婚約破棄されたので、全力で推し活しますわ! 王子の尊さに気づけないなんて、お気の毒ですわね?
「侯爵令嬢リリエラ・フィンベルク。これをもって、俺との婚約を破棄する」
宮廷の議場で、冷ややかな声音が響き渡った。
息を呑む貴族たち。
美貌と才気、家柄に申し分のない令嬢が、まさかの公開婚約破棄──それも、王子自ら破棄を突きつけられるなどと。
その場の空気は一瞬で緊張に満ちた。
「なんということを……」「あのリリエラ嬢を?」「殿下、正気か……」
驚愕と戸惑いのさざめきが広がる中、当の第二王子ゼファリオは面倒そうに息を吐き、唇の端を皮肉げに歪めた。
「俺の指示に従わない女など要らん。忠実で、可愛げのある娘は他にいくらでもいる」
空気が凍りつく。
理由があまりに理不尽。
これまで完璧に振る舞い、ゼファリオを支え続けてきたリリエラに向けて、この仕打ち。
誰もが思った。
──これは、あまりにも酷い、と。
だが、リリエラだけは違った。
(……ようやく、来ましたわね!)
その胸は歓喜に震えていた。
喉元に込み上げる感情を抑えながらも、彼女は毅然と顔を上げ、静かに一礼する。
「……かしこまりましたわ。これまでのご縁に、心より感謝申し上げます、ゼファリオ殿下」
涙一つ見せないどころか、女神のような微笑すら浮かべて退くリリエラに、再びどよめきが広がった。
(悲しむ理由など、ひとつもございませんことよ)
なぜなら彼女の本当の想い人は、目の前の冷酷な王子などではなかったからだ。
リリエラの視線の先には、議場の隅でそっと身を潜めるように立つ、一人の青年。
第一王子、アルト・リュミエール・エルヴァン。
人当たりがよく、優しさだけは誰よりもある。
だが、重要な場面では空回りし、発言は斜め上、行動もどこか的外れ。
容姿端麗なだけに、宮廷内では“王宮一のもったいないポンコツ”とさえ呼ばれていた。
けれどリリエラは知っている。
彼がどれほど真面目で、純粋で、人を信じ、まっすぐにこの国を見ているか。
その誠実さと努力の積み重ねが、いかに美しいものかを。
(この方を推さずに、誰を推すというのです……!)
ようやく“遠くから見守るだけの推し活”から、“全力サポート推し活”へ進化する時がやってきたのだ。
(第一王子の推し活、全力でまいりますわ──!!)
何を隠そう、リリエラはポンコツ好き。
ひたすらに“ポンコツ可愛い尊い”という想いだけが、彼女を突き動かしていく──!
***
婚約を破棄されて間もなくのこと。
リリエラが第一王子アルトに付き従うようになったことで、王宮は再び騒がしくなった。
「どういうことだ?」「今度は第一王子狙いか?」「いや、立場の維持のためか……?」
問いかけるような視線に、リリエラは微笑みで応じる。
「王族とのご縁を、完全に絶つのは得策ではありませんもの。あくまで政治的判断ですわ」
周囲は納得したように頷いた。
冷静で才気あふれる彼女なら、そう考えるだろう、と。
だが──それは建前にすぎない。
(本当は、ただお助けしたいだけなのですわ。あんなに優しくて、危なっかしい方……ああ、尊い!)
努力家で、人を疑うことを知らず、誰にでも分け隔てなく優しい第一王子のアルト。
だがそれが災いして、彼はしばしば利用される。
(放っておけば、きっと背中から刺されますわ)
そう確信したリリエラは、密かに決意を固めた。
“完全無欠な淑女”を演じながら、彼をさりげなく補佐してみせる、と──。
ある昼下がりの式典の間。
アルトは、国王の名代として、国民に向けた感謝の言葉を述べる役目を任されていた。
王国に貢献した民が招かれ、華やかすぎないながらも、温かな空気が流れる式典。
人々の前に立ったアルトは緊張しながらも、丁寧に一言一言を紡いでいく。
「このたびの式典にあたり、日頃より国を支えてくださる皆さまに、心より感謝します。本日は、皆さまへの感謝と、僕の率直な想いをお伝えできればと思います」
緊張を抱えながらも一歩前に進み、丁寧に紙を開く。
そして、静かに口を開いた。
「君の笑顔は朝露にきらめく宝石。僕の心に落ちたその光は、どんな不安も溶かしてしまう。雲の切れ間に射す光が、君の魂のかけらなら、僕は一生、雨のあとを歩いていたい」
しんとする会場。明らかに、国民に向けての感謝の言葉ではない。
(あれは……殿下の、自作の詩!? しかも……完全に恋詩ではありませんこと!?)
胸の内で焦るリリエラの心も知らず、アルトはさらに続ける。
「君の存在は、心に咲いた永久花。冬にも枯れず、夏にも萎れず、ただそこにいるだけで、息が苦しい。なぜかって? 君という酸素が濃すぎて、僕の理性が高山病になってしまいそうだから……!」
(全力で二番も読み切ってしまいましたわ……! さすがの素晴らしいポンコツでしてよ!)
そこでふと、アルトの言葉が止まった。
何かに気づいたように、アルトの耳がじわりと赤くなる。
「……っ、ち、違います、これは……」
読みかけた紙を慌ててたたみ、後ろ手に隠した。
観客の一部がざわつき始める。
リリエラはすぐさま前に出て、穏やかな笑顔で言葉を引き継いだ。
「殿下は常に、国と民を思っておられます。そのお心があふれ、詩という形になっただけのことですわ」
「リリエラ……っ」
「とても素敵な詩でした。皆さま、どうか──あたたかくお受け取りくださいませ」
その一言に、場の空気がやわらいだ。
アルトは、恥ずかしさを隠せないまま俯く。
「……うぅ、なんで全部、読んじゃったんだろう……」
その赤面に、リリエラは胸を射抜かれる。
(尊い……! この愛しきポンコツ王子を、わたくしが支えずして誰が支えましょう!?)
リリエラは俄然、推し愛を燃やしながら、その場を見事に取り仕切ったのだった。
さらに議会では、言葉が脱線しかけた瞬間に控えめな咳払いで軌道修正。
文官の冷たい視線を受ければ、代わりに受け答えを整え、誤解を解く。
晩餐会では苦手な食材を避けて盛りつけ、さりげなく皿を交換してみせる。
公式行事では忘れた勲章を袖口からそっと差し出す。
詩的すぎる演説草案は「民に伝わる表現に」と柔らかく添削する。
視察先で転びかけた時には、物音ひとつ立てずに手を差し出した。
アルトの数々のポンコツを、リリエラは自然に、偶然を装って解決していく。
(誰にも気づかれてはなりませんわ。これはあくまで、“私の推し活”なのですから)
誰も知らない。
王宮一の才女が、ポンコツ王子を守るため、日々全力で暗躍していることを。
(今日もまた、素晴らしく可愛いポンコツ……! 尊すぎて、もう無理ですわ!)
そう、悶絶していることを。
***
しかし──不穏な空気は、確実に膨らんでいた。
第二王子ゼファリオの執務室。整然と並ぶ書類の山を前にしても、彼の手は止まったままだった。
(リリエラ……あれほど見目も教養も備えた女を、手放したのは失策だったか?)
