9-2 ジャムの思い出
なぜ今頃こんな夢を見たのかは、例のアプリコットジャムが原因であることには間違いない。とかくマリアという少女には振り回されっぱなしだ。
岸が少女兵のことを知っているのではないかと疑うようになったのも、マリアが現れてからのことだ。自分の負傷の原因をランバールは知っているが、詳細までは知らないはずだし、医者である彼女が言わないという確信があった。軍の関係者が喋ったにしても、脛に傷を持つ者が喜んでしたい話題ではない。一番確実なのは本人に聞くことだったが、知らないのなら知らないままにしておきたい気持ちがどこかにあって、どうしても本人に確かめられないでいた。
目の前にドカンと置かれたのは見覚えのある瓶詰め。今度は紫色のジェルが詰まっていた。置いたのは勿論仏頂面のジョゼである。
「おい、また貰ったのか」
こくりと頷き席に着く。何も言わなかったが、またしても口に合わないに違いない。
「なんだ、あのジャム炊き女。人に毒見させずに自分で食いやがれ」
無表情なジョゼに焦りの色がよぎった。しばらく付き合っていると、変化に乏しいジョゼの心の動きも少しは読めるようになっていた。
ジョゼが動揺したのは、すぐそばにご本人様がいたからだった。
「悪かったわね、毒見させて。あんたの友達が、あんたが前のジャムを気に入っていっぱい食べていたって言ってたから、わざわざ第二弾作ったってのに」
背後からめらめらと怒りの炎が揺らめいているマリアは、その場に突き刺さるように立っていた。実に旗色が悪かったが、こういう時は最後までとぼけるに限ると判断した。
「え、ジョゼのためじゃないの」
目の前のジョゼは大きく首を横に振り、インのことをまっすぐに指さした。
「これって、元々俺にくれるってことだったのか」
「うん。マリアに渡すように言われた」
「お前、そんなこと一言も言わなかったじゃないか」
その言葉に口をつぐんだのは、ジョゼなりに言わなかった理由があったのだろうと推測された。今ここにマリアがいるから尚更言いたくないのかもしれない。
「ごめん、知らなかったんだよ、マリア。てっきりジョゼのために作ったんだと思い込んでいて」
マリアの怒りの炎が揺らめく。先に謝ったことによって、少しは火力に陰りが現れていた。
「ありがとう、マリア。この間のアプリコットジャムもすごくおいしかったよ。懐かしい味がして、昔を思い出した」
「あれは…、岸に聞いて…」
「岸に」
「以前にアプリコットジャムの話をしていたから、好きなんじゃないかって岸が言ったのよ」
すべての合点がいったような気がした。だから、見知らぬ女性職員に簡単にあげてしまったことを岸が非難したのだ。
それにしても、岸とマリアはいつどんな時に話をしているのだろうか。A班のシフトで動いているマリアと岸は正反対の時間を生きているはずだ。わざわざ時間を取らねば接触する機会もないに違いない。それに明らかにマリアは岸を嫌っていたように見えた。だが、その実は連絡を取り合うほど仲が良かったのだ。いったいいつからそんなことになっていたのだろう。
「俺の好きなものをわざわざ岸に聞いてくれたんだ」
「わざわざじゃないわ。岸と話をしていたら教えてくれたのよ」
「…マリア」
「でも、迷惑だったんなら、もうやめる。これも自分で…」
テーブルに置かれたジャムの瓶詰を取ろうとしたマリアの手を、そのまま制止した。手が触れたことに驚いたマリアはさっと一歩後退する。
「これはありがたくいただくよ。でも、ジョゼに頼むんじゃなくて、直接渡してくれた方がもっと嬉しかったかな」
もはやマリアに怒りの炎はどこにもなかった。顔を真っ赤にさせて俯き、しばらくもじもじしていたかと思うと、急に身を翻して走り去ってしまった。
「可愛いなあ…。あの子、あんなに可愛いところがあったんですね」
隣で一部始終を黙って見ていた同僚がそうつぶやいた。
「だけど、なんで上官殿なんでしょうかね。男を見る目はないですね」
