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あの時  作者: りんしぃ
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3‐6 賭けの代償

 昼間帯の会議時間に合わせるために仮眠を取ったとはいえ、体のだるさがなかなかぬけなかった。それはカーディフも同じだったようで、横であくびを噛み殺していた。

「ボス、今日はこのままシフトに戻ればいいのかしら」

「いや、しばらくはアイシャのヘルプでA班シフトに出してほしいと言われている。一般乗務員が冷凍睡眠から覚めてきているから、順次補充はもらえるから気にしなくていい」

 40代半ばに見えるカーディフは星間輸送船に乗っていた機関士だ。長期の輸送船にいたので、戸籍上の年齢は見た目の年齢よりはるかに上のはず。科学技術の進歩が生んだ現代の仙人は、人間の生活を捨てて宇宙で一生を過ごす者が多い。彼がこの船に乗った理由を敢えて聞こうとは思わなかったが、彼が仙人を辞めたくなったことは確かだ。

 先ほどから何か言いたそうにしているのでどうでもいい話をしてみたのだが、やがて決心がついたのか急に体ごとこちらに向けたかと思うと、深々と頭を下げた。

「すまなかった、岸」

 それが例の賭けのことだとわかっていたが、どう返事をするべきか少し悩んでしまった。怒りはまだあるが、カーディフをその対象とする実感がなかったからだ。結局、賭けのメンバーが誰だったのかはいまだに正確には知らないのだ。

「もう、終わったことよ。頭をあげてちょうだい」

「いや、君が異動になったときにきちんと謝罪するべきだと思っていた。今までその決心がつかないまま過ごしてしまい、恥ずかしく思っている。今日、インが皆の前できちんと自分のしでかしたことを説明したのを見て、このまま知らぬ顔をできないと思った」

 会議の席でインがマクニールに説明した姿はある種「立派」だった。きちんと自分の罪を認め、岸を気遣いながら事実を淡々と述べた様子は潔いと言ってもよいと、当事者の岸も思ったくらいだ。

「正直、君のことをよく知らないで鼻持ちならない女性だと思い込んでいたんだ。ディアスの言うことを鵜呑みにして」

「事実、鼻持ちならない女だったでしょう」

 そこは笑う所として振った話だったのに、血相を変えてかぶりを振る。

「君は美人だから誤解されやすいだけだ。賢くて情に厚い人だと今はわかっている」

 そんなに持ち上げられると返答に困ってしまう。しかし、カーディフは頗る真剣に話を続けた。

「みんな、君のことを誤解していたし、ディアスの誘導もあって、面白おかしく書いてしまったんだ。君の人格や君自身を貶める発言を繰り返し書き込んで面白がっていたことを恥ずかしく思っている。許してもらえると思っていないが、謝罪させてほしい。本当に申し訳なかった」

「カーディフ、頭を上げてちょうだい。私、メンバーが書き込んでいる内容はまったく知らないのよ。誰がメンバーかも知らないし」

 頭をあげたカーディフはにわかには信じられないというような顔をした。

「本当よ。どうせディアスが焚き付けたんだろうし、有益なことを書いているとは思っていないけれど、もう知る必要もないと思って見ていないのよ」

「見ない方がいいのかもしれない…。だが、君はもっと怒っていい。本当にひどい書き込みばかりだったんだ」

「男慣れしていない年増女が、若い男に言い寄られていい気になっているとか」

「…いや、もっと低俗で、その、今とても口にできるような内容じゃない」

「私、知らない方がいいみたいね」

 彼がすべての首謀者ではないのに、がっくりと頭をたれ、ひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。もはや何を言っても彼の罪悪感は拭えないのかもしれない。

「ボス、慰めにならないかもしれないけれど、今回のことはこれでよかったと思っているのよ。人生って何があるかわからないわね。

 ねえ、もう忘れましょう。私は忘れるわ」

 その言葉に何事か答えようとした瞬間、カーディフの表情が変わった。骨伝道のインカムに呼び出しが入ったのだ。

「了解。すぐに伝えます。

 岸、アイシャが作業スケジュールを相談したいそうだ。ブリッジに行ってくれ」

「了解。

 ボス、謝罪してくれてありがとう。あなたの気持ち、とても嬉しかったわ。シフトに戻ったとき、またよろしくお願いします」

 岸が立ち上がるのを待って、カーディフも席を立った。小柄な彼は目線がそれほど変わらない。二人がそうして別々の場所に移動しようとした時だった。息せき切ったインが談話室に飛び込んできた。