気づけば、彼女の姿が思考の端にまで入り込んでいることに、わずかな苛立ちを覚えた。
その上、最近は第一王子までもが耳目を集めつつある。
(……無能な兄のくせに)
感情を隠すように目を伏せると、忠実なる腹心のマルクスが気配を察して、一歩前に出た。
「ゼファリオ様。第一王子殿下は、近頃たいそうご多忙とか」
言葉こそ穏やかだが、その意図は明白だった。
「政務も重なり、少々お疲れのように見受けられます。……文書の誤読なども、ありえますな」
ささやきを受け、ゼファリオの口元がゆっくりと歪んだ。
「……やれ」
静かに、陰謀の歯車が回り始めた。
***
仕組まれた罠は、何気ない会議資料だった。
一見無害な文書の中に、ひとつだけ紛れ込んだ“毒”。
意図的に改ざんされた一文が、王子の信用を失墜させるよう仕組まれていたのだ。
「殿下、こちらが会議資料です」
「ありがとう。……ええと、『歳出の調整について』か」
真面目に資料に目を通すアルト。
その時、彼の手元にそっと差し出されたのは、別の書類だった。
「殿下、こちらが改訂版です。先ほどのは旧版が誤って紛れていたようですわ」
「え、そうなんだ。ありがとう、助かるよ!」
差し出したのは、リリエラだった。
彼女はすでに、文官の動きが妙であることに気づいていた。
前夜のうちに、資料を一通り精査し、文体の揺れや不自然な句読点まで見抜いていたのだ。
(やはり仕掛けてきましたわね、ゼファリオ殿下)
ここまでくると、“推し活”というより、国家運営の一翼を担っていると言っても過言ではない。
さらに、ゼファリオの陰謀は続く。
「殿下、お召し物が違いますわ。今宵の夜会では“青”が正式な礼装です。その色では、外交儀礼に反しかねません」
「えっ……そ、そうなんだ……。僕、ただ用意されたものを……」
「ご安心を。正装はこちらにご用意しておりますわ。さあ、ご一緒に」
その衣装も、ゼファリオの意を受けた者によって、わざと誤った色が届けられていたのだ。
(……陥れようとする者がいるなら、私は何度でも正しますわ)
密やかに助けることこそ、彼女にとっての“推し活”の極みなのである。
(どんな陰謀でも、わたくしの推しを傷つけさせはしませんわ!)
微笑の奥に燃える決意。
それは、淑女の仮面を纏った才女による、静かな宣戦布告だった。
***
舞踏会場の片隅で、ゼファリオはワイングラスを傾けながら、冷ややかな視線を二人へと注いでいた。
(……気づいているのか、あの女)
不愉快そうに唇を歪める彼の予感は、正鵠を射ていた。
王族としての風格。才覚。そして、政治的手腕。
そのどれを取っても、ゼファリオは兄アルトより“上”であるはずだった。
兄アルトは不器用で、人付き合いも下手。決して目立つタイプではない。
それにもかかわらず、リリエラはその不器用なアルトを見限ることなく、陰から支え続けている。
(まさか……あの女、本気で兄上を王位に据えようとしているのか?)
焦りと怒りが胸をかき乱す。
かつて自分に靡かなかった令嬢への“当てつけ”だった婚約破棄が、今や己の立場すら脅かす火種となっていた。
ゼファリオは苛立ちを隠さず、手元のグラスを睨みつける。歪む唇が、新たな陰謀の狼煙を上げた。
「兄上にふさわしい経歴を作り、王宮に知らしめてやろう」
その呟きを皮切りに、仕組まれた罠が動き出す。
***
──ある日、高官のもとに一通の密書が届けられた。
封蝋には第一王子アルトの印章。筆跡も文体も、見紛うことなく“本物”と一致していた。
内容は、国の資源を私的に動かすよう命じる、あまりに危うい一文。
高官は顔を強張らせ、文書を握る手にじっとりと汗を滲ませる。
「まさか……アルト殿下が……?」
──そのとき、執務室の扉が控えめにノックされ、文官の一人が顔を覗かせた。
ゼファリオの腹心である、マルクスだ。
「どうやら、密書が届いたようですね」
「……これのことか?」
マルクスは、高官の手の中にある封筒を見てニヤリといやらしく笑った。
「アルト殿下の不正については、ゼファリオ殿下もすでに把握されております。閣下には、“迅速に告発せよ”とのお達しが届いております」
「告発……?」
思わず声が漏れる。
(王宮の中枢に仕える自分が、第一王子を?)
しかし、その命がゼファリオから下されたものである以上、拒否などできはしない。
この高官はかつて、賄賂の授受に関わった過去を持っていた。
本来であれば、すぐさま処罰の対象となるべき重大な不正。だが、件は不問とされ、記録が残されることはなかった。
なぜなら、ゼファリオが密かに証拠を握り潰していたからだ。
『お前のような優秀な者を失うのは惜しいからな』
ゼファリオのその言葉に、『ゼファリオ殿下が目をかけてくださったからこそ、私は今もこの地位にいられる』と高官は信じて疑わなかった。
しかし、真実は違う。
賄賂の行方を辿れば、その一部がゼファリオの名をかすめていたのだ。
証拠を消したのは、ゼファリオ自身が共犯だったからである。
それでもなお、ゼファリオは己の関与を悟らせることなく、高官に“借り”を負わせ、従わせることに成功していた。
ゆえに彼は、過去の罪を“見逃された”と信じている。そのため、ゼファリオに逆らうことができない。
“告発せよ”というゼファリオの命が下された高官は、ほんの一瞬だけ、表情に迷いが浮かぶ。だがやがて、その眼差しは決意に染まった。
「……わかった。命じられた通り、動こう」
そしてその夜、彼は密やかに動き出す。
それは、アルトを告発するための準備──ではなかった。
「……第一王子殿下のご署名とされる文書ですが、念のため、ご見識を仰げればと」
彼は密書を差し出した。その相手は──
「アルト様からの密書? 拝見いたしますわ」
冷たく笑みを浮かべる、リリエラである。
彼女は、すべてを知っていた。
──この高官が賄賂を受け取ったこと。
──ゼファリオがその証拠を揉み消したこと。
──そして、ゼファリオ自身もまたその金の一部に関与していたこと。
けれど、それを公に告発する手立てはなかった。
リリエラの手元にあるのは、あくまで写しや断片──推測を裏づける程度の情報にすぎない。
裁くには足りず、黙るには惜しい。
だからこそ、彼女は選んだのだ。
この男一人を、確実に掌握するという方法を。
──数か月前の夜。
リリエラは帳簿の写しをそっと差し出しながら、こう囁いた。
『ご安心ください。わたくしの手の内にあれば、決して世に出ることはありませんわ。……あなたが、私に忠誠を誓うならば、ではございますが?』
涼やかな瞳で脅すその姿に、高官は逆らう術などない。
それ以降、彼はゼファリオに従うふりをしつつ、リリエラに逐一情報を流す密偵となったのだ。
それもこれも、すべては──推しのための脅しである。
高官から受け取った封書を、リリエラは静かに開いた。
その視線が流れるように紙面を走る。
記されていたのは、国の資源を私的に動かすよう命じる内容。
文体、書式、印章……どこを取っても精巧に仕立てられており、一見しただけでは偽物とは断じがたい。
だが、封蝋のわずかなズレ。筆跡に潜む微かな違和感。そして、語彙の選び方に滲む癖。
アルトの言葉を誰よりも熟知している彼女にとって、その粗はあまりにも目立っていた。
(わかっておりませんわね。わたくしの愛しきポンコツのアルト殿下が、こんな巧妙な抜け道を思いつくはずがございませんのに)
即座に騒ぎ立てるような真似はしない。
リリエラはあくまでも偶然を装いながら、周囲の文官たちの様子を探り、別の手段でも出所を洗いはじめていた。
文書には、第一王子から直々に届けられたものであることが明記されていたが、実際に王子の執務室から発せられた記録は、どこにも存在しなかった。
王族の命を伝える文書には、本来なら控えが残る。
筆写者も封蝋の責任者も、届けた者の名も──すべて記録されるのが決まりだ。
それが、この一件に限っては、一切なかった。
(記録を消すには、よほど上層に通じていなければ不可能ですわ。けれど……)
調査を進めたリリエラは、文書を運んだとされる人物の所在を追跡する。
