4 フロレット・ランバールのこと
あの時、夫は笑顔で賛成してくれた。だが、本当に心からの賛成だったのだろうか。もしかしたら、反対できないように自分が追い詰めたのではなかったのか。
「聞いていらっしゃいますか?」
すぐそばで居住層の看護師長が睨んでいた。非番にわざわざ会いたいというから何の話かと思えば、居住層担当の医師が休みも取らず働いているので何とかしてほしいと、半分愚痴のような内容だったので、ついうっかり別の考え事をしてしまったのだった。
「聞いているわ、ちゃんと。グエン師長」
別のことといっても、師長の話題から大きくかけ離れていたわけではない。その渦中の人物こそ、ランバールの記憶を揺さぶる人そのものだったからである。
「一度ちゃんと医局長からご指導ください。私どもの言うことなどまるで聞き入れてもらえないのです」
その若い医師は小児科医で、将来を嘱望されていた男だった。地球にある軍立病院周産期医療センターの勤務医だったのだが、その腕を見込まれて世界中を飛び回っていた。恐らく、軍の支給よりも好条件で引き抜きの話がいくらでもあったはずだが、彼は決して軍籍を捨てなかった。この船に乗るまで。
子供の嬌声。無垢で無防備な幸せに満ちた声だ。開放された医務室の扉から、一目散に飛び出してきた子供がランバールにまともにぶつかってきた。その弾みでしりもちをつくところをすんでのところで受け止めた。
「あらあら、大丈夫?」
見知らぬ女性に抱き上げられた子供は、ばつの悪さと居心地の悪さにむずがって体をよじった。自分にも子供がいたはずなのに、落とすのが怖くなって慌てて地に下していた。
「申し訳ありません、大丈夫でしたか?」
子供と入れ替わりに現れたのは、まるで学生のようなジャージ姿の若い男性だった。野暮ったいセルフレームの眼鏡をかけているが、これにはまったく度が入っていない。対人恐怖の気があって、お守りのようにかけているのだった。
「なんだ、お義姉さんじゃない。どうしたの、こんなところに」
「勤務中は医局長と呼んでください、リー先生」
「イです、医局長」
李傑勲、ランバールの夫の末の弟にあたる。つまり義理の弟だった。ただし、夫は「リー」、義弟は「イ」を名乗っている。ランバールからすれば同じ文字に読み方が二通りもあること自体ややこしいので、できればどちらかにしてほしいのだが、アイデンティティをお互いに主張しあっており譲らないのだった。夫も義弟もとても温厚な人物だが、この点に関してはとても強情だ。
「イ先生、お話があります。少しよろしいですか?」
その時、わーっという声がして、義弟の真後ろに子供が群がった。その中の一人が膝の真裏に衝撃を与えたため、バランスを崩して倒れてきた。ランバールが受け止めなければ、まともに膝から落ちていた。
「わー、先生が女の人に抱き着いた」
「やらしー」
子供たちは何がそんなに楽しいのか、口々に叫びあっていた。
「こら、お前たち」
ランバールの肩に顔をぶつけたために歪んだ眼鏡を正し、体を起こすやいなや子供顔負けの嬌声を発していたずらした子供たちを追いかけ始めた。
これでは話になりそうになかった。
義弟は今年30になるかならないかの年頃だが、年相応に見られたことはない。軍の病院にいるときも研修医に研修医と間違われたことや、看護師に患者と間違われたことなど逸話に事欠かない。兄である夫と基本的な顔の造りは同じなので、それなりの身なりをすればそれなりに見えるに違いないと思うのだが、根本的な何かが決定的に違っていた。
根本的な何かが決定的に違うということを夫も言っていたことがある。だが、それはランバールの言う意味とは全く別物であり、人々の羨望と称賛を浴びれば浴びるほど自身を孤独の淵に追いやってしまうのだと言っていた。いまだにその意味は分からない。
見かねた看護師が子供たちを医務室から一掃する作業に加わった。元々、彼らには与えられた集い場がある。李医師を慕って用事もないのに集まってきているに過ぎないのだった。
「応接室へどうぞ」
「聞くまでもないけど、いつもこの調子なの?」
「ええ。数が多すぎて、支援員だけでは子供たちのパワーを抑えることができません」
「師長が怒っているのは、このけじめのなさね」
看護師は答えなかった。
義弟が応接室に現れるまでに結構な時間を費やした。以前から時間にルーズなところがあり、兄からも再三注意を受けていたが、今となっては誰も何も言わないのでやりたい放題になっているのであろう。怒る気すら失せてしまって、ランバールはいつの間にかうたた寝をしていた。
気が付くと、胸元に白衣がかけられていた。目の前の椅子にはそっくり返っていびきをかいている李医師の姿があった。一気に目が覚めて、どの位眠っていたのか不安になって時計を見たが、わずか一時間弱程度のことだった。それでも、呑気に大口を開けて寝ている姿をみると腹立たしく、乱暴に肩をゆすった。
「傑勲、いい加減にしなさい」
「ああ、お義姉さん、おはよう」
「おはようじゃないわ。どうして起こしてくれないの?」
夫と同じ顔をした男は、顔中を笑い皺でくしゃくしゃにする。きっと夫も同じ顔で笑えるのだろうが、ランバールは一度たりともそんな笑顔を見たことがない。
「だって、よく寝てたから。疲れてるんだよ、お義姉さんは」
