1‐2 岸梨花子のこと
ジョーイ・インが先の戦争の英雄だと教えてくれたのは誰だっただろう。あの戦争では不本意ながら梨花子も民間の後援部隊に所属していたから、一度はその名を耳にしていたかもしれない。彼がいたという部隊の補給に当たったこともある。だが、必要以上に軍に関与する気はなかったので、記憶が非常に曖昧なのだ。
当時の経営状況を考えれば、社長が軍属のつてを使って補給物資を輸送する仕事を得るしかなかったのは致し方なかったし、だからと言って会社を辞める選択肢はなかった。一度船を降りてしまえば、再び良い条件の船に乗るのは難しい。長期の船には乗らないと母とも約束していたからだ。戦争の片棒を担ぐのが嫌で任官しなかったのに、その後何年も経過してから軍属の末席に連なることになるとは夢にも思わなかった。仕事は仕事として従事していたが、梨花子個人としては生きる屍のような状態で時を費やしていた。
父を失うまでは。
父は軍人としては大成しなかった。さほど裕福でない家庭に育ち、寡黙で忍耐強い人柄から、卒業後の進路として教師から軍隊に入ることを勧められただけだった。恐らくは父も、一般社会の中での生き辛さを感じていたから、軍隊という世界に飛び込んだ。そこでは上官の命令には絶対服従だったから、父のような自らの意思を強く示すことのできない人間には、ある意味気楽に生きることができたのだ。だがそれは、末端の兵としては評価されても、自らの意思で舵を切る上官としては不適格だった。
兄はそんな父を嫌い、奨学金を受けて大学を卒業し、弁護士になった。梨花子がこの船に乗る前に会った時には、軍の施策に異を唱える政党から立候補する準備を始めていた。まるで父の仇を取るのだと、それが父への贖罪なのだと言わんばかりに。
実の兄だというのに、その時初めて笑い皺ができるのを知った。
「お前が士官学校に入ってくれた時、俺がどんなにお前に感謝したか、お前は全然知らないんだろうな」
兄の身勝手な言い分も、もはや怒りさえ沸かなかった。父の期待に沿えないで悩んでいたことも、妹が代わりに期待を背負ってくれたことに実は感謝していたことも、そんなこと、今まで一言だって口にしなかった。父が戦死し、母が後を追うように亡くなってから告白されたところで、梨花子が費やした時間は決して元に戻らない。
「本当に、あの船に乗るのか」
今更兄貴面をしてどうするつもりだったのだろう。
「俺の三年後輩で信頼できる男がいる。バツイチだが子供はいない。お前だってもう若くないんだ。それほど悪い条件じゃないと思うんだが」
兄に悪気のないことはわかっていた。だが、悪気がないから許されるのではない。兄は、死んだ父のみならず、自分の犠牲になっていたであろう妹にも贖罪を願っていた。ただ、贖罪というにはいささか自分に都合がいい。むしろ自己満足に過ぎないものだった。何故なら、彼には、死んだ父や目の前にいる妹の意思など尊重する気がないからだ。兄は、本当は、自分だけが父によって踏みにじられてきたと思っているに違いない。苦しんできたのは自分ただ一人だと。
そう言えば、義理の姉とはずっと別居状態だと母から聞いていた。何が原因なのか、その時理解できたような気がした。
「兄さん、お気遣いありがとう。でも、もう決めたの。お母さんをお墓に残していくのが心残りだけど、私の勝手はお母さんも諦めているわ。
どうか、兄さん、ご家族を大切に。元気でね」
『ご家族』と言ったのはささやかな逆襲だった。自身の家庭状況を妹が知るはずもないと思っている兄には決して何も言えないはずだった。案の定、曖昧に微笑んで小さく頷いただけだった。
これが唯一の肉親との永遠の別れの場面なのだとしたら、あまりにも寂しくお粗末だ。しかし、これが現実。自分も、兄も、ついに昔々に望んだ理想の家族を手に入れられなかった。
この船には希望を抱いて乗った者もいれば、梨花子のように失望だけを抱いて乗った者もいる。しかも世間は意外に狭いもので、その中には顔見知りも少なくなかった。好むと好まざるに関わらず、戦争という特需に伍していたのだから、当たり前と言えば当たり前の結果だった。全ての縁をかなぐり捨てて新天地へ旅立つつもりが、ちょっとした同窓会で始まったのも皮肉な話である。だが、彼らが希望を抱いているのか失望を抱いているのか、それを問うことだけはしなかった。勿論、妙な興味は沸いていたものの、自分も知られたくないことは相手も知られたくはないはずだと思いなおしていた。とは言え、軍の関係者には父の戦死は周知の事実のはずだから、梨花子が希望を抱いているとは、決して思われてはいまい。
ジョーイ・インはどちらなのだろう。軍に残れば安泰な余生が約束されていたはずだ。だが彼の年齢からして、余生と呼ぶにはあまりにも長すぎる。彼もまた何らかの失望を抱いていたのかもしれない。一旦、そんな考えが頭をよぎったが、梨花子の知る限り、あの男に暗い影などありはしない。それどころか、契約クルーの二次募集説明会で知り合った仲間同士で賭けをして、あろうことか勝手に梨花子をターゲットにして近づいてきたのだった。賭けの内容は「鉄の女を落とせるか否か」。
