8-2 マリア
マリアには手術痕がある。十一歳になるかならないかの時の帝王切開の跡だ。子供の父親はわからないことになっている。周りの大人たちは実の叔父のことも疑っている。
マリアの叔父は火星独立のためのゲリラ活動に身を投じていて、よく家に仲間を連れてきていた。爆撃で家を失った一家が身を寄せたのは、ゲリラが身を隠すために使っていた住宅で、子供がいる方が怪しまれないとの理由でそこに住まわされていた。そこで日常的に虐待が行われていたというのだ。ただ、マリア自身には「それ」が大人たちの言う「虐待」であったという認識はなかった。勿論、今でもだ。
そこで営まれていた「日常」は、世の中の「日常」とは違っていたかもしれない。だが、マリアや家族たちにはそこが世界の全てで、そこから外で行われていた「日常」とは一線を画すものだった。そこに出入りしていた男たちは、外で行われていた「日常」とも出入りしていたのは確かだ。だが、マリアや家族たちには関係のない「日常」だった。マリアの小さな世界の「日常」のなかで、「それ」が起こった。
母親がそれと気づいた時には、もはや堕胎ができる状態ではなかった。同時に、十分に骨盤が形成されていない少女の体で、これ以上の妊娠を継続できるはずもないことにも気づいていた。命の危険もあるなか、母親が選んだ決断は地球軍への投降だった。
命がけで投降した母親がどうなったのか、誰も教えてはくれなかった。弟や妹が住んでいたあの家がどうなったのかすらわからない。叔父の生死もわからない。
帝王切開で生まれた子は男の子だったと聞いた。「マリアの将来」のために、顔を見ない方がいいと大人たちが勝手に決めて、当時のマリアにはそれに抗うことができなった。無事に育って里子に出されたとは聞いたが、姿を見ることも声を聞くこともできなかった。
気が付くとマリアには誰もいなくなっていた。
時々思うのだ。自分がもう少し大人で、その力があれば、血を分けた息子と生きることができていたのではないかと。あの家で、家族と。
あの時、自分の体の中に自分ではない命がいた。日々変化する体への不安にただ恐れおののいていたが、いざ失われてしまうと、まるでぽっかりと穴が開いてしまったかのような空虚を感じた。それが今になってもマリアを苛むのだ。
マリアの手首に刻まれた規則正しく並ぶ傷は、その空虚に耐えられなかった数だけ増えていった。最後にそれを刻んでから、どのくらいの時間が経過したのかはっきりとはわからない。
ラボが心地よいのは、ここにいる研究員たちが皆、植物にしか関心がないからだ。彼らはできれば植物になりたいと思っているのではないかと思うくらい、生物としての人間とその営みに無関心だったのだ。
その少女はミアという。ラボで最年少の研究員だが、皆は彼女を「博士」と呼んでいた。彼女には双子の兄がいて、彼もまた「博士」と呼ばれている。だが、マリアは研究員でも何でもないので、同い年の彼女を名前で呼んでいた。彼女もそれを望んでいるようだった。
ラボといっても単なる研究室ではなく、人口の太陽光が注ぐ巨大なドームに森や田畑が存在する植物園のようなものだった。植物の受粉を媒介する虫、虫を捕食し種を運ぶ鳥、死骸や糞を分解する生物まで存在する。この船の航行中、人が夢を見ている間にも営みを続け、一つの自然環境をはぐくんできた。
初めてここを訪れた時から、ここの清浄な空気によって汚れた体を清めてくれるような気がしていた。体中に満ちた怒りのエネルギーも、ゆっくりと大気に溶け込んでいくかのようにマリアの体から消えていった。
「マリア、来たのね。見せたいものがあるのよ」
唐突に現れたミアが有無を言わせずマリアの手を取った。不思議なことに、マリアがやってくると必ずミアが出迎える。決まった時間があるわけでもないのに、彼女はなぜかマリアの存在を見つけてしまうのだ。そして、マリアが話したいことがあっても全く意に介さず、彼女が言いたいことだけを聞かせるのだった。
ミアは人の話を聞かない。ひっきりなしにおしゃべりし、相手がどう思うかなどは一切勘案しないし、相手の答えはおろか相槌すら必要としていない時もある。ジョゼもそうだが、ジョゼは自分の話をしないので結果的にマリアの話すことだけを聞いている。「聞いている」という言葉が相応しいかどうかは別として、話した内容の一字一句は恐ろしいほど覚えている。だが、それが何を意味するものであるのかを理解していない点で、ジョゼは人の話を「聞いていない」のだ。
それでも、ミアもジョゼもマリアを必要としている。マリアはそう思っている。
それまで稲の発芽の話ばかりしていたミアが、急に口をつぐんだ。時々こういう場面に遭遇する。そして決まって誰かミアのお気に入りの人物が来訪したことを告げられるのだ。それは、職員たちが使っているインカムの呼び出しに似ていると常々思っていた。どこかから発せられた電波をミアは機械なしに受けることができているのではないかと。
「シフルが来たわ」
シフルというのはミアの双子の兄の名だ。双子なので当然ミアと同じ十五歳のはずだが、物腰が大人びていてとても年齢相応の少年とは思えなかった。落ち着きのないミアもまた十五歳にしては幼いので、彼らは二人で等分するものを極端に割ってしまったのだろう。それは健康面にも現れていて、発育の良い妹に比べ兄は極端に病弱で、時々しかラボに姿を現さない。普段は自室に籠っていることが多く、聞くところによるとランバールが主治医として治療にあたっているとのことだったが、特に病名のつく疾患があるわけではなく、体自体が虚弱なのだということだ。
ドームの中心にそびえる樟の巨木の前で、彼は佇んでいた。妹とその友人の来訪をあらかじめ知っていたかのように振り向くと、やはりミアに面差しの似た笑顔で出迎えた。
「シフル、体はいいの」
兄のシフルに対するときだけは、ミアは人並みの気遣いを見せる。
「ありがとう、大丈夫だよ。今日はだいぶいいんだ」
少し離れた場所でスーツ姿の男性が控えている。シフルのお目付け役でいつも影のように付き添っているのだ。寡黙で忠実なこの男をマリアはあまり好きではなかった。理由はわからないが、生理的に好きではないのだった。そのことを一度も口にしたことがなかったのに、シフルは先刻ご承知らしく、マリアがいるときにはこの男を少し遠ざけてくれている。
「マリア、久しぶりだね。会えて嬉しいよ」
久しぶりと言ってもたった三日程度顔を合わせなかっただけのことだ。そもそも、マリアがこのブリッジにやってきてから日が浅い。シフルと初めて会ったのもついこの間のことだ。それでも、病人には一日一日がとても長いのかもしれない。マリアも入院していた頃にはそうだった。
「元気がないね、何かあったの」
ついこの間あったばかりのシフルだが、マリアの心の動きを簡単に見透かしてしまう。
「そうなの、マリア。どうして話してくれないの」
そのつもりは全くないのだろうが、まるで責めているようかのようなミアの言葉に苦笑するしかなかった。それがよくわかっているシフルは穏やかに妹をたしなめ、再びマリアに向き直る。
「話したくなければ話さなくてもいいんだ。少し、気になったものだから」
「何を、話していいかわからないの」
「そう。言葉にできない気持ちなんだね」
マリアの右目から涙が転げ落ちた。そんな自分に驚いた途端、あとからあとから涙があふれ出た。
「…マリア、どうしちゃったの。どこか苦しいの」
突然泣き出したマリアにミアは狼狽しきっていた。彼女は強い感情に過剰な反応をする。
「ミア博士、こういう時は何も言わず、友達を抱擁するんだよ」
「抱擁、わたしが」
「そう。だって、君はマリアの友達だろ」
「ええ、マリアは私の友達よ」
兄の笑顔の後押しを受けて、ミアはおっかなびっくりマリアを抱きしめた。そんな兄妹のやり取りを一方でほほえましく聞きながら、涙が止まらないマリアはミアの背に強くすがるのだった。
ミアはこのドームの樟に似ている。そこにあるがままの巨木のようにマリアが泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。




