3‐4 賭けの代償
その後、夜間帯担当のサンダースに連絡を取った。最初驚いたものの、被害の状況が今すぐどうこうという深刻さではないことをすぐに悟り、昼間帯のアイシャが勤務に就くまで待ってほしいと言ってきた。そして、カーディフと岸に、昼間帯のメンバーを交えて緊急会議に参加できるよう勤務調整を取るよう指示した。
二人が踵を返したとき、岸だけが呼び止められた。
「彼と顔を合わせるのは久しぶりなんじゃないかしら」
またそのこと。相手がサンダースであるにも関わらず、不躾な溜息がついて出た。
「からかわれるのには慣れているでしょう。でもね、見ている側からすればとてももどかしいのよ。もういいじゃない、お互い好きなんだから」
「そう見えるように振る舞ってきたからです、お互いに。だから、私も、多分彼も、どれが本当の気持ちなのかわからなくなってしまっています」
「真面目なのね、梨花子。それがあなたのいいところだと思うけれど、男女の仲なんてなるようにしかならないんだから、そんな一大決心はいらないと思うわ」
宇宙軍の中でもエリート中のエリートだったサンダースの言葉とは到底思えない発言だった。そんな心の中を見透かしたように、蠱惑的な微笑みを浮かべる。
「私がこんなことを言うなんて意外」
サンダースが少佐にまで登り詰めたのには、別の階段があったからだと陰口をたたく者もいる。確かに彼女の美貌は、およそ軍務ににつかわしくない。
「彼は私と似ているわ。外見からいつも不当な評価を受けてきた。危険な前線を志願したのも、外見へのコンプレックスからよ。ただ、自分で考えていたよりも能力の開花が著しかった。恐ろしく向いていたのよ」
何がと問う前にサンダースが答えていた。「人殺しに」
「チャーリーが言っていたわ。彼は戦争という時代が生んだ怪物だと。だから戦後の軍にはもう必要のない存在だって。
よく言うわよね、その怪物を祭り上げたのは誰だったのかしら。だいたい、怪物って失礼よね。私たちだって人間だわ」
いつの間にかサンダース自身の話と被っているようだった。彼女もまた、闇を抱えてこの船に乗っている一人なのだ。
「そういえば、野戦病院で、彼が死んだら泣いてあげると約束したのでしょう」
ディアスの葬儀の前にインがそんなことを言っていたのをおぼろげに思い出していた。しかし、なぜその話をサンダースが知っているのか不思議だったが、例の賭けのことについてインは取り調べを受けている。その時に話したのだろうとすぐに察しがついた。あの時も驚くほど興奮していたが、わざわざサンダースにまで話すほどだったとは。
「そのことですが、私には本当に記憶にないんです。彼は私だと信じているみたいですが、どこにでもいるような顔なので人違いしているんだと思います」
サンダースは軽く微笑んでそれを受け流した。記憶が事実かどうかは問題ではないようだった。
「彼は撃たれて病院にいたの。傷は大したことなかったんだけど、撃たれた相手が悪くて、もう再起不能だと思われていたわ」
「再起不能…」
そんな話はついぞ聞いたことがなかったし、今の本人の様子からもまったく想像がつかない。だが、彼もまたこの船に乗る一人。何かの事情を抱えていても不思議ではない。ただその事実から目を背けていただけだったことを、改めて思っていた。それは岸の願望だったのかもしれない。
彼のいないところで、彼の知られたくない過去の話を聞いてもいいのだろうかと迷いながら、どうしても知りたい思いをとどめられなかった。
「彼を撃ったのは、いったいどんな相手だったのですか」
おずおずと尋ねる岸に、サンダースのまなざしは優しい。
「少女兵よ。普段の彼なら撃たれる相手ではなかった。迷ったのね」
終戦前には非戦闘員も駆り出されていたと話には聞いていた。少年兵の存在は知っていたが、少女までいたとは。
いや、問題はそこではない。インを撃った少女兵は一体どうなってしまったのか。
「その子は…」
「ご想像の通りよ」
乾いた唇を舐め、大きく息を吸い込んだ。そうして絶句した岸の肘に、漆黒の手が軽く触れた。「あなたは、少し優しすぎるようね」
震える息を吐き、絞り出すように言葉を乗せる。
「…私の心は軟弱すぎます。だから、任官しませんでした。有事を目の前にして、怖くなったんです」
「軟弱だとは思わないわ。だって、あなたも民間補給船に乗って戦場にいたのでしょう。爆撃を受けたこともあると聞いたわ」
サンダースの言葉は妙にきっぱりとしていた。まるで任官しなかった本当の理由を知っているかのように。
「罪滅ぼしです。私が裏切った人たちへの」
「…あなたは、本当にその人たちを裏切ったのかしら」
その問いに岸が答えることはなかった。確かなことは岸が裏切ったという人々の中に、ディアスも含まれていたことだ。だから彼女は自らディアスの監視を申し出た。
サンダースはなぜか非難を受けているかのように目を伏せた。
「あなたのきれいごとには、私の心も騒めくわ。ちょっと、意地悪してみたくなる。殷亮は、あなたのそういうところに苛立ちながら、強く惹かれるのね」
言葉とは裏腹に穏やかな表情をしているその真意を測りかねて、頭半分くらい背の高いサンダースの目を覗き込んだ。サンダースは岸の髪にそっと手を伸ばす。
「少女は黒い髪で黒い瞳だったそうよ。もっとも、夜だったからそう見えただけかもしれないわね」
無意識に岸も自分の髪に触れていた。思い返してみれば、この髪は染めているのかとインに聞かれたことがある。なぜそんなことを聞くのか不思議でならなかったが、今の話で合点がいった。