「相変わらず、調子の狂う子ね。私がなぜここに来たのか、わかっているの?」
「僕に会いに来てくれた…訳じゃなさそう、だね」
逆立った柳眉を見て、冗談が通じない雰囲気だと察したのだろう。言葉尻はだんだん声が小さくなっていった。
「あなたがシフトを守らないせいで、看護師が迷惑しているのよ。聞けば、目立った急患があるわけでもなく、あなたが医務室に来るせいで、ここを子供たちのたまり場にしているって聞いたわよ。さっきも見たから、あながち嘘じゃないようね」
「…休んでいてもやることないし」
「体をきちんと休めて有事に備えるのも医者の務めでしょう?」
「ここ、戦場じゃないし」
「あなたは昔からけじめがなさすぎます。私たち医者はチームで動いているのよ。足並みを乱すなとずっと言われ続けてきたでしょう」
「…はい」
義弟は一旦「はい」と言う。しかし、その「はい」を実行したことはない。ただ相手の怒りをかわす手段として口にしているに過ぎない。今もそうだった。神妙な顔をしていても、腹の中では別なことを思っている。
「何か言いたいことは」
「あります。この居住層にいるのは年齢、出身地の様々な戦災孤児ばかりです。僕みたいに集団の中で居場所を作れない子供もたくさんいます。僕はただ、そういう子供たちの息抜きの場を提供したかっただけで、看護師の皆さんに負担をかけているとは夢にも思っていませんでした」
「そう、夢にも」
「いや、ちょっとは…」
「ちょっとなの」
「いや、その…。だいぶ思ってましたけど…」
「思っていましたけど、なに」
その能力は評価されていたが、ことプレゼンテーションにおいての才能は皆無だ。だからこそ彼の実力が圧倒的である証拠でもあった。
傑勲は意を決したように顔を上げた。
「医は仁術なんです」
プレゼン能力は皆無でも、兄嫁を黙らせる方法は習得していたようだ。兄と同じ顔、同じ声で兄の口癖を出せば、たちまち黙ってしまうに違いないと知っているのだ。
いまいましかった。だから、その顔面めがけて手のひらを落とした。黒縁眼鏡が外れて飛んでいった。
「似てないから」
すぐには返事のできない李医師に畳みかけるように言い捨てた。
「これは警告よ。改善されないなら、医局長の権限であなたを謹慎処分にもできることを覚えておくのね。いいですか、イ先生」
夫とは戦場で巡り合った。新任のランバールが赴任した先の野戦病院にいた、国境なき医師団の一人だった。ランバールより少し年上の若い医師は、優雅な物腰とエキゾチックな顔立ちの紳士。一目で惹かれ、業務の中で彼を知るごとにどんどん惹かれていった。だが、使命と仕事に邁進していた彼の心に触れることは容易ではなかった。人より優れていると思っていたその美貌も、彼の瞳の中ではなかなかその輝きを発揮することができなかった。
きっかけは何だったのだろう。爆風に飛ばされて運ばれてきた母親の処置にあたっていた時だった。母親が守った幼子の、母を呼ぶ泣き声が今も耳にこだまする。特に大きな外傷がないと見られていたが、開胸した途端体内から大量の血が溢れてきた。その勢いに圧倒されて、そのまま立ち尽くしてしまった。
「どいてくれ」
押しのけられた拍子にバランスを崩して座り込むと、足に力が入らない。踏ん張っても踏ん張っても思うように立ち上がれなかった。
「大動脈が破裂するかもしれない…」
急に幼子の泣き声が耳に迫ってきた。大動脈破裂の意味がわかっていたわけではあるまい。それは自分の罪悪感が聞かせた声だったのだろう。だがその時には、母を見殺しにする無能な医師を断罪する声に他ならなかった。はじかれたように立ち上がったランバールは、自分を押しのけた医師を押しのけようとした。
「もうよせ、今この状況では助けられない」
「大丈夫よ、まだ破裂していない」
「いったい何人運ばれてきたと思っているんだ。今は助かる可能性のある患者を優先する。君は向こうの軽傷者にあたれ」
男性医師の指示した方には、今回の爆破を引き起こした犯人グループと見られる若者の姿もあった。
「無辜の女性よりゲリラの治療を優先するんですか」
「トリアージは断罪ではない。助かる命を助けるために行う」
反駁しようとしたランバールを遮るように、血圧、脈拍がデッドラインまで落ちた警告音が鳴り響いた。
「僕らは神ではない。医者なんだ。そうだろう、ランバール先生」
その時ようやく相手の医師の顔をはっきりと見た。それが李医師、のちに夫となった男性だった。
ランバールは当時のことを夫に聞いたことがある。卒業したばかりの新任の研修医のことなど眼中にないと思っていたと言ったところ、意外な答えが返ってきた。
「研修医の中で飛びぬけて綺麗だったから、嫌でも名前を覚えたよ」
そんな話は一度も聞いたことがないと抗議すると、格好いい先輩医師を気取りたかっただけだよと子供のように笑った。
「僕を見る君のキラキラした尊敬の眼差しはすごくプレッシャーだったよ。全然気が抜けなくて。君の期待に応えるために、一生懸命頑張った」
「信じられないわ。だって、あなたは雲の上の人だったもの」
「僕にとっては、君こそ雲の上の人だった。軍のお偉いさんのお嬢様で、どこからどう見ても隙のない淑女。どうして君が僕の奥さんになったのか不思議なくらいだよ」