「…よかった。まだ、ここにいた」

 カーディフが不安そうに眉を顰めるのが横目に伺われた。

「梨花子、話がしたいんだ。少しだけ時間がほしい」

 本心を言うと岸もインに聞きたいことがあった。あの場でマクニールはとても不機嫌だった。勿論、自分だけが何も知らなかったということもあるだろう。しかし、彼はああ見えてとても正義感が強い。ディアスの賭けに乗っていたインのことも快く思わなかったはずだ。

 それでも、カーディフの手前、簡単に申し出に応じるのはためらわれた。

「これからアイシャと打ち合わせがあるの。悪いけど、今は無理」

 どうか空気を読んで引き下がってほしいと目で訴えたが、今日に限ってまるで賭けをしていた頃のように強引だった。

「じゃあ、その後で。ちょっとだけでいいんだ」

「おい、イン。もう賭けは終わっているんだ。岸に付きまとう必要はないだろう」

 見かねたカーディフが割って入ってきて初めて、その存在に気づいたかのような顔をしていた。しかも、彼の顔を認識していなかったのだろう。誰だとばかりに岸に視線を送っていたのだが、ややあってようやくD班の班長だと思い出したようだった。

「ああ、あんたか。実は、ちょっと込み入った話になっていて…」

 いったい何をどう説明するつもりだったのかわからないが、嫌な予感しかしなかった岸はとにかく言葉を遮った。

「わかったわ、ジョーイ。打ち合わせが終わったら持ち場に行くわ。仕事中よね、早く戻りなさい」

 結果として岸の時間を得ることに成功したのでインとしては文句はない。だが慌ててそんな妥協案を提示してきたのは、賭けの後のことをカーディフに知られたくないからだと気がついてしまった。「早く行って」と必死な目で訴えられると、困らせてやりたい思いが抑えられなくなった。

「じゃあ、約束。破ったら許さないよ」

 言うが早いかその手をとって、大仰な音をたてて指にキスをする。岸が手を引こうとした時にはすでに踵を返していた。

 横で呆然としているカーディフにどういう言い訳をしたものかわからなかった。

「…あいつ、全然反省していない」

 そうなのだ、そこは否定できない。ただ、それも含めたすべてを岸自身が許してしまっていると、どうカーディフに説明すればよいのかわからなかった。

 一方で、アイシャとの打ち合わせは実にすんなりと終わった。少し作業について説明があったものの、無駄を嫌うアイシャは要件が終わるとさっさと帰ってくれという雰囲気を醸し出した。長居はできそうになかった。

 すごすごと出ていこうとする岸を、思い出したように呼び止める。

「そうだ、岸さん。もうインとは話をしたの」

「インが何か言ったの」

 アイシャは嘘がつけない。自分が失言したことに気が付いて、ばつが悪そうに眼を伏せる。

「いえ、岸さんにヘルプをお願いしたらと副艦長に言われたの。私のヘルプをする時間はインの勤務時間と同じでしょう」

 副艦長ということは、サンダースに違いない。急にアイシャのヘルプと言われたので、妙だと思っていたのだ。

「副艦長を責めないで。私もあなたとインは話し合う必要があると思っているの」

「ありがとう、アイシャ。私、いろいろな人に心配をかけているのね」

 まだ何か言いたそうにしていたが、岸にはそれを聞く気がなかった。意外と早く終わってしまった打ち合わせの言い訳をどうしようかと考えながら、第二ブリッジへと歩を進める。

 第二ブリッジではこれまでの座標の修正記録を調べている航海士たちがいた。その中の一人にインがいる。しばらく作業の様子を見ていた岸の存在に気が付いた者が、インの注意を促す。インは何事か指示したあと、こちらに向かって歩いてきた。

「忙しそうね」

「君のおかげでね。でも、しばらくは君に会えるからいい。聞いたよ、アイシャのヘルプをするんだろ」

「話ってなに」

 インは苦笑いした。質問に質問で返すのはいつもの彼の常套手段だからだ。

「夕食を一緒に食べないか。その、嫌じゃなければ」

 さっき、カーディフがいたときは別人のようにしおらしくなっている。一体どれが彼の本当の顔なのか、彼自身にもわからないのかもしれない。

「いいわ、何時」

 まるで飼い主に呼ばれた犬のようだった。「19時。迎えに行く」

「時間に食堂に行くわ」

「いいよ、待たせると悪いから。それにちょっと疲れた顔をしている。仮眠した方がいい」

 心配されると居心地が悪い。つい憎まれ口が出てしまう。

「寝ないと皺が目立つかしら」

「皺なんかない。君はきれいだよ」

 ドクンと一つ大きな鼓動。岸は慌てて目を逸らしていた。久しぶりで忘れていたが、この男はいけしゃあしゃあとこういうセリフを吐く癖がある。心にもないとわかってはいてもどうしても慣れることができなかった。