「私はその子の身代わりなんですね。彼が本当に贖罪を乞う相手はもうこの世にいない。でも、黒髪で黒い瞳の女なんてたくさんいます。私である必要はありません」
「あなたもそう思うでしょ」
唐突にサンダースは笑い出した。微笑ではなく、声を上げて笑ったのだ。
「そうよ、理由なんて本当はどうでもいいのよ。理由はなくても、あなたである必要があるのに、彼らはそこに理由が欲しいだけなのよ」
笑われている理由も、彼女の言葉の意味もわからなかった。なぜ「彼ら」なのかも。
「今の言葉、チャーリーにも聞かせたいわ」
先ほどから彼女の話に出てきている「チャーリー」が、副艦長のチャールズ・オーエンのことだと、この時になってやっと気が付いた。あの仏頂面に、この美女が「チャーリー」と呼びかけている絵面を想像すると、なんだか笑いが込み上げてきた。
二人の女はまったく違う理由で笑いあっていた。
すっかり打ち解けた様子の副艦長サンダースと岸の様子は、急遽招集された者たちを面食らわせてしまった。一体何のために呼び出されたのか訝る面子をよそに、一人だけ重々しい表情のオーエンが着席を促した。
「サンダース副艦長、本題を」
重いドレッドヘアを掻き上げて、立ち上がる仕草ひとつにも様になる。彼女を年より若く見せるその大きな両の目は、ぐるっと一同を見渡してから正面にいるインに据えられた。
「ずっと不明だった例の不謹慎な賭けの目的が判明したのでご報告を」
見つめられたインの耳の奥で、何かが大きく波打った。それは恐ろしいほど大きな音を立てたが、聞こえていたのは自分だけのようだ。隣のマクニールはまったくお構いなく、サンダースの言う「不謹慎な賭け」とは何だと小声で尋ねてきた。答える暇なく、指名されたアイシャが反対隣りの席で立ちあがったので、このことはうやむやになってしまった。
「ウィルスとしては至極単純なものです。感染してもすぐに活動を始めず、駆除の対象にはならなかったのですが、チャットルーム閉鎖が引き金になって活動を開始したようです」
アイシャの抑揚のない声が淡々と事実を述べている。賭けの参加者のタブレットにウィルスを感染させるため、チャットルームを開いていたこと、参加者も各班に満遍なく存在していること、ウィルスの機能がマザーからの指示書の改竄のみであること。何もかも頭に残らなかった。インにとっては、このあと訪れるであろう弾劾の時間のカウントダウンにしか過ぎなかった。
ふと顔をあげると、正面のサンダースの横にいる岸梨花子がこちらを見ていた。なぜか久しぶりに会う彼女の様子が少し違って見えた。それが気のせいではない証拠に、目が合うと、ぎこちなく、だが確かに微笑んでみせたのだ。
心の片隅で「なぜ」の疑問が頭をもたげていたが、すぐにどこかに追いやられてしまっていた。自覚している以上に有頂天になっていて、それまで感じていた肩身の狭さも嘘のように消えていた。
気が付くと、マクニールが横目で睨んでいる。「ニヤニヤするなよ、みっともない」
「元からこういう顔なんです」
マクニールは不満そうに鼻を鳴らした。
反対側ではサンダースが笑いを噛み殺すのに苦心していた。
「言ったとおりでしょ。可愛いものね」
「…居心地が悪いんですが、こういうの」
「いいのよ。彼にはこれから辛い目にあってもらわなければならないので、最初にご褒美をあげなくてはね」
一通り説明を終えたアイシャのアイコンタクトに気づいたサンダースは、奥の席の艦長を振り向いた。
「ラウル・ディアスは、例の賭けを隠れ蓑にし、作業指示書を改竄するウィルスを拡散していました。そのウィルスの起動フラグがチャットルームの閉鎖です。
ただ、いくら手動で座標を狂わせても自動修正されてしまいます。誤差の範囲内で終わってしまうのです。この程度のことを大掛かりに行った意図が読めません」
「だが、これが見過ごされていれば誤差の範囲を超えることにもなりかねなかったはずだ」
オーエンの意見には皆も頷いた。
「よく知らせてくれた、岸」
ねぎらいの言葉に小さく会釈を返す岸から、反対側の席にいるインに視線を転じた。次は自分の番だとわかっていたのだろう、インは心もち背筋を正した。
「賭けの参加者は各班に満遍なく散っていた。この人選について知っていることはないのか、殷亮」
「副艦長の聴取でもお答えした通りです。私がメンバーとして認識していたのはB班のベルクとリツクだけです。ディアスがどこでどういう風に他のメンバーを集めていたのか、詮索すること自体がリスクでした」
物問いたげなマクニールの視線を感じながら、極力そちらは見ないように艦長だけに集中した。艦長はインの答えに頷くと、今度はD班のカーディフに目を向ける。この時初めて、カーディフが賭けに参加していたことを知った。
「私も聴取でお答えした通りです。ただ、ディアスからインとは個人的に接触するなとは言われていました。匿名を保持することで、賭けの公平性を保つためだとそう言われていました」
こらえきれなくなったマクニールが発言の許可を求めて挙手した。岸の異動に伴って班長に昇格したマクニールだけがこれまでのいきさつを知らないのだが、他の者はそんなことに一切気が付いていなかったのだ。
「どうした、マクニール」
「先ほどから、『例の不謹慎な賭け』を前提として話が進められていますが、自分は岸の後任で昇格したため、まったくいきさつを聞かされていません。ディアスには何事か不穏な動きがあったのですか」
発言を受けて、水をうったようにしんと静まり返ってしまった。以前、この賭けが発覚した時の気まずい雰囲気を再び蒸し返してしまうことになるのではないかと皆が思ったからだ。