しかし、そんな人物はどこにもおらず、浮かび上がったのはゼファリオの腹心、文官マルクスの存在だった。
(やはり、ゼファリオ殿下……)
薄暗い書庫の一角にマルクスを呼び出したリリエラは、まっすぐ彼を見据えた。
扉の外には騎士を待機させ、いつでも突入できるよう手はずを整えてある。
その鋭い視線に射抜かれ、マルクスは睨まれた蛙のように怯え、固まっていた。
「あなたが、あの偽造密書を仕組み、アルト殿下を陥れたのでしょう? そのことも、これまでに殿下に対してした裏切りも、全部わたくしは知っているのですわ」
リリエラは手元の推し活日記を開き、ゼファリオとマルクスの企てと思しき陰謀を、淡々と読み上げていく。
今回の調査によって、マルクスの関与を決定づける証拠もいくつか手に入れていた。
マルクスは必死に言い訳を探したが、リリエラの眼差しは容赦なく彼を追い詰めた。
「どこまでアルト殿下を貶めれば気が済むのですか!? その卑劣な所業、すべて白日の下にさらして差し上げますわ。……覚悟はよろしいですわね? お答えなさい!!」
リリエラの迫力に、とうとうマルクスは肩を落とす。
「……全部、ゼファリオ殿下の命令だ。俺だけの罪じゃない! だが、頼む。お願いだ。これ以上、あの偽造密書のことは口外しないでくれ……本当に失脚してしまう……っ」
リリエラは微かに唇を吊り上げ、穏やかな口調で答えた。
「いいでしょう。ただし、あなたが知るゼファリオ殿下の悪事はすべて白状しなさい。アルト殿下を守るために、協力してもらいますわ!」
マルクスは震える声で頷いた。
「わかった。すべて話す……だから、あの偽造密書のことだけは、外には出さないでくれ」
その懇願を聞き届けたリリエラは、淡く笑みを浮かべる。
そして──
彼女はすべてを聞き終えたのち、あっさりと表に控えさせていた騎士へとマルクスを引き渡した。
「密書の偽造の件も、しっかりと罪を償っていただきますわ」
「貴様……! これでは約束が違う!!」
「あなたはアルト殿下にとって害悪ですわ。許すはずもございませんでしょう?」
リリエラは淡々と告げた。
「ふざけるな! どうして私がこんな目に遭わねばならんのだ!!」
マルクスの叫びも、歪んだ顔も、リリエラにとってはどうでもよかった。
騎士たちに連れられていくその背を、冷たい目で刺すだけだ。
けれどその胸の奥では、怒りの炎がじわりと燃えていた。
(アルト殿下を貶める者は、万死に値しますわ!!)
胸の怒りを押し隠しながら、リリエラは歩き出した。
次は──すべてに決着をつける。その覚悟を胸に。
すべては、最推しのために。
***
──謁見の間。
緊迫した沈黙が、荘厳な空間を支配していた。
王族や重臣たちが居並ぶ中、その中心に立つのは王──そして、その視線の先にいるのは、第二王子ゼファリオだった。
王の口が静かに開く。
「第二王子ゼファリオによる、王族の名誉を著しく損なう陰謀が確認された」
その一言が落ちた瞬間、広間の空気が凍りついた。
どよめきすら許されない重さの中で、ゼファリオの顔から血の気が引いていく。
「……馬鹿な……っ、あの高官は……俺の言うとおりに動いていたはず……!」
それは、策をめぐらせた者の顔ではなかった。
信じていた駒に裏切られ、仕掛けた罠は、音もなく己の首を絞めつける。
リリエラは一歩、ゆるやかに前へ進み、王の前で恭しく頭を垂れた。
「陛下。この件は、偶然文書の不備に気づいたわたくしが調べ、明らかになったものでございます。アルト殿下は一切、関わっておられませんわ」
澄んだ声が、重苦しい空気に一筋の光を差す。
王はしばし沈黙し──やがて深く頷いた。
「……よくぞ見抜いた。そなたのような者が、この宮廷に在ることを誇りに思う」
ゼファリオは、その場に崩れ落ちた。
野心と謀略は潰え、王太子候補からの正式な除外が宣告される。
その日を境に、彼の名が政の場に上がることはなくなった。
王宮の判断により、ゼファリオは寒風吹きすさぶ辺境の監視所に送られたのだ。
荒れた風土に人の気配は乏しく、通信手段も限られている。
彼はひたすら、冷え込む石壁の中で書類と向き合い、監視の報告書を綴る日々を送っている。
「……あの女を選びさえしていれば……」
そんな悔恨のこもった声が、吹き荒れる夜に聞こえるとか聞こえないとか──
今では、辺境にまつわる噂話のひとつにすぎない。
***
ゼファリオの失脚を機に、第一王子アルトの評価は大きく変わった。
かつては頼りなく見られがちだったその姿も、今は違って見える。
知識も才覚も、とりわけ秀でたものではない。
それでも諦めず、誠実に歩み続ける背中に、人々は希望を見出しつつあった。
言葉は拙く、不器用で、想いをうまく伝えられないことも多い。
けれどその分、一言一言がまっすぐで、嘘がなかった。
その誠実さが、心を打つ。
いまや彼の不器用さは、人々の目に“強さ”として映っていた。
だが、その変化の陰に、ひとりの令嬢の存在を忘れてはならない。
──リリエラ・フィンベルク。
その日、アルトは彼女を呼び止めた。
「リリエラ。……ちょっと、いいかな?」
「はい、殿下。お疲れでしょうか? お茶でも──」
「ううん、そうじゃなくて……今日は、君に気持ちを伝えたくて」
リリエラは目を瞬かせ、思わず立ち止まった。
いつになく真剣な眼差しを向けてくるアルトに、背筋が自然と伸びる。
「……ありがとう。ずっと、そばにいてくれて」
「まあ……どうなさったんですの?」
「この前、ふと思ったんだ。僕が助かったと思った場面、その全部に、君がいたなって」
思わぬ言葉に、リリエラは息を呑む。
まさか、この尊すぎる王子が自分の存在に気づいていたとは、思いもしていなかった。
「僕が迷ったとき、傷ついたとき、立ち止まったとき……いつも君が、そばにいてくれた」
推しがこちらをまっすぐ見つめ、感謝の言葉を贈ってくる。
それだけで、魂が抜けそうになった。
(どうして気づいてしまわれたんですの……! だけど、そんな殿下も尊いですわ……!)
「リリエラ。これは、偶然なのかい?」
気づいてもらえた嬉しさと、秘めていた想いを見透かされたような照れくささが、胸の奥で渦巻く。
「……秘密にしておくつもりでしたのに」
「そっか。ごめん。でも、ちゃんと伝えたかったんだ」
アルトの瞳は、まっすぐにリリエラを見つめていた。
その眼差しには、誠実さと、言葉にしきれないほどの感情が宿っている。
「……僕はずっと、誰かに期待されるのが怖かった。できない自分を責められるのも、期待に応えられないことも。だけど、君は違った。叱るでもなく、持ち上げるでもなく、ただ静かに……僕を信じてくれた」
リリエラの胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
その声、その眼差し。すべてが、リリエラだけに向けられていて。
「心が折れそうな夜もあったよ。もうやめてしまいたいって思ったことも、何度も。でも……そんなとき、君の姿を思い出してた。そばにいてくれたこと、かけてくれた言葉、僕を見てくれていたその瞳を……」
顔が熱を帯びていく。
まっすぐな想いが、リリエラの心を包み込んで、静かに揺さぶった。
「……きっと僕は、あの頃から君にずっと救われてたんだと思う。感謝の気持ちだけじゃ言い尽くせないけど……それでも言わせてほしい。ありがとう、リリエラ」
彼の声は、宝石のように静かに胸の中に降り積もっていく。
甘く、くぅっと、心を締め付けるような温かさ。
(推し活失敗ですわ。さりげなく見守るだけのつもりでしたのに)
ただ彼を認めさせたかった。
真価を見ようとしない人々に、「殿下は素晴らしいのですわ!」と無言で証明してやりたかっただけ。
