9 ジャムの思い出
あの時、祖母はなんともいえない顔をした。
「なあ、このジャムって、なんていう果物だったっけ」
食パンを埋め尽くすように塗りこめられたオレンジ色のジェルを見た同僚は、その量に圧倒されて小さく声をあげていた。
「それ、塗りすぎですよ。そんなに好きなんですか、そのジャム」
「いや、そういう訳じゃないけど…。こんな味だったかなって」
「こんな味も何も、上官殿の仰る味がどんな味だかわかりませんが。まあ、こんな感じじゃないですか、甘くて」
「甘いかな。俺には酸っぱく感じる」
酸っぱくて嫌いだと言ったあと、キッチンの奥にいた祖母に目をやると、悲しそうに眉をひそめていた。子供の好きなものはここにはないからと目を伏せた。慌てた母が必死にとりなしていた。
このオレンジ色のジャムの元になった果物の名前が思い出せない。
「確かに酸っぱいですが、甘みの方が強いと思いますね」
「それで、何の果物」
すっかり面倒になった同僚は、投げやりに答える。
「オレンジじゃないですか。マーマレードでしょ、これ」
「違うだろ、皮が入ってない」
はす向かいの席の女性職員がたまらず吹きだしていた。とても聞いていられないと言った感じで。笑われたのが自分たちだと気づいた二人は、ばつが悪そうに互いに顔を見合わせた。
「皮が入っているのがマーマレードです。オレンジのジャムの名前ではありませんよ。それは多分アプリコットジャムじゃないかしら」
「そうだ、アプリコットだ」
半分なくなっている瓶を持ち上げ、まるでその果物が中に見えるかのように光にかざす。
「それ、どうしたんですか。手作りジャムみたいですが」
「貰ったんですよ、ラボから。でも、くれた本人が果物の名前を忘れて。桃だって言ったんだよな」
向かいの席のジョゼがこくりと頷く。
「いや、これは桃じゃないだろって、なあ」
「こだわってたのは上官殿ですけどね。俺は桃だろうがオレンジだろうがどっちだってよかったんです」
「桃とオレンジは違うだろ。それにこれはアプリコットだ」
もうこの話を終わらせたいのか、あからさまに眉間にしわをよせて牽制したが、はす向かいの女性がきらきらした目をして身を乗り出してきた。
「私も貰っていいですか」
「ああ、いいよ。食べてみて。君なら正体がわかるよ、きっと」
女性は宝物でも受け取るように、両手で瓶を包み込んだ。それから手元のプラスチックスプーンを丁寧に拭き上げ、瓶の中のオレンジ色を掬い取ると、小さく舐めて、ゆっくりと半分を口に入れた。
「…うん、アプリコットですね。ちょっと酸っぱい」
「だろ、酸っぱいよな」
わが意を得たりと隣の同僚の肩を押す。同僚はやはり面倒くさいといった顔でその肩をすくめた。
「でもすごくおいしい。この船で手作りジャムが食べられるなんて」
「そんなに気に入ったなら、君にあげるよ」
「いいんですか、上官殿が貰ったものじゃないのに」
「あ、そうか。おい、ジョゼ、彼女にあげてもいいか」
ジョゼはすぐさま頷いた。
「それ、酸っぱいから嫌いだ。あげる」
その言葉の何がそんなに面白かったのか、インは声を立ててひとしきり笑った。
「そうか、ジョゼは嫌いか。お子様だな」
かくして、マリアがラボで育成された果物で作ったアプリコットジャムは、その時たまたまそばにいた女性職員の手に渡ったのだった。
その話を梨花子にすると、梨花子は呆れて笑った。
「信じられない、それで食べかけのジャムをあげちゃったの」
「え、ダメかな」
「普通、そんな食べかけを人にあげないと思うけど。しかも、マリアが一生懸命作ってジョゼにプレゼントしたものでしょ」
マリアが一生懸命作ってジョゼにプレゼントしたという点については、確かにマリアに悪いことをしたかもしれないと思った。
「あいつ、嫌いだって言ったし」
「問題はそこじゃない」
まるで抗議するかのようにどしんとベッドに腰を下ろし、長靴に足を突っ込んだ。もう一方の足を上げたところで、インの腕が岸の上半身をとらえたので、バランスを崩してあおむけに倒れ込む。
「もう、いい加減にして。あなたがこの部屋に居座ると、リネンを交換してもらえないの。あなたの体臭で臭くなったシーツで寝るのは嫌なんだけど」
「いいじゃん。俺がいなくても俺に添い寝してもらってる気分が味わえるだろ」
「あなたね、そういうこと言って恥ずかしくないの」
「全然」
そろそろ本気で怒られそうなので岸を解放した。長靴を履いていない足を振り上げて、反動で体を起こす。
「だけど、そんなことを気にするような感じの子じゃなかったんだ。ニコニコしておいしいっていうからさ」
長靴を履いて立ち上がり、くるりと振り返った岸の眉間には深いしわが刻まれていた。
「へえ、そうなんだ。愛嬌のある可愛い子だったのね」
とげのある口調に少しむっとした。
「名前も聞いてないから」
自分からそう告げた。女性が相手なら必ず口説くとでも、岸に思われているようだからだ。
「同じ時間帯に食堂にいたんだから、A班の一般職の子なんでしょ。またきっと会えるわよ」
こういう時の岸は、目を三日月のように細める。邪悪な魔女のような顔だといつも思う。
「ああ、そうかもな。今度会ったら名前聞いておくよ」
「そう、楽しみね。