 インはインで、安心すると同時に満足していた。いつもの調子の軽口に、いつものように岸がはにかんでくれたからだ。だからつい嬉しくなって彼女に手を伸ばしかけたが、とっさに思いとどまっていた。以前、もう嫌がることはしないと約束したことに今更ながら縛られているのだ。さっきカーディフがいたことで強気にでてしまったが、実はひどく後悔していた。岸が怒っているのではないかと案じていたのだ。

「ねえ…、ちょっとだけ触れてもいいかな」

 梨花子は驚いて男を見上げた。さっきは人前で平気で指にキスしたくせに、今は叱られた飼い犬のようになっている。おかしかった。少しかわいそうになった。そして、そう感じている自分自身に驚いていた。しばらく会わないでいる間、少しずつ心が変わってきている。

 インの背後にはブリッジのクルーがいる。だが、誰もこちらの様子をうかがってはいない。だから、答える代わりに頭上にある首に手をかけた。そこから精一杯背伸びをしても、その唇に触れたか触れないかわからないくらいのかすかな感覚だった。

 次の瞬間、驚くほど強い力で腰を引き寄せられていた。そのままバランスを崩して倒れそうになり、思わずインの肩にすがる。頬に触れる指、鼻先と鼻先が掠めあう。生暖かい唇の感触に驚いて身を引こうとしても、首の後ろに添えられた大きな手に押し戻されて逃れられない。むせかえるような強い匂いに目まいを覚えて、そのまま目を閉じていた。

 長いキスの後、ほっと息をつくと、すぐまた男の唇が求めてきた。しかし、今度は顔を背けることができていた。

「いや」

 思わず口をついて出た、いやという言葉の威力は大きかった。一瞬で凍り付いたインは、どうしていいのかわからなかったのだろう。哀れを誘う小動物のようなまなざしで、オウム返しに「いや」と問い返してきた。耐えきれず、梨花子はただ目を伏せた。

「…ジョーイ、放して。お願いよ」

 これは自らが招いた事態であって、理不尽なことを言っているのはわかっている。以前強引に迫られた時は、膝が震えるほど男のことが恐ろしかった。だが、今梨花子が恐れをなしたのは、むしろこのキスに酔ってしまった自分自身に対してだった。

 インは眉根を寄せて目を閉じ、一度大きく息をつく。そして未練がましく一度強く抱きしめて、こめかみあたりに口づけをする。殊更大きな音を立てて吸い、それからゆっくりと解放した。だが、握りしめた梨花子の左手だけは放さなかった。

「…いいよ、わかってる。約束だから我慢する。君の心がとけるまで待つよ」

「…ごめんなさい」

 謝られると余計に惨めな気分になった。だから話題を転じた。

「ねえ、夕食の約束はまだ有効」

 表面上伺いを立ててはいるが、そこは譲らないという断固とした意思がこもっていた。

「うん、19時でしょう」

 顔色は変わっていないが、怒っているのは梨花子にもわかっていた。左手を握る手の力がやや強い。あいている右手で指を一本一本はずそうとするが、男の力は強くて、なかなか思うようにいかなかった。

「部屋に行くから待ってて」

「心配しなくてもちゃんと行くわ」

 インの指を自力で外せない梨花子は、焦れたように左手を振った。

「すっぽかしたりしないわよ。そうだ、ちゃんとアイシャも誘っておくから」

「アイシャ」

 思ってもみなかった言葉に驚いて、つい手を放していた。「いや別にアイシャは…」

「え、おい、梨花子」

 隙をついて身を翻した梨花子の、してやったりとほほ笑む残像。その気になれば引き留めることもできたがここで縋れば嫌がられるだけだ。そっと胸のなかに笑顔を閉じ込めて、19時まで耐えることにした。

 こうしてまんまと逃れることに成功した梨花子は、後ろ手を振って急ぎ足でその場を離れていた。そうしなければ心臓が破裂しそうな高鳴りに、こと切れてしまいそうだったからだ。

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