9-3 ジャムの思い出
イ医師に連絡を取る方法はいくつかある。定期的に連絡を入れているジョゼに頼むか、もう一つは医局を通じて公式に連絡を取る方法だった。マクニールに頼むこともできるが、いろいろ詮索されそうでできれば避けたい。
結局、一番手っ取り早い方法を選んだ。ランバールへ直接頼むことにしたのだ。
その日の医務室は頗る平穏だった。冷凍睡眠装置から目覚め体調不良を訴える乗組員の数も落ち着いて、ブリッジにも平穏が蘇ってきていたからだ。一般市民のいる居住層とは違い、訓練された職員ばかりいる階層なので当然回復も早い。
フロレット・ランバールの姿を探して看護師の詰め所奥を覗いてみると、談笑している女医の目立つ姿がそこにあった。ところが、インの顔を見るなりあからさまに顔をしかめた。
「カウンセリングお断り。私は医者なのよ」
テーブルの上には見覚えのある瓶詰があった。オレンジ色のジェル、マリアのアプリコットジャムだとわかった。女医はそれをお湯に溶いて飲み物にしているらしい。視線に気がついたのか、上機嫌にこう言った。
「マリアが私にくれたのよ。あの子ったら可愛いところがあるんだから」
恐らくは、毒見に使われたのがランバールだったということだ。本人が上機嫌なので、敢えて教えるまでもない。つい緩んでしまう口元を引き締めて、できるだけ神妙に見えるように目を伏せた。
「実は…、先生にお願いがあって来たんだ」
「ほら、出た。お願いなんて聞かないわよ」
「聞いてよ。イ先生に連絡が取りたいんだ」
いやだいやだと手を振っていたが、イ医師の名前を聞くと驚いて顔をあげた。
「イ先生って、李傑勲のこと」
「フルネームは知らないよ。俺と同じ年くらいで、ぼさぼさ頭でさえない感じの男でさ、ダサい黒縁眼鏡かけてた人。マリアとジョゼと同じ階の小児科医だって言ってた」
知らないと答える傍ら、そんな名前を聞いた気もしていた。この船に乗っている医師で「李」と名乗っている者はそう多くないだろうから、ランバールの言う人物に違いない。それにイ医師を形容する言葉を聞いた看護師たちがくすくすと笑ったのだ。彼女たちの思い浮かべた人物こそ、インの探している医師で間違いなさそうだ。彼はきっとどこでもこんな風に看護師に笑われるようなキャラクターなのだ。
看護師たちを窘めるように一瞥したランバールも、インの評価にほぼ同意しているように見える。それを押し隠すように咳ばらいをして、殊更厳めしい顔を作った。
「彼は謹慎中よ。処分はラーセン教授に任されているんだから、教授の許可なく私が連絡を取るわけにはいかないわ」
「先生、医局長だろ。その何とか教授っていう人より偉いんじゃないの」
さらに眉間の皴が深くなる。インが馴れ馴れしいのはいつものことで、そんなことで不機嫌になるわけはない。もっと違う理由があるようだった。
「そういう単純なものじゃないのよ。
ほら、油ばっかり売ってないで、早く持ち場に戻りなさいな。どうせまた勝手に抜け出してきたんでしょ」
看護師たちまでランバールの味方になって、早く戻ってくださいと追い立てる。どうやら本当にランバールの力が及ばない問題のようだ。勿論、イ医師がランバールの身内で、今回の処分について介入しにくい立場にあることなど、インの知るところではなかった。
急にご機嫌斜めになったランバールが、茶会の解散を告げると、看護師たちも仕方なく立ち上がる。そのうちの一人、赤毛の若い看護師を捕まえた。以前から時々色目を使ってくる子だった。
「ねえ、何か理由があるんでしょ、教えてよ」
「知らないわよ、触らないで」
「ちょっと、殷亮。うちの看護師に手を出したら私が承知しないわよ」
ランバールの鋭い叱責が飛んできた。看護師はにやりと笑って、矯正器具のついた前歯をむき出しにした。忌々しいのでその鼻先を噛むふりをしてやると、満更でもない顔をしながらわざとらしく悲鳴を上げる。
「何するの、岸さんに言いつけてやる」
「勝手に言いつければいいさ」
もし彼女が本当に言いつけても何も起こらないことは明白だった。彼女にはちょっと変わった趣味があって、他人の男にちょっかいをかけることが大好きなのだ。そうやってケンカの種を作ることが一つのストレス発散になっているとみんなが知っている。
「殷亮」
「俺は大物狙いなんで、先生以外は眼中にないよ」
そろそろランバールが本格的に腹を立てそうだ。さっきからずっとフルネームで呼ばれている。もはやここに長居は無用だった。仕方がないのでジョゼにでも頼もうと思った時、インカムからマクニールの怒鳴り声が聞こえた。抜け出したのがばれたらしい。応答をオンにして、腹痛のため医務室にいましたと見え透いた嘘をついた。




