7‐3 子供たちと医師
翌朝、ジョゼに起こされてすでに起床時間が過ぎていることを知った。昨夜は何時に戻ってきたのかわからないが、ジョゼの様子は相変わらずでちゃんと眠れたのかと問うと頷くだけで、それ以上の詳しい話を聞くことができなかった。お腹がすいて死にそうだと繰り返すからだった。
食堂のシステムは居住層と大差なかった。一つ違うのは、交代勤務の者があとからあとからやってくるので、常に人でごった返していた。
まるで餓えた大型犬のように、あっという間に、ジョゼは自分に与えられたトレーをきれいに平らげてしまった。呆気に取られていると、その視線がイ医師のトレーのロールパンに注がれている。
「…欲しいのか」
「うん」
「じゃあ、一つあげるよ」
言うが早いか口の中に詰め込まれていて、その必要もないのに急いで飲み込んでいる。
「いつもこうなのか、ジョゼ。もっと落ち着いて食べたらどうだ」
ジョゼは答えなかった。
「若いから腹が減るんだよな。俺の分もやるよ、ジョゼ」
瞬間、ジョゼに殺気が走った。だがそれよりも、差し出された掌のロールパンに釘付けになり、奪うようにロールパンを頬張っていた。
ジョゼの背後から来た男は、笑いながらその隣の椅子に腰かけ、はす向かいの席のイ医師に小さく会釈した。つられてイ医師も小さく頭をさげたものの、いったい誰なのかまったく思い出せなかった。
「あなたがイ先生。初めまして、ジョーイ・インです」
「あ、どうも。李傑勲といいます」
思い出せないはずである。初見だったのだ。しかし、なぜ自分とジョゼを知っているのかと問う前に、さっと目の前に右手が差し出されていた。その手は自分と変わらないようにみえて、掌がとても厚く、指のおかしなところにたこができていた。直感的に軍人だと思った。だが、風貌からはとてもそんな風には見えない。
「この子、やばいね。ロールパンがなければ殺されてるよ」
インの口調は早速砕けている。今あったばかりなので、イ医師の方はすっかり戸惑ってしまった。
「あの…、私たちになにか」
「ちょっと先生に会いたかったんだ。ねえ、その眼鏡、伊達」
男はためらいもなくイ医師の眼鏡に手をかけていた。驚くほど速く、避けられなかった。
「やっぱ、度がはいってないや」
男は勝手に人の眼鏡をかけていた。油膜で曇った眼鏡をかけても、どこか様になっている。
「返してください」
イ医師の伸ばした手はあっさりとかわされていた。
「先生、眼鏡似合わないってさ。俺もそう思う。眼鏡ない方がいい男だ」
なぜだかよくわからないが、敵意を向けられていることだけはわかった。差し出された眼鏡を受け取り、その必要もないのに慌ててかける。
「頭が良くて、穏やかで、まじめで誠実な人なんだって、先生は」
「あの…、仰っている意味がよく…」
「岸さん」
急にジョゼがそうつぶやいた。ぎょっとしたのはイ医師だけではなかった。
「岸さんの真似してる、この人」
「ジョゼ、いい子だ。俺のロールパンをもう一つやろう」
焦りだしたインは自分のトレーからもう一つジョゼにパンを与えた。イ医師にも食事の邪魔をした非礼を急に詫び、いそいそと席を立った。困ったことがあったら声をかけてほしいなどと言いながら。
それからは食堂で会っても、廊下ですれ違っても、おかしなことを言われることはなかった。むしろ、あちらの方がばつの悪い顔をしていた。
その理由はすぐにわかった。ブリッジでの生活が落ち着いてくると、ジョゼとイ医師は一般職員と同じ六人部屋に移ることになった。そこで職員たちと話をする機会が多くなると、次第に顔と名前も一致しはじめ、その分いろいろ噂話も聞こえてきたからだ。
聞けば、その元軍人は二十代後半で、イ医師より少し年下だった。彼が岸梨花子の年下の恋人だときいてさらに驚いた。大方、岸がサンダース副艦長に直訴までしてイ医師の処分保留を求めたので、気になって偵察に来たのだろうと乗組員たちは下世話に笑った。そんな心配をしなくても、誰も手を出したりしないのにとさらに笑った。あまり笑うので、聞いている方が気の毒になったくらいだ。
「あの二人はこの船一番のバカップルなんですよ、先生。なにせ、インカムで公開痴話げんかを流して岸は降格ですから」
「ええっ、あの岸さんが、まさか」
今まで見てきた岸の顔にそんなイメージはまったく浮かばない。
「男の方は、先の戦争で叙勲されたスナイパーなんですけどね。性格に難があって、狙った標的を必ず仕留めないと気が済まないらしくて。あの鉄の処女を落とせるかって持ちかけられて、ミイラ取りがミイラになったって話です」
あの男が狙撃手と聞いて納得した。妙な場所にたこがあると思ったのはそのせいだったのだ。
「その話ではまるで彼が被害者みたいだけど。岸さんは美人だし、優しい人だよ」
職員たちはどっと笑った。
「美人の皮を被ったおっさんですよ。先生、彼女の外見に騙され過ぎ」
「美人の皮を被ったおっさん」と聞いて、イ医師の脳裏には義姉のランバールが思い浮かんだ。詐欺の度合いとしてはあちらの方が上ではないだろうか、そう思ったところで、自分の頭の中の義姉に睨まれたので、慌てて打ち消した。
この若い乗組員たちには愛する人がいるのだろうか。その人がどんな人なら愛せるというのだろうか。岸のことを笑う彼らは、自分の愛する人の中に「おっさん」がいたと知ったらどうするのだろう。
少なくとも、イ医師が見てきた女性の中で「おっさん」が存在しない人などいない。大学病院、軍立病院、どこの世界に行っても最前線で働いている女性の中には、彼らのいう「おっさん」が存在していた。それを表に出すか出さないかの違いだけで、岸はどちらかというと素直に自分をさらけ出している人ではないか。いや、見えている姿は実は作っている人格で、岸の場合、他に別の彼女がいるのではないかと思い至った。もしかすると、あのインという元軍人には別の人格が見えているのかもしれない。
人が人を愛する理由は様々だ。なにが正解でなにが不正解というものではない。それに人の心は移ろいやすい。時とともに変化していく。
イ医師にはあの元軍人が少し羨ましかった。誰に笑われても、自分の気持ちを偽らずに堂々としていることが。
やがて、ジョゼはA班の機関士見習いとして勤務することになった。元ゲリラの少年兵で、正当防衛とはいえ人一人を殺したらしいと、最初は遠巻きに様子をうかがっていた職員たちも、コミュニケーションにやや難があるものの、素直で呑み込みが早く大人しい少年だということがわかってからは、親切に接してくれるようになっていた。急に背後から近づかれたりすると、過剰に反応することもあるのが心配の種ではあるが、乗組員のほとんどが元軍人でもあるので、特に大きなトラブルを生むことはなかった。
一方のマリアは、植物の促進栽培を研究するラボに通うようになっていた。ラボにはマリアと同い年くらいの少女の研究者がいて、どうも彼女と気が合うらしいということがわかったのだ。
二人とも穏やかな時間の中に居場所を獲得しようとしていた。
このままの日々が続けばいいと思っていたが、ジョゼの状態が安定してきたことを理由にイ医師も本来の居住層への帰還命令が出た。処分についてはラーセン教授に一任されることとなった。
D班の岸とはほとんど会うことがなくなっていたので、居住層に戻る前に会ってお礼を言いたいとA班の班長マクニールを通じて申し入れていた。岸からは昼間帯に時間を作ってくれるとの回答だったが、そこまでのことはないので、勤務に入る前に会いたいと伝えたのだった。
ほんの数週間のことだったのに、まるで長らく会っていなかった知己のようだった。
「本当にありがとうございました。あなたのおかげでジョゼを見届けることができたし、マリアのことも…」
「マリアにはまだこれから助けが必要なのに」
「それは、僕の役目ではありません。あの子があの子の力で決めることです」
なぜか岸はふっとほほ笑んだ。「先生らしい」
そう言われて、岸には自分がどのように見えているのだろうかと思わずにはいられなかった。彼女は必要以上のことは何も聞かない。最初は機転の利かない自分に苛立っていたのがありありとわかったが、次第に慣れたのか諦めたのか、まるで憐れみを受けているようなときもあった。頼りない男だと思われていたのは間違いない。ただ、この「先生らしい」という言葉には、どうやら肯定的に受け止めている部分があるのだと思わせた。
「あの…、僕、眼鏡似合わないでしょうか」
唐突にそう聞かれて、岸の目が丸くなった。
「ここに来たばかりの頃、A班の人に言われたんです。元軍人みたいだけど、そんな感じではない人。その人はどうも、岸さんから僕のことを聞いていたみたいで」
最初呆然としていた岸だったが、イ医師の話を聞くにつれて事情を呑み込んだようだ。謎の百面相を演じて見せた。
「あの、ごめんなさい。本当にごめんなさい。まさか、そんな…」
少しばかりのいたずら心だったのだが、予想以上にうろたえる岸の様子にイ医師の方が驚いていた。冷たい軍人然としている岸にも、こんな表情をすることがあるのだと。
「もう少し違うフレームの眼鏡の方が似合うんじゃないかと思って。その眼鏡はまるで学生みたいだから。
あの人、そんなことまで言ったんですか」
「彼、僕を見て安心したんじゃないでしょうか。野暮ったくてさえない男なので」
上気させた顔の口元を覆い、右手をイ医師の肘にかけた岸は、力強く首を横に振った。
「そんなことありません。先生は…」
「頭が良くて、穏やかで、まじめで誠実な人だって言ってくださったと聞きました」
「…申し訳ありません」
一体何を詫びることがあるのだろうか。岸は恐縮しまくっている。ふと、これが岸の別人格なのかと思った。
「岸さん、あなたのご親切とご厚情に感謝します。ジョゼとマリアをよろしくお願いします」
差し出された右手に背筋を伸ばし、いつもの軍人顔を取り戻す。だが、柔和な微笑みは消えてはいなかった。
「こちらこそ、先生に会えてよかったです。また地上でお会いできる日を楽しみにしています」
「そうですね。また地上で再会したら、今度はブリッジ職員と医師ではない関係を築けるでしょうか」
岸が言葉の意味に気づくかどうか試してみた。きっと気づかないと確信していたから言ってみたのだ。
案の定、
「ええ、同じ星の住人として、良き友人として」
と、実にさわやかな笑顔を返してくれた。
わざわざインが様子を見に来た理由は、岸のこういうところを心配しているのだろうと分析した。彼女は自分に対する評価に無頓着すぎる。彼女の外見に惹かれて近づいてくる者の意図を見抜けないのだ。もっとも、表面上の厳しい顔が前面に出すぎているので、彼女のこうしたギャップに気づかないまま離れていくことが多いのだろう。
「今度はきちんと紹介してくださいね、あなたの恋人に。僕が怪しい者ではないって」
驚いた顔をした岸の表情が、なぜか少し寂しげな笑みに変わる。
「…ええ。きっと」