そのはずだった。
まさか、推し本人からこんな言葉を向けられるなんて、想定外にもほどがある。
「……そんなふうに言っていただけるなんて、思ってもいませんでしたわ」
その声は、ほんのかすかに震えていた。
アルトは、少し照れくさそうに微笑みながら、それでも決してリリエラから目を逸らさなかった。
「リリエラ。ひとつ、お願いがあるんだ」
「お願い……ですか?」
「……もしよければだけど。君のこと、“リリィ”って呼んでもいいかな?」
その一言に、胸の奥で小さな鐘が鳴った。
「……リリィ、ですの?」
「うん。君の名前が、ずっと好きだった。でも、“リリエラ”って呼ぶたびに、どこか距離を感じてしまって……。僕はもう少し、近くで、君のことを呼びたいんだ」
その言葉のあたたかさに、リリエラの頬はどんどん色づいていく。
(ああもう、殿下はどれだけ可愛いんですの! こんなことを言われてしまっては、もう本当に戻れませんわ)
彼女は一度そっと視線を落とし、心に芽生えたときめきを胸の奥で抱きしめる。そしてゆっくりと顔を上げ、柔らかな微笑みを咲かせた。
「……はい。殿下がそう望まれるのなら、喜んで」
「ありがとう。……リリィ」
名を呼ばれた瞬間、胸の内がふわっと甘く、やさしく揺れた。
(推しに愛称で呼ばれる破壊力……っ。自分の名前が、こんなにも愛おしく響くなんて……!)
魂が抜けかけているリリエラの姿に、アルトは目を細める。
「リリィ……君のそばにいると、僕は少しずつ、強くなれる気がするんだ。これからも……そばにいてくれる?」
「…………〜〜っ」
答えようとして、言葉が喉の奥でつかえる。
代わりに浮かんだのは、涙に滲んだ笑顔だった。
「……はい。こんなに嬉しいことは、ございませんわ……!」
推しに心を射抜かれても、リリエラは淑女然とした態度を崩さない。
けれど、アルトの穏やかな笑みに──恋という実感が、そっと沁みこんでいく。
これはもう、ただの推し活ではなくなった。
気づかれぬよう助け、世間に認めさせるだけの活動ではなくなったのだ。
そっと見守り、噂を正し、臣下を装ってそっと功績を支える──
推しがつまずいたら全力でフォローして、不器用ながらまっすぐにがんばる姿に「尊すぎて無理」と心の中で毎回叫ぶ、そんな健気な活動だったのに。
(なんてこと。推し活だったというのに、わたくしは恋してしまったのかもしれないですわ)
アルトの手が、そっと差し出された。
躊躇いながらも、リリエラはその手を取る。
あたたかくて、まっすぐで、不器用なそのぬくもりに──また胸がぎゅうっと締め付けられる。
(ああもう……やっぱり尊すぎますのよ、殿下)
彼の手を握り返しながら、リリエラはそっと微笑んだ。
それはもう、支えるための手ではない。
寄り添うための、ただひとつの手だった。
***
アルトの誠実な人柄は、リリエラの推し布教活動もあり、どんどんと人気を高めていった。誰よりも真摯に国と人を想い、ひたむきに歩んできたその姿が、次第に人々の心を動かしていったのだ。
そしてついに、アルトは正式に王太子としてその名を掲げることとなった。
かつて“もったいないポンコツ”と揶揄されていた青年は、いまや王国の未来を託される、希望の王子となった。
そしてその傍らには、いつも決まって一人の令嬢が寄り添っていた。
「殿下、予算案の収支が合いませんわ。ここを、よくご覧になって」
「う、うん……ありがとう。やっぱり君がいないと、ダメだなあ……」
しゅんとするアルトの姿に、リリエラは心を震わせる。
(ポンコツ可愛いですわ……!)
何度見ても飽きないその姿。
むしろ、一生眺めていたい。
できることなら一生ポンコツでいてほしいと、身悶えるほどに願ってしまう。
(こんな風に失敗を認めて、素直に頼ってくださるところがたまりませんの。やはり一生の推しですわ……!)