8歳も年下の若い男に言い寄られることが現実に起こるなどとは、梨花子の常識からはあり得ない事だった。最初は戸惑ったものの、その理由が賭けだとわかってからはすんなりと状況を受け止められるようになった。逆に、若い男たちの余興に付き合ってやっているという優越感があった。そう、余興は予想外に楽しかったのだ。若い男にちやほやされるだから悪い気もせず、梨花子がずっと封印してきた感情を心地よく揺さぶってくれた。さながら恋愛シュミレーションゲームのように。しかも、相手のビジュアルも悪くない。
だが、東洋の血を色濃く引く彼は年よりも若く幼く見え、その外見のアドバンテージを如何なく利用する術を心得ており、気が付くと懐に飛び込まれてしまい驚くことがある。例えば、今もそう。思わぬ不覚をとった。彼の心配顔が満更嘘ではなかったからでもある。ジョーイは心から梨花子を案じてくれていたし、梨花子もまたジョーイに感謝していた。そこに恋愛感情は存在しないが、梨花子にとっては十分心癒される出来事だった。
可愛がられる後輩、それは軍内で生き残る彼の武器だったのかもしれない。
「気分はどう、梨花子」
急に背後から話しかけられて、せき込むほど驚いた。この船の医局長であるランバール医師は、士官学校時代の同級生だった。とはいっても、当時はそれほど仲が良かったわけではなく、ただの顔見知り程度だった。補給船に乗っていた時に偶然再会し、学生時代にはなかったほど急速に仲良くなった。
「ちゃんとノックはしたわよ。そんなにびっくりするなんて、何考え込んでたのよ」
「なんでもないわ。まだ、本調子じゃないだけよ」
「まあ、そういうことにしておくわ。
ところで、あの王爺、あんたがいつまでも目を覚まさないから血相変えてたのよ。案外、あんたに本気になったとか、そんなこともあるんじゃないの」
ランバール医師はジョーイを『王爺』と呼んでいる。彼のルーツの言葉でいう「王子様」という意味らしい。どうやらそれは軍内での彼のあだ名の一つだったようだ。確かに、切れ長の目元涼しく、長身だがほっそりとしていて、まるで大昔の絵巻物の王子様と言われればその雰囲気は十分に備えている。彼はそのビジュアルと可愛がられる得意技から軍内外で非常に人気があったらしい。一時、その人気ぶりに広告塔として名を売っていたこともあるようだ。だが、ずっと補給船にいた梨花子にはそんな世間の噂は全くと言っていいほど入ってこなかった。勿論、彼女自身、いろんなことに心を閉ざしていた時期が長かったせいもある。
だから、ジョーイにとっては自分を知らない軍属の女性が存在することも一つのカルチャーショックだったようだ。事あるごとに、自分がどんなに引く手数多だったかをアピールするのだが、梨花子にとってはただの勘違いしたお調子者にしか見えなかった。女性受けする顔であることは認めざるを得なかったが、梨花子の個人的な嗜好からは大きく外れていた。
「彼にもあなたにも、心配かけて申し訳なかったと思うわ」
答える代わりに額に手を置いてきたランバール医師を振り払った。今日ぐらいはまじめに感謝の気持ちを示したかったというのに、この悪友はいつもどこかではぐらかしてしまう。それが彼女のスタイルなのだとわかってはいても、時には本気で接してほしいと寂しい気持ちになる。
「梨花子、王爺は悪い子ではないわ。若干思慮は足りないけれど、それは若いからよ。今は半分お遊び気分があるけれど、あなたのことを心配していたのは本当よ。あなたさえ心の壁を取り外せば、あの子の気持ちはたやすく傾くに違いないわ。若い男なんてそんなものよ。どうかしら、私はあなたたちってお似合いだと思うわ」
たまらず腹の底から低い声で笑ってしまった。最初に賭けのことを嗅ぎ付けたのは、他ならぬ彼女で、その時は「大人をからかうなんて許せない」と自分のことのように怒っていたはずだった。同じ人物がどういう心境の変化でそんなことを言い出すのか、彼女の都合のいい思考回路の仕組みを解明したいくらいだった。
「ちょっと、笑うところじゃないんだけど」
「笑うしかないでしょ。8歳も年下なのよ、彼がかわいそうよ」
「あら、あなたが勝っているのは年だけでしょ。経験値から言うとあっちの方が上よ」
そうかもしれない、その言葉は口にしなかった。
「私はあなたが心配よ。きっかけはどうあれ、王爺くらいあなたを振り回す子の方が、あなたには合っていると思うのよ。あなただって悪い気はしないんでしょう」
「フロレット、これは私の問題よ。口を出さないで」
いつものランバール医師の口癖を真似て、この話を打ち切りたいという意思表示をした。
彼女がお節介焼きで情に厚い性格だということを知ったのは、再会してからのことだ。学生時代の彼女は、類まれな知性を兼ね備えたクールビューティ。地方の特待生としては優秀だったものの、平均より下の階級と成績に甘んじていた学校カースト最下層の梨花子とは見えない壁で隔てられていた。その壁は彼女を外から見ている者が勝手に作り出す幻想でしかないというのに、彼女という人間を歪めて伝えるバイアスとして常に彼女を苦しめ続けてきたのだ。
友人は失望の色を隠さなかったが、それ以上この話題を続けることは諦めた。
「それより、本当のことを教えてちょうだい。私がなかなか目覚めなかったのは偶然ではないのでしょう」
「相変わらず勘がいいのね。そうよ、偶然じゃないわ」
「…ディアスは、どこにいるの」
まるでその質問がくることを恐れていたかのように、大きく息をひとつつくと、意をけっしたかのように顔を上げた。
「彼は、死んだの。殺されていたわ」