1 岸梨花子のこと
SF小説が大好きだった中学時代に、見よう見まねで作ったお話です。当時のオリジナルはすでにどこにあるかわからくなってしまいましたが、メインの登場人物や大筋は覚えているものですね。あの時より大人になったので、当時とは思ってもみなかった展開になってしまいました。
PCに残っていたものを修正加筆しながら、少しずつ公開していきます。かなり切り貼りしているので、齟齬があれば教えてください。
あの時、父は何も言わなかった。なぜ任官しなかったのか、それすら聞こうとしなかった。父を失望させたと思っていたが、もしかしたら、そうではなかったかもしれない。
「梨花子…」
「ごめんなさい…」
差し伸べられた手の違和感に驚いて、急速に意識が戻った。こちらを覗き込んでいた人物が父ではないとわかったが、すぐにはこの状況を把握することができなかった。
「何を、謝ってくれるの」
父とは似ても似つかない若い男は、驚愕を押し隠すように曖昧に笑うと、温かい親指で優しく梨花子の目元を撫でた。液体のぬるっとした感覚によって、梨花子は自分が涙を流していたことを知ったのだった。そしてゆっくりと、相手が誰なのかを思い出していた。
「触らないで」
同じように右目を拭おうとしていた手を払いのけようとしたが、結局わずかに顔を背けただけに終わった。うめき声とともに腹の底から大きく息を吐き出すと、次第に自分の体に魂が戻っていくのを感じる。指先から腕、両の足先、頭の後ろがずきずきと痛むことすら生きている感覚を蘇らせてくれる。体の動きに合わせて人工的な力が加わり、ゆっくりと上半身が起こされていく。目の前には今ある現実であろう風景がぼんやりと広がる。遅れてやってきた重力が、背骨を苛み、染み渡るような苦痛をもたらし始める。何度も訓練を受けて体験したはずなのに、結局この苦痛に耐えられなかった。
不意に、胸元に柔らかな布が舞い降りてきた。冷え切った肌に心地よい。
「おはよう、梨花子。戻ってきてくれて嬉しいよ」
気持ちは立ち上がろうとしていたが、足の裏がしびれていて力が入らない。実際には声をかけてきた男の側にやや身じろぎして終わっていた。
「駄目だよ、まだ立っちゃいけない。君は天国の門の一歩手前まで行っていたんだから」
「また、戻ってきてしまったのね」
「またって、どういうこと」
「あなたには関係ないことよ」
相手は最初から梨花子の返事など必要としていないようだった。胸に置かれていた大判のタオルを広げて梨花子の体に巻き付けると、そのまままだ自由の利かない体を勝手に抱き上げにかかった。たかがそれだけなのに、ふっと気が遠くなったので、全く抗うことができなかった。
「何をするの」
やっとのことで絞り出した声が実に弱々しく自分の耳に戻って来る。しかも、違うものまで吐き出しそうだった。
「何って、覚醒したら、ランバール女史の所に連れてくるよう命じられているからさ」
すでに歩き出していた男の歩容に合わせて上下するかすかな動きにすら酔ってしまい、実に気分が悪かった。とにかく早く下ろしてほしかった。
「車いすに乗せて」
「こっちの方が早い」
適当に答えているのは明らかだったが、それ以上抗議する力もない。極力揺れを感じないように男の体に寄りかかるだけで精一杯だった。タオル越しに伝わる男の体温が心地よく、梨花子はそのまま目を閉じていた。
「寝ないで。意識を保って」
胸板から男の声が直接頭の中に響いてくる。優男の見かけに似合わぬ低い声。それに答える力がなく、かすかに頷いた。
不思議な浮遊感。体を動かせない分聴覚だけが研ぎ澄まされていて、男の息遣いや鼓動がやけにはっきりと聞こえていた。何も言わなかったが、とても焦っていて、とても心配してくれているのが伝わってくる。こんな感覚はいつだっただろう。子供の頃、真夜中に高熱を出したことがあって、父に抱かれて病院に担ぎ込まれたあの時に似ていた。あの時の父の息遣いや鼓動がこんな感じだった。
「ランバール先生」
声が大きすぎると抗議したかったが、唇がぴくりとも動かない。それに答えた友人の女医の台詞も聞き捨てならなかったが、やはり何も言えなかった。
「まあ、ロマンチック。こんな状況でなければ、ね。このベッドに寝かせて。まずは体を温めるわ」
急に温かいものに包まれた。肺に溜まっていた息が漏れて、ようやく小刻みに震えていたことに気付く。体は弛緩していくけれど、守っていてくれた腕を失って急速に不安が増した。父が遠くに行ってしまうような気がした。
「待って…、ここにいて」
それがうわごとだと医師にも男にもわかっていた。従うべくもない言葉にためらいを見せた男に、医師は鋭いまなざしの指令を飛ばして来た。仕方がないので、男はおずおずと梨花子の手を取るしかなかった。
「ここにいる、梨花子。どこにも行かないよ」
冷たい手の力が少し緩んだ。その間に、ランバールの慣れた手が患者の首元を緩めた。はだけた胸元はすぐに布で覆われたが、女の肌に火傷の痕のような赤いあざのようなものがあるのが微かに見えた気がした。だが、魔法のように端子を取り付けていく作業に見入ってしまい、すぐに忘れてしまった。そして、その計器の表示がレッドゾーンから回復するまで、なす術もなく、次第に熱を取り戻していく女の手を握り締めていたのだった。
宇宙への大航海時代が始まってまだ100年にも満たない。もはや母なる地球のキャパシティーを超えることがなくなったというのに、それでも人類は競い合うように宇宙へと生活の場を求めて旅立っていた。ほんの数百年前から始まった現象、人口の自然減は、静かになおも進行中である。まるで人が生物としての能力を忘れていくかのように。そのうえ地球を飛び出した先で起こった戦争が、人類の存続さえ揺るがしかねない事態を引き起こした。
我々は生物の霊長である。そんな自負が更なる繁栄を望み、戦後、様々な星系への移住計画が立てられ、人類の宇宙進出は飛躍的に高まっていた。
当時、最も辺境とされた惑星への移住計画。人々を募るための希望に満ちたフレーズとは裏腹に、この船は「辺境船」と綽名された。
今、この「辺境船」の中である異常事態が起こっていた。
「ねえ、ランバール先生、あと何人目覚めるの」
意識のない女の青白い顔を見ているしかない手持無沙汰に倦んで、ふと思いついた言葉を口にした。だがすぐに、医師が静脈に針を打ち込むその寸前にこの質問をするべきではなかったと後悔した。一瞬手を止めた医師はゆっくり息を吐き出してから針を打ち込み、固定するまでの数秒間決して口を開かなかったが、その苛立ちは隠せない様子だった。
「…わからないわよ。私は神ではないわ。後は本人の生命力よ」
異常事態は、ランディングの準備を始めるグループが目覚めた頃のこと。あらかじめプログラムされた自動航行により移民先の惑星を目指していた船の軌道が、計画よりも大幅にずれていたことが発覚したのだ。初期段階でのプログラムミスか、そもそもの誤差だったのか、議論する暇もなく航行ルートの再計算が行われた。もし到着が10年単位で遅れてしまった場合、再度クルーの冷凍睡眠を行わなくてはならない。惑星の軌道に入る少し前に目覚める移民たちの睡眠延長は簡単に行えても、航行中に船内業務を行っていた乗組員たちは、グループごとに交代で目覚めの時間を調整していた。そうしなければ、神様によって人に与えられた時間だけでは、この辺境の惑星には到着することができないのだ。
さらに、その冷凍睡眠装置の異常が見つかったのは、目的地にたどり着く一年前に目覚めるはずだったグループのうち、予定日時を過ぎても目覚めない者が現れたことがきっかけだった。彼らは最初に目覚めて船内業務に従事し、目的地到着前の最後に目覚める予定だったグループだ。3人の航海士と3人の機関士、1人の医師または看護師の7人のグループのうち、予定通り目覚めたのはたった2人だけ。後の5人は予定を過ぎても目を覚まさなかったのだ。
仕掛けは簡単なことだ。彼らが眠りに就いた後、誰かがプログラムをいじった。その変更記録は機械に残されていたが、その「時間」が問題だった。長期安定航行中、最後に活動していたグループが冷凍睡眠に入ったちょうど半年後に変更が記録されている。乗員すべてが眠りに就いたこの船内で、誰かがこっそりと目を覚まし、冷凍睡眠装置のプログラムを変更した。しかし、人々が眠っている間ずっと起きていた唯一の目、犯行の一部始終を見ていたはずのこの船のマザーコンピュータは異常を警告しなかった。
事態は一部の者を除いて伏せられていた。当事者のうち最初に目覚めたジョーイ・インの機転により、今のところ「事故」で収まっている。
横たわる梨花子の青ざめた顔はまるで死人のようだ。胸がかすかに上下しているものの、それもゆっくりで今にも止まってしまいそうに見える。既に力を失っている手を強く握りしめているのは自分の方だと気付いた男は、その手をシーツの中に戻した。
気が付くと、ランバール医師がこちらを見ていた。目が合った瞬間、ごまかすように視線を泳がせ、努めて冷静に言うのだった。
「ここはいいわよ、イン。艦長に報告にいきなさいな」
「先生が行ってよ。俺じゃ状況を説明できない」
「あら、そう」
その相槌でよかったのか、もっと他に何かを言いたげな顔をしていたが、彼女はあっさりと踵を返した。まさか本当に行ってくれるとは思っていなかったので一瞬焦ったが、敢えて引き留めることもないのかもしれないと思いなおしていた。
医師が去ったあと、静寂に押しつぶされてしまいそうだった。息遣いの音を確かめるように、眠る梨花子のそばに耳を近づける。かすかに聞こえた。
「心配しなきゃ、変に思われる。ただ、それだけだ」
自分に言い聞かせるためのその声が、まるで自分以外の別人の発したつぶやきのように乾いていた。
岸梨花子が次に目を覚ました時、そこにはどことも判断のつかない白い天井が広がっていた。
ここがどこなのかすぐにはわからなかったが、もはや自分が幼い少女ではないと気がついていた。では、ここはどこなのか。おぼろげな記憶をたどってみるのだが、霞のように浮かんで力なく消えた。
ふと、胸の上の右手が燃えるように熱く、重く、簡単には動かないことに思い至った。恐る恐る力を込めた左手は自由に動き、たやすく浮いた。だが、何かがまとわりついていて上腕が重い。仕方なく肘から下の自由になる部分を動かして右手付近を探ると、何か房のようなものに触れた。するとそれは弾かれたように動きだし、同時に右手の熱い呪縛が解けたのだった。
「梨花子、気が付いたのか」
この角度からこの顔を見るのは二回目だと気づいた。急速に記憶が蘇ったせいか、激しいめまいがした。
「ジョーイ、仕事はどうしたの」
「あんた、覚えてないのか。俺にここにいてくれって泣いてすがったくせに」
「適当なこと言うと殴るわよ」
男はまたしても梨花子の返事を必要としていなかった。まだ熱を帯びている右手を勝手にとって頬に擦りつけ、しきりに鼻を啜っていた。いつもならここで邪険にして振り払っているのだが、今回ばかりはどうも分が悪いとすぐに察しがついた。
つるんとした優男のくせに、手の甲に当たる髭が思ったより痛い。退けようにも、点滴の管に戒められた左手ではそこまで届かず、うつむく彼の髪をかすめただけ。さっき指に触れた房のようなものは、除隊してから伸ばしているという彼の髪の毛だったようだ。混血が進み、純粋な人種の特徴が損なわれているというのに、彼の髪は黒々と重く、肌は黄金の織物のようだ。「東洋人」としてのアイデンティティに拘った父に名付けられた自分よりも、彼の方がよほど東洋人の血を色濃く引き継いでいる。彼の前ではまるで自分が偽物のような気がした。
「…怒らないのは、まだ具合が良くないってこと」
「怒ってほしいならそうするけど、私はずいぶん迷惑をかけたんでしょう」
梨花子の真意を測りかね、どの表情がふさわしいのかわからずにジョーイは百面相を演じて見せた。それを見た梨花子が笑ったことに安堵したのか、もういつもの調子で話していいのだと悟ったようだ。
「ああ、大迷惑だったよ。ランバール先生がいる目の前でさ、ここにいてくれって俺の手を離さないんだから。やっぱ梨花子、俺の事好きなんだってよくわかったよ」
「前言撤回。もう、出ていって」
勢いよく右手をひっこめ、子供のように背を向ける。その様子にすっかり安堵したのか、ジョーイも笑顔で席を立った。
「腹減ったんで、俺、もう行くから。梨花子のせいで昼飯も夕飯も食えなかったし。仮眠しているランバール先生と交代するんで」
身をよじった時には既にジョーイの姿は消えていた。枕元のバイタルサインの上の時間表示は真夜中であることを表示している。一体何時間が経過しているのか知る由もないが、言葉が本当なら、少なくとも半日は彼を拘束していたことになる。いたたまれなくて目を閉じた。いつもは気にならない船のエンジン音まで、彼女を責めるように響いてくる。