8 マリア
そうしてイ医師はブリッジを去っていった。
マリアの耳にも早速その情報は届いていた。最後くらい会いに来るのかと心のどこかで抱いていた期待は裏切られた。そういう男だった。
ここにきてすぐマリアは長い髪を切った。今は襟足が見えるほどのショートカットで、一見すると少年のように見える。服装もブリッジ職員のつなぎを貸与されているからか、実際何度か間違われた。この姿を見て、顔をしかめたのはランバール一人。だが、何も言わなかった。
一人で食堂に行くと、複数の若い乗組員に囲まれているジョゼの姿を見つけた。ジョゼは機関士の見習いとして働くことになっていた。本人はいたってマイペースだったが、以前よりも表情が穏やかになっているのは、いつの間にか職員に可愛がられる存在になっているからなのかもしれない。
声をかけないつもりだったのに、ジョゼがマリアに気づいて一目散に歩み寄ってきた。
「おいジョゼ、知り合いか」
東洋人の男がついてくる。同じ東洋人でも、イ医師はどこか野暮ったい雰囲気をまとっていたが、この男はすっきりとして現実味がなく、まるで絵本の登場人物のようだった。
「可愛い子だな。彼女か、ジョゼ」
驚いたマリアが鋭い視線を向けたのを抗議と見たのだろう、男はとりなすように追従笑いを浮かべた。
「ごめん、フライング」
当のジョゼにはこの間の会話の流れが全く理解できていない。
「なぜ女だとわかったんですか」
「え、だって女の子でしょ。違うの」
「…違いませんけど」
男はマリアの隣の席にジョゼを座らせ、自分はその隣に腰を下ろした。
「君がマリアだね。ジョゼと一緒に連れて来られた」
再び鋭い視線を浴びせられて、両の掌をあげて降参の身振りをして見せる。普通の職員にはマリアが保護された少女だという事実は伏せられている。ブリッジの中枢にいる者か、医療関係者しか知らないことだ。
「あなた、誰」
「怖い顔してても可愛いけど、できれば笑顔の方がいいかな」
わざと苛立たせる物言いをしているだとわかってはいるが、腹の底のむかつきは止まらなかった。
すると、急にジョゼが立ち上がった。
「お、時間か。相変わらず正確だな。いいよ、行って来い」
許可をもらったジョゼの表情がわずかに安堵している。マリアのことは気になるが、就業開始時間のことはもっと気になるからだ。
「マリア、じゃあまた」
ジョゼは振り返りもせず行ってしまった。
「あいつも因果な性格だよな。俺だったら仕事の時間よりマリアとの時間を優先するけど」
「あなたも仕事の時間でしょ、イン航海士さん」
ネームプレートと肩章で判断したのだとすぐにわかった。ここに来てまだ1ヶ月弱のはずなのに、すでにそういう処世術を身に着けているとは聞きしに勝る大人びた少女だ。
「…あなたね、岸の噂の若い彼氏って。業務上知り得たことをみだりに話すなんて、あの女最低だわ。しかも、それベッドの上で聞いたんでしょ」
「あはははは、こりゃあ参った。その通りだよ」
まさか、堂々と笑って返されるとは予想もしていなかった。
「否定もしないの」
「だって、その通りだからさ。君の仰る通り」
「…呆れた人。噂通りの変人ね」
まだインがニヤニヤ笑っていることは横目で見えていた。
「そうやって大人をからかって馬鹿な奴らだなって思ってきたんだ、マリアは」
「わかったようなこと、言わないで」
「大人だって、君たちの考えていることと大差ないさ。同じ人間だからな。
あの取り澄ました岸のお姉さんだって、つい俺にペラペラ喋っちまうことだってあるんだ。可愛いところもあるだろ」
「…気持ち悪い」
その笑い声は腹の底から沸いてきたかのように低く、自嘲を帯びていた。
「ねえ、マリア。一人で朝飯食ったってうまくないしさ、ジョゼや俺たちと一緒に食わないか。
そうだ、ラボの連中とはどうなんだ。そういや、奴らの姿は見かけないなあ」
ラボの職員は皆寝食をおろそかにしがちだ。時間があるときにふと思い出して食事をする、そんな人間がほとんどだった。誰も食卓を囲んで談笑するような質ではなかった。
「男の人は嫌い。一人の方がいい」
「あ、そ。君、女も嫌いそうだけど。けど、ジョゼは別なんだろ。俺たちとじゃなくて、ジョゼとならいいだろ。昼に待ってるからさ。あいつ、時間通りだから」
言いたいことだけ言うと、インはそのまま席を立っていた。ジョゼが座っていた席の向こう側から奥に体を引いて去っていった。
あの男、岸からどこまでの話を聞いているのだろう。口調は馴れ馴れしいが、話しているときも一定の距離を測っているかのようだった。ジョゼともずいぶん前から打ち解けているようだったし、すべてを知っているものと考えていいのだろう。そういえば、イ医師も同じような感じだったが、彼の場合は不器用すぎて逆に気を使い、ぎくしゃくしてしまっていた。あれを思えば、インの処し方はかなりスマートだ。
それにしても、あの仏頂面の岸梨花子とあの軽い男がどうにもつながらない。あの男の前では岸はいつもの岸ではないのだろうか。それを思うとやはり気持ちが悪かった。いい年をした女が恥ずかしくないのかと思った。
おざなりに食事をとって、いつものようにラボに向かった。マリアの行動はここではかなり自由だ。最初の頃こそ医療関係者の監視がついていたが、ランバールにラボに連れていかれてそこに入り浸るようになると、いつの間にか生活を監視する者がいなくなってしまった。ジョゼのように労働を勧められることもない。もっとも、ジョゼの場合、時間をつぶすことができないと武器を作ってしまうので、他の何かにエネルギーを向けさせた方がいいと判断されたに違いなかった。マリアもその方が彼のためだと思う。
彼は常に見えない「敵」に脅かされてきた。もはや「敵」など存在しないのだと言って聞かせたところで、初めから存在しないのに植え付けられた「敵」の概念は、彼の中で得体のしれない恐怖そのものになってしまっている。それをすべてぬぐうことなど並大抵のことではなかった。「敵」の存在が彼の存在意義でもあるからだ。「敵」を否定されることは、彼そのものを否定されることに他ならない。
イ医師に言われたことがある。君が彼の存在意義になってあげることはできないのか、と。彼は実に簡単に言ってのけたが、たった12歳だったマリアにジョゼの存在そのものを受け止めることなどできなかった。マリア自身、寄る辺ない思いをしていて、イ医師の優しさに心の安らぎを覚え始めた頃だった。そのイ医師からのこの提案は、マリアにとって処刑宣告にも等しかったのだ。受け止めてもらいたいのはマリアの方だったというのに。
マリアにはわかっていた。イ医師には心に秘めた人がいる。軍の病院を辞めないでいたその理由。そこに彼女、実の兄の妻がいたからだ。そして、その人物は何一つ真実を知らず、この船に乗っていた。
医局長、フロレット・ランバール。
初めて会った時、まさか彼女がその人だとは知らなかった。だが、医務室での生活の中で自然とそれが耳に入ってきたのだ。イ医師がジョゼの監視役としてブリッジにとどまることになったと聞いた日のことだった。看護師は当然マリアが知っているものとしてこう言ったのだ。
「イ先生って、ランバール医局長のご主人の弟さんなんですってね」
天井がガラガラと崩れる音を聞いた気がした。そして、次に怒りが沸き起こった。イ医師から兄の妻で二人の娘の母だと聞いていたから、もっと母性溢れる女性なのかと勝手に思っていたのだ。ところがあのランバール医師ときたら、女優並みの美貌を鼻にかけ、白衣にピンヒールを履くような女なのだ。
虫をも殺さぬあの朴念仁面をしておきながら、兄の妻であるゴージャス美女に懸想とは。まんまと騙された気がした。
それに、ランバールは単身でこの船に乗っている。彼女は夫と娘たちを捨ててこの船に乗ったのだ。聞くところによると娘たちはまだ二十歳にもならないはずだ。マリアには、自分の都合で子供を捨てるような親が許せなかった。
その許せない女が、あくびを噛み殺しながら廊下を歩いてくるのに遭遇した。
「あらマリア、おはよう」
「…おはようございます」
そのまま素通りしたマリアをわざわざ止めて、ランバールは顔を覗き込んできた。
「定期的に医務室に来なさいって言ってるのに、あなた全然来ないでしょう。体調はどうなの。その後、変わりないの」
「大丈夫です。生理もきたし。ちゃんとビアンカには伝えました」
「それよ、それ。なんでビアンカには言うのに私には言わないの」
「先生、忙しいから」
ランバールにはマリアの苛立つ理由がわからない。まるで自分の双子の娘たちと接しているかのようだった。昔は手に取るように二人のことがわかっていたのに、いつの間にかまったく心の読めないモンスターに育っていた娘たち。マリアもまた負けず劣らず理解できない存在だ。そう思ってはいたが、その事実をマリアに気づかれたくはなかった。ランバールはもう一度やり直したかったのだ。娘たちを理解できなかった分、娘と年頃の近いマリアと、もう一度。
動揺を押し隠し、そっとマリアの肩に触れた。私はあなたの理解者になりたいのと、必死に訴えかけるかのように。
「ブリッジでは私はあなたの親代わりのつもりよ。何でも話してほしいのよ」
とがった肩がそんなランバールの手を撥ね退ける。まるでうるさいハエでも払うかのように。
「そんなの、全然頼んでないし。
子供を産んだからって親になれるわけじゃないって、私は知っているのよ。だって私がそうだもの」
「マリア」
なおも引き留めようとするランバールの手を振り切って、全速力で廊下を走った。マリアが行くところなど限られていたから、その気になれば追いかけることもできたはずだった。だが、ランバールが追っては来ないだろうと確信していた。