私、時間だから行くけど、まだここで眠るつもりなの」
「そうだよ、おやすみ。仕事、頑張って行ってきて」
忌々し気に口を尖らせたが、それ以上何も言わなかった。鼻の頭を回すようにプイと横を向くと、そのまま振り返りもせず行ってしまった。岸が部屋を出て数秒後、静かに自動ロックがかかった。
しばらくの間枕に頭を沈めていたが、我慢できなくなって飛び起きると、扉に向かって枕を投げつけた。勿論そこには誰もいない。結局むなしくそのまま枕を拾いに起きなければならないのだった。
枕を引きずりながら、シャワールームの扉にかけてあるバスローブをひったくるようにして取った。岸は嫌がって抗議したが、一人でこの部屋にいるときは彼女のバスローブと寝ている。彼女の移り香が心の安定剤になるからだ。
いつものように岸の匂いのするバスローブに顔をうずめ、眠りに落ちた。
珍しく、夢の中は戦場ではなかった。見覚えのある高い格子天井。壁を埋め尽くす本棚。古い紙の発する独特の匂いが充満する部屋。ここが父の生家だと気づくのにそれほど時間を要しなかった。
あのアプリコットジャムのせいだとぼんやりと思った。祖母の料理は子供が好む味付けではなかったから、せめて甘いものをと出してくれたのが自家製アプリコットジャムだった。だが、それも子供の口にはやや酸っぱく感じ、酸っぱいから嫌いだと大きな声で言ってしまった。祖母は何も言わず、ただ悲しそうな顔をした。
子供時代のイン、小蛋がベッドから起きだしてきた。小さな卵のようだから「小蛋」。幼い時は小柄で体が弱かった。
母の姿がないことに不安を覚えた小蛋は、上着も羽織らずベッドを抜けだした。厳めしい本ばかりが並ぶこの部屋は変なにおいがするし、怖かった。父が生家で暮らしていた頃ずっと使っていた部屋だと聞かされたが、その父自体の記憶がおぼろげで何の愛着もわかなかった。
急いで部屋を飛び出そうとする小蛋を、大人のインが見送っていた。どこへ行くかはわかっていた。母や祖母のいる台所だ。
「娘、どこ」
それは子供の声だったのか、今の自分の声だったのかはわからない。
母はとても若かった。大学教授だった父の教え子だった母は、インを身ごもった時、もしかすると二十歳より前だったかもしれない。地方の才女として勉強ばかりして生きてきた母にとって、この田舎の暮らしはとても辛く過酷だったに違いない。白くて美しい指は、ささくれ立ち霜焼けに腫れていた。
振り向いた母は、今の自分よりも明らかに若い。冷え切った体に包み込まれると、これが夢の中の出来事だとはとても思えなかった。
「また怖い夢を見たの」
こんな小さい時から怖い夢に脅かされていたのだと一方で笑う自分がいた。母の冷たい手が優しく後頭部を撫でてくれる。
「ただの夢よ。もう怖くない」
「妈、でも、妈の方が夢なんだよ」
小さい小蛋を抱きしめているはずの母親は微笑みながら顔をあげ、傍らに立つインに手を伸ばしてきた。思わずかがみこむと、冷たく荒れ切った指で頬を撫でてくれる。そのガサガサした指の感覚はとても夢だとは思えない。
「ご飯は食べたの」
「まだだよ。だって、これ夢なんだ」
「ちゃんと用意してあるのよ。席について」
母は何の疑問も抱く様子なく、小蛋に着替えてくるように命じた。小蛋は大人しくそれに従い、部屋に戻っていく。取り残されたインは母に導かれて見覚えのある食卓に招かれた。そこは父の席で、いつも空席になっていた場所だ。一番奥に祖父が座り、その右隣。
気がつくと、もうこの世にいないはずの祖父が隣に、向かいに祖母がいた。末席に母と幼い自分がいる。
「爺爺、奶奶…」
「亮児、お前は背ばかり高くて痩せているじゃないか。ちゃんと食べているのか」
「わざわざ体重を落としたんだよ。もう戦争は終わったんだ」
「亮児、爺爺の言うことは素直に聞きなさい」
祖母にたしなめられて俯いた。湯気の立ち上る粥の碗に、祖父の箸が漬物を山のように置いている。
これは夢だ。もう存在しない家族だ。この会話も自分の希望が見せているただの夢だ。母はこんなに若くないし、祖父母ももはやこの世にいない。それに祖父母は自分を「亮児」と呼んだことがない。この家には1年半ほどしかいなかったのだ。成長したインの姿を祖父母が見ることはなかったからだ。
「亮児が泣いてるよ」
末席から幼い自分が茶化すようにそう言った。
「あらあら、どうしたのかしらこの子は」
向かいの席で祖母が困ったように笑っている。涙で曇ってよく見えないが、いつものように穏やかに笑っているのだとわかっていた。
「奶奶、ジャムが食べたい。奶奶の作ったジャム」
「酸っぱくて嫌いだといったじゃない」
「ごめん、ごめんなさい奶奶。奶奶にずっと謝りたいと思ってたんだ。もう俺は子供じゃない。酸っぱいなんて思わないし、奶奶を悲しませるようなことは言わない」
祖母は祖父や母と顔を見合わせ笑ったようだった。
「嬉しいわ、亮児。ありがとう」
夢は唐突にそこで終わった。気がつくと見慣れた船室のベッドの上で涙まみれになっていた。夢ならもっと都合よく、祖母のジャムを食べさせてくれればよかったのに。
この後、インは子供のように大声をあげて泣いた。泣いて泣き疲れた後に眠りに落ちていたが、今度は夢すら見なかった。