「あるだろ。モテないからって、そうひがむな」
その場にいたジョゼ以外の者がごまかすようにどっと笑った。どの部分で笑ったのかは追及しないことにした。
ジョゼは相変わらず無表情のまま黙々と朝食を口に運んでいたが、インがからかってその頭を押さえると、頭を振ってその手を振り払った。今まで些細なことすら反抗したことのないジョゼが、初めてインに対して反抗の意を示したのだ。
「そう怒るなよ、ジョゼ。マリアもきっとお前の存在の大きさに気がつく日がくるよ」
相変わらずの無表情だったが、ジョゼが不機嫌であることはその場にいた者すべてがわかるまでになっていた。
「そうだ、ジョゼ。第一、年が違い過ぎる。お前の方が付き合いも長いし有利だって」
「年が違うのは上官殿と岸さんも同じだろ。マリアの方が若いし、これからいい女になるかもしれないし。乗り換えるのもありかもしれん」
「お前はどっちの味方だ。ジョゼを励ましてるのに」
「うるせー、野郎ども。どうでもいいが、どさくさに紛れて俺の悪口言うのは聞き捨てならねえ。ぼこぼこにされたくなかったら、黙って食いやがれ」
機関士も航海士も軍出身の者たちだ。今は同じ立場にあっても、どうしても以前の階級格差に縛られている。インの横にいる機関士はいまだに「上官殿」と呼んでいる。それについて一度やめるように言ったことがあるのだが、どうしてもその方が呼びやすいのだと言われてしまって、それからは好きにさせているのだった。
「ですが、上官殿。わからないのは岸さんです。マリアの気持ちを知っていながら、なぜ協力するようなことをするんです。小娘だから、相手にならないとでも。
まあ、聞く方も聞く方ですけど」
「知らねえよ。大方、妹のように思ってるんじゃないか。いや、年からしたら娘でもおかしくないな」
「…殺されますよ」
聞かなかったことにしたいと機関士は顔をしかめた。こうして無理やり話題を打ち切ったものの、インも気にならないわけではなかった。
最近の梨花子は、時々何を考えているかわからないことがある。急によそよそしくなったと思ったら、変に甘えてくることもある。それもこれも、「結婚しよう」と詰め寄って以来のことではないかと思ったので、あれから一度もそのことを話題にはしていない。もしもう一度その話をすれば、「別れよう」と切り出されるのではないかという危惧があった。なぜかはわからない。直感的にそう思っているだけだ。表面上は特に変わったこともない。だが、今回のマリアのことにしても、岸は小さな嘘をついていた。嘘だというには考え過ぎなのかもしれないが、喉の奥に刺さった小骨のように、小さく鋭い痛みが走る。
ふと、イ医師のことを思い出した。イ医師は元々マリアやジョゼのいた居住層の小児科医だ。2人の過去を知る人物である。そして彼は岸梨花子のことも知っている。もしかすると、自分の見えていない梨花子の姿が彼には見えているかもしれない。マリアやジョゼに見せて自分に見せないその顔を。それに、マリアについてアイシャから聞いた話も気になっている。イ医師ならマリアの詳細な過去も知っているかもしれない。
ただ嫌なことも一つ思い出した。ジョゼがここに来た頃、イ医師も付き添っていたのでしばらくブリッジにいたことがある。先にジョゼたちと関わっていた梨花子がイ医師のことを褒めるものだから、顔を拝みに行ったのだ。予想よりもさえない男だったし、弱々しく見えたので、ちょっとした「ご挨拶」をしてみた。その後とても後悔した。我ながら子供じみたことをしたと思った。このことがイ医師の口から梨花子の耳に入らないとも限らない。知られても何ということもなかったが、きっと彼女は呆れるだろう。母親面でたしなめられるのは御免だった。今のところそんな事実はないので、もしかしたらイ医師は梨花子に喋らなかったかもしれない。それもそれで借りを作っているようで寝覚めが悪い話だった。
この際釘を刺しておく必要があると、イ医師に会いに行く勝手な理由がインのなかでまとまっていた。




