隊にいたんだ。斥候としてゲリラの基地に侵入していた。少女はたまたま俺たちと出くわしてしまった」

 まるでその右手に感覚が残っているかのように、掌を見つめる。小刻みに震えているのが、イ医師の位置からも見て取れた。

「…黒い髪、黒い瞳。俺を見た時の恐怖に怯えた黒い瞳」

「マリアも黒い髪、黒い瞳」

「正直、顔は覚えちゃいない。かなり吹き飛んじまって血まみれだったからな。黒い髪で黒い瞳だったとしか。

 見た瞬間、若い、いや幼いと思った。だから撃つのをためらった」

「あなたも撃たれたのでは」

「そう、無様にな。バディに引きずられて命からがら逃げかえったさ」

 インは右掌を握りしめ、吹っ切れたように顔をあげた。

「あれ以来、女だろうが子供だろうが容赦なく撃つことにした。爆弾を置きに来た女と子供も殺した。せめて苦しまないように一発で仕留めた」

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