8‐3 マリア
結局、インに誘われた昼食の時間には間に合わなかった。勿論行きたいと望んでもいないのだが、わざと来なかったのだと思われるのも癪に障る。だから、夕食は職員たちが集まる時間通りに食堂にやってきた。
「マリア」
と、目敏く手を振ったのは今朝のあの男だった。
連れて来いと言われたのだろう。つかつかとやって来たジョゼが無言でマリアの手を取った。
「お姫様のご到着だ。ようこそむさくるしい食卓に」
マリアは一番端の席に座らされた。その隣はジョゼ。横並びにA班の若い機関士たちと、マリアの向かいの席にはショートカットの女性がいた。確かA班のシステムエンジニアだ。その隣にインがいて、インの隣には見慣れない体格のいい若い男が座っていた。B班のベルクと名乗った。どうやらインの弟分らしい。シフトが違うのにわざわざ調整させられたようだ。
「殷亮、今日はこれなんの集まり。なんで俺まで参加させられてるんだっけ」
「その名前で呼ぶなって言ってるだろ。
今日は、マリアとの親睦会なんだから、一人でも多い方がいいだろう」
「意味わかんね。お前さ、俺のこと暇だと思ってるわけ」
いつの間にかA班の機関士の一人がマリアの前に夕食のトレーを置いてくれていた。量がマリア向きではなかったが、視線を合わせて礼を述べると、二十歳そこそこの年ごろの男ははにかんで笑った。
「ちょっと量が多いんじゃないか」
色々と目敏いインがすぐにそう指摘する。
「ええっ、そうですか」
「若い女の子が、お前らみたいにドカ食いするわけないだろ。気が利かねぇな、だからモテないんだよ」
若い機関士は明らかにむっとした表情を作った。
「上官殿のように熟女にモテるよう精進します」
一同はどっと笑った。インは口では怒ったようなことを言っていたが、普段の軽口の延長のようだった。
懐かしい感じがした。あの家でも若い男たちが集まって他愛のない話をしていた。戦争や政治の話ばかりだったわけではない。家の外で繰り広げられていた世界とは切り離された、汗臭い共同生活の雰囲気が好きだった。ある時、三人の男がマリアに手をかけるまでは。
いや、あの後も普段の生活は気に入っていた。こっそり呼び出されるのは嫌だったが、埋め合わせるように仕事を手伝ってくれたし、母への告げ口を恐れてか次第に機嫌を窺う様子も見せていたので、拒絶することもできるようになっていた。
あの生活を壊したのは自分だ。妊娠に恐れおののき、母親に気づかれてしまった自分の責任だった。
頭の後ろが痺れるような感覚。耳を伝い、こめかみまで上がってきて締め付ける。
「マリア」
異変に気がついたジョゼが困ったような顔をしていた。その声に騒いでいた男たちもようやくマリアの様子に気がついた。
「…アイシャ、すまないが」
「わかった」
インの言葉を受けて立ち上がったアイシャは、ゆっくりと向かい側に回ってマリアの状態を確認した。
「医務室に連れていくわ」
「…いい、大丈夫だから」
「だったら部屋で休みましょう」
マリアは素直にアイシャの言葉に応じた。よろよろと立ち上がるマリアの動きに合わせて隣のジョゼも立ち上がったものの、急に我に返ったのかもう一度席に腰を下ろした。許可を待っているのだとすぐにわかった。
「行って来い、ジョゼ」
ジョゼの表情が心なしか明るくなったように見えた。その瞬間、はじかれたように立ち上がり、踵を返していた。
「あいつ、犬みたいだ」
ベルクの言葉には憐れみがにじんでいる。
「俺たちだって、犬だったじゃないか」
「俺は訓練を受けただけで犬にもなれなかった。お前は、立派な噛みつき犬になった」
「でき損ないだったっていいたいのか」
ベルクは自嘲したきりそれには答えなかった。