言葉にできない想いが胸の奥で渦巻きながら、リリエラは穏やかな笑みをたたえて口を開く。
「人に任せきりにせず、真摯に向き合っている殿下は、素晴らしい方なのですわ」
その言葉に、アルトは子犬のような眼差しでリリエラを見つめてくる。
当然ながら、リリエラの心はその瞳に吸い寄せられていく。
(ああ……尊すぎますわ、そのお顔……! 殿下が落ち込む必要などございません。わたくしたちは、補い合って進めばよいのですから)
そんな愛しき推しへ、リリエラはそっと伝える。
「もし殿下が間違えるたびに、わたくしの出番があるのなら……それは、むしろ光栄なことですのよ?」
リリエラの優しい言葉に、アルトはふっと微笑んだ。婚約者となった彼女へと、柔らかく、どこまでもあたたかく。
「リリィがいると、本当に助かるよ。君がいてくれてよかった」
そのまっすぐで、あまりにも無邪気な言葉に、リリエラの胸は跳ね上がる。
(ほんとうに……尊い……!)
「リリィ」
アルトが椅子に座ったまま、手を差し伸べてくる。
不思議に思いながらも近づくと、その手がするりとリリエラの腰を回り──
「え──きゃっ……!」
気づいた時には、彼の膝の上に軽々と座らされていた。
「……殿下?」
リリエラは表情を崩さず、冷静な声を保つ。けれど、内心は叫びたくなるほどの混乱だった。
(な、なななな、なんですの!? こ、これはあまりにも……!)
「リリィ、こうして君に触れているとね、ああ、ちゃんと僕は“君の隣にいる”んだって実感できるんだ」
穏やかな声で囁かれたその言葉に、返す言葉より先に顔が火照っていく。
リリエラは必死に冷静を装いながら、なんとか笑みを返した。
「それがわたくしの役目ですわ」
ようやく絞り出したその一言。
だが、彼の手は止まらない。
「リリィ、君は本当に、いつだって完璧だよ。でも……たまには、僕の前でだけでいい。甘えてほしいな」
(甘える!? 推しに甘えるなんて、そんな……そんな贅沢があっていいはずが──!)
「む、無理ですわ、そんな……」
「でもね、そう言いながら照れてる君の顔が……見たくて、たまらなくなるんだ」
そう言うとアルトは、そっと彼女の顎に手を添え──ためらいなく、その唇を奪った。
「──っ……!?」
視界がふわりと揺れて、思考がふっと遠のく。
(ちょ、ちょっと待ってくださいまし!? いつものポンコツ殿下はどこへ!?)
混乱、驚愕、羞恥……そして、なにより胸を満たしていくのは、熱を帯びたときめきだった。
唇がそっと離れる。
アルトは、彼女のすべてを包むような優しい笑みを浮かべた。
「完璧な君も、そんな顔をするんだね。……可愛い」
(そんな殿下の方が可愛いのですが……いえ、かっこいい……!?)
リリエラは限界まで顔を赤く染め、完全に言葉を失っていた。
「君が僕を支えてくれるように、僕も君を守りたい」
そう言って、アルトは膝に乗せたままのリリエラを、さらに抱きしめるように強く引き寄せ──もう一度、そっと唇を重ねた。
今度は深く、優しく、愛しさのすべてを託すように──
(むり……ですわぁ……)
「愛してる。僕の、大切なリリィ」
──それは、“ポンコツ”と呼ばれた王子が、唯一の令嬢に贈った、まっすぐな答えであった。
それから幾年。
アルトは王となり、リリエラは王妃となった。
ふたりは変わらず国を想い、民を愛し、日々の政務に励んでいる。
そしてもちろん──互いを尊敬し合い、変わらぬ想いを胸に歩んでいた。
執務室の片隅、ふとペンを止めて顔を上げたアルトが、いつものように言う。
「リリィ、今日も君がそばにいてくれて助かったよ」
「当然ですわ。わたくしは陛下の一番の理解者で、補佐役で、……そして、いちばんのファンなのですから」
そう言って微笑むリリエラの