7‐2 子供たちと医師
気がつくと白い天井が広がっていた。医務室のものだとわかったが、少し違うような気もする。
体中が痛い。少し捩ると下半身から引き裂かれるような痛みが頭に突き抜ける。この痛みには覚えがある。忘れたくても忘れられないおぞましい出来事。
ゆっくりと記憶が戻ってきた。あの時、酔った大人たちに体を押さえつけられていた。世界をぐるりと取り囲む淫らな目にさらされていた。どこからか伸びてきた大きな手でがっちりと顔を押さえつけられ頬骨がきしみ、息ができなかった。苦しくてたまらず、逃れようともがいた。しかし、もがけばもがくほど戒めは強くなり、息を吸っているのか吐いているのかさえわからなくなる。音が消え、潮が満ちてくるかのように、意識が靄に包まれていく。
生暖かい何かが体中を這い回っている感覚。逃れようと身を捩っても、まるで楔で打ち付けられたように少しも体が動かない。それらはあちらこちらを物色し、やがて足の間から鋭く硬いものとなってやおら押し入ってきた。電撃のような痛みが走り、耐えかねて、叫び声をあげた。
「黙らせろ」
首を絞めつけられて息が止まった。喉の奥から何かが逆流し、こめかみが膨らんだ。涙が勝手にあふれ出て、頭の中では鐘が鳴り響く。
「絞め過ぎるな、死ぬぞ」
唐突に、胸に空気が流れ込んだせいで、勢い余った空気が逆に気道を塞いだ。喉の奥が震えて咳が止まらず、体が勝手に反り返って跳ね上がる。口からはとめどなく唾液が流れ出ており、外に出なかったものが口腔内に満ちてさらに気道を塞ぐ。
「やめろ、マリアを離せ」
ジョゼの叫び声が聞こえた気がした。狂ったように叫んでいる。
すると、それまでびくともしなかった戒めが緩み、体に自由が戻った。口の中の唾液を吐き出し、余った空気を吐き出し、ようやく呼吸が戻った。
「…汚え、このガキ。俺に小便ひっかけやがった」
「マリアを離せ」
顔を上げた瞬間、真っ赤な液体が飛んできて頬を濡らした。目の前にいた男の首から血しぶきが上がっていた。
「きゃああああああああ」
次の瞬間、誰かに抱きしめられていた。目の前の惨劇は消え、無機質な白い壁だけがそこにあった。
「マリア、大丈夫よ。ここは安全よ」
女の声。やや冷たく柔らかい腕にすがり、感触を確かめた。誰かはわからないが年上の女性のようだった。
体の震えが止まらない。寒くもないのに歯の根が合わない。
女はしばらくの間、黙ってマリアの体を守ってくれた。この女が誰だかわからなかったが、この腕に包まれていれば安心なのだと根拠もなく信じられた。ごわごわした堅い布地にはかすかに消毒液の香りがする。医務室と同じ匂い。ジョゼはこの匂いを嫌がったが、マリアは嫌いではなかった。お節介なあの医者と同じ匂い。
やがて、マリアが落ち着きを取り戻したと判断したのだろう。その女、看護師がインカムのスイッチを入れた。
「先生、マリアが覚醒しました」
「先生」。やはりこの女は看護師だった。呼び出したのは例の小児科医に違いないとぼんやりと思っていた。
だが、しばらくしてそこに現れたのは、ピンヒールの金髪美女だった。ひざ丈の真っ赤なマーメイドスカートのワンピースに、まったく似つかわしくない白衣を着ていた。どうやら医者なのだろう。それにしても派手ないでたちだった。
女はマリアの顔を覗き込んでにっこり笑った。
「初めまして、マリア。私は医局長のランバールよ。気分はどうかしら」
抱きしめてくれている女の影にとっさに身を潜めた。見たことのないような美女に恐れをなしたのだった。
「嫌われちゃったかな…。私、昔から女性に嫌われる質なのよね」
と言いながら、ランバールは一向に気にするそぶりもない。さっとマリアの左腕をとって脈を測り、首にかけていたピンクの聴診器を耳にかける。阿吽の呼吸でマリアを抱いていた女が体を捩り、その隙に胸の音を聞く。
「大丈夫かな。熱もなさそうだし」
ランバールはもう一度マリアの顔を覗き込んだ。
「マリア、ここはブリッジの医務室よ。あなたの身柄はしばらくここで預かることになったの。自分の身に何が起こったか、覚えている」
知らず身震いしていた。「…覚えているわ」
「処置も投薬も終わっているわ。異変があったらすぐに知らせてちょうだい」
「私、一度…」
ランバールはその先の言葉を遮った。
「こう見えても私も医者なの。わかっているわ」
自分に起こったことは覚えている。だが、その後のことは記憶が曖昧でどうしても思い出すことができない。目の前の男の首から血しぶきが飛び出して、男が倒れかかってきた。絶叫を振り絞り、その後は…。あれは本当にあったことなのだろうか。
「あの…、ジョゼやみんなはどこですか」
「ジョゼっていうのはあの男の子のことね。彼もブリッジにいるわ。けがも大したことないから、先に乗務員室の空きベッドに入れられてるわ。彼以外の子はみんなホームに帰ったわ」
心ここにあらずのマリアが聞きたかったのは、そんな返答ではないとランバールもすぐに気づいた。
「大丈夫、正当防衛よ。あなたが先に危害を加えられたのだから」
マリアの目からようやく警戒の色が薄れた。相手が子供と侮る大人ではないと理解したようだった。
「…殺したの」
「『死んだ』のよ、マリア。出血が多すぎたわ」
死んだと聞いて何の感慨もなかった。もっとせいせいするのかと思ったが、それすらもない。本当に何も思わなかった。空っぽだったのだ。
ランバールはそれを罪悪感が引き起こす放心状態だと見誤った。
「気に病む必要はないわ。むしろ自業自得よ」
その言葉に医師が誤解しているのだとわかったが、あえて解く必要もないと判断した。話したところでこの空虚な気持ちをわかってもらえるはずもない。人の生死に関わる職業とはいえ、医者とは人を生かすことが生業であるからだ。むしろ事の重大さを悔やむ殊勝な少女を演じる方が何かと都合がいいはずだ。大人は昔子供だったことを忘れて子供に幻想を抱く。その幻想こそ、今のマリアとジョゼの窮地を救うだろう。
「マリア、何か食べられそうかしら。できれば、何かお腹にいれてもらった方がいいのだけれど」
食欲は沸かなかった。だが、食べ物を口にしなければ生きる気持ちまで萎えてしまう。嫌でも何か食べた方がいいということは経験からもわかっていた。
体をよじると鋭い痛みが走った。
「…先生、私、シャワーを浴びたい」
女医と看護師が戸惑ったように顔を見合わせている。
「お願い、先生。髪や体中から変なにおいがするの」
「わかったわ、マリア。準備をするから、ちょっと待っていて」
ピンヒールの踵を打ち鳴らしながら、女医はいそいそと病室を出ていった。
一般診察室の横を抜ける廊下の先に、見覚えのある立ち姿があった。夫より少し背が高く、夫より華奢な義理の弟。
「…医局長、マリアは」
今日ばかりは場をわきまえた神妙な面持ちをしている。当たり前だと思いながら、どこか一抹の寂しさがある。弟にはいつも天真爛漫でいてほしいという勝手な願望があるのかもしれない。
「シャワーを浴びたいそうよ。
ところで、イ先生、あなた、処分が決まるまで謹慎中のはずでしょ。なぜまだブリッジにいるの」
「ジョゼがブリッジの生活に慣れるまで、ここで待機するよう副艦長から」
本人のけがは大したことがないのだが、少し難しい少年だからという配慮が働いたからだろう。正当防衛だったとはいえ、彼は男の頸動脈を一撃で断絶している。早朝に車いすで運ばれてきて、うとうとしていた姿を見たが、そんなに危険な少年には思えなかった。D班の担当医が診ていたのであれから直接かかわってはいないので、断言はできないのだが。
「それなら尚更こんなところ…、あ、夜間帯ね」
「あれから浅眠傾向が続いていて…、今は岸さんが見てくれています。僕に休むようにって」
義弟の口から岸の名を聞かされて飛び上がるほど驚いた。
「岸って、岸梨花子」
過剰な反応に戸惑ったように、セルフレームのブリッジを指で迫り上げる。
「フルネームまでは。あ、でも、医局長は岸さんをご存知なんですね。彼女の口利きで副艦長に許可をいただいたんです。いろいろ親切にしてくださって助かっています」
後から聞いた話では、事件が起こった当時勤務していたD班の者がマリアとジョゼをブリッジに保護したとのことだ。保安部にも女性職員はいるのだが、応援を要請されたらしい。そのうちの一人が岸だったのだ。
「…相変わらずお節介ね」
「え、僕ですか」
「いいえ。あなたも十分お節介だけど」
ふと、こんなところで時間をつぶしているわけにはいかないことを思い出した。詰め所の看護師に要請して、シャワー浴の準備をしてもらわなくてはいけなかったのだ。
「イ先生、せっかく梨花子が気をきかせてくれているんだから、あなたも休んだ方がいいわ。いつもより頭がぼさぼさよ」
いつものことだったがランバールは一方的に話を切り上げて、忙し気に立ち去ってしまった。
取り残されたイ医師は、マリアがいる個室の方向に一瞥すると、そのまま踵をかえした。今の自分は医師としては謹慎中で、副艦長の指示でかろうじてジョゼのそばにいられるだけのことだ。マリアに会いにいけるはずもなかった。
その後、ジョゼに与えられた個室に戻り、岸には通常業務に戻ってもらった。眠りが浅く何度も寝返りを打つジョゼの隣に簡易ベッドを広げ横になっていたが、すぐには眠れそうにもなかった。