アイシャに伴われて自室に戻ったマリアは、重い体をベッドに投げ出していた。もう何年も前のことなのに、こうして時々記憶とも言えない記憶に苛まれる。火星での生活はあまり思い出せなくなっているはずなのに、体が得体のしれない不快と恐怖を覚えているのだ。大人たちは虐待によるフラシュバックだと説明してくれたが、本当は違うのではないかとマリア自身は思っている。
「ひどい頻脈だわ。医務室に行った方がいいと思うけど」
「医務室に行ったら、余計に気分が悪くなるから…」
「根拠不明だけれど、それは行きたくないという意味ね」
アイシャはおかしなことをいう女だった。ミアやジョゼに少し似ている。
「私にできることは他にあるかしら」
「水を。水が飲みたい」
勝手についてきていたジョゼが、テーブルのポットから水を注いでアイシャに渡していた。こういう時のジョゼは素早い。
「起きられないなら起こすけれど」
それには答えず、自力で上体を起こしにかかったが途中で力尽きてベッドに後戻りしていた。すると、恐ろしいほどの力で持ち上げられた。その細腕のどこにそんな力があるのかと驚いて、差し出されたグラスを呆然と見ていた。
「飲ませた方がいいのかしら」
右手でアイシャの手を引き寄せ、口元にグラスを運んだものの、小刻みに震えていてうまく飲むことができなかった。アイシャがぐっとグラスの淵を持ち上げてくれたので、ようやく水を口に含むことができた。
「兄も、自分でできないのにできないとは言わないわ」
「…あなた、お兄さんがいるの」
「いるわ。病気で弱っているけれど、生きている」
ひどい頭痛だったので、弱っている人間が移民船に乗るだろうかということは考えられなかった。
「私には誰もいない。父も母も、弟や妹も。息子まで取り上げられた」
「息子。あなたはまだ子供だわ。それなのに息子がいるの」
「子供が子供を産んだのよ」
アイシャが黙ってしまったのは、驚きのあまり絶句したのだと思っていた。ただ言葉の意味が理解できなかっただけであるとは、マリアは夢にも思わない。
「お姉さん、子供はいる」
「私が生殖可能かどうかを別問題とするなら、質問の答えはNoよ」
今度はマリアが首をかしげる番だった。「いない」という返答は想定内だったのだが。
「…子供って望まれていなくても生まれてくることができるの。自分が要らない子供だって知ったら、その子はどう思うのかしら」
熱に浮かされたようなマリアの取り留めもない話に、適切な相槌など不要なのだとアイシャは既に学習していた。だから黙ってそれを聞いていた。
「ジョゼはお父さんお母さんから要らない子だって言われてたんだって。馬鹿で薄気味悪いから要らないって。
私の息子も、私が要らない子だって思ったから捨てたんだと思っていたらどうしよう。私が子供で、自分で育てられないから、ちゃんとした大人の人に貰われていっただけで、要らないからじゃないって、ちゃんと伝えたかったのに」
「…マリア、落ち着いて。今あなたが言っていることは全て推測にすぎないわ。それに今後事実確認することも不可能と判断するのが妥当だわ。そんなことを悔やんでいても永遠に解決しないわ」
「言葉が難しすぎてよくわからないけど、無駄なことをしているって言いたいことだけはわかったわ。
じゃあ、どうすればいいの。この気持ちはどうすればなくなるの」
「私では答えられない」
やけにきっぱりとしたアイシャの返答に対し、マリアの表情に失望と諦めがよぎり、最後に乾いた笑いが残った。「お姉さん、正直な大人ね」
「もういいわ、ありがとう。少し、眠りたい」
アイシャは無言で立ち上がった。背後にジョゼがぼんやりと立ち尽くしているのを一瞥し、やはり無言でその場を去った。
「ジョゼも行って。心配してくれてありがとう」
そう言わなければジョゼがそのままそこを動かないことをマリアはよく知っていた。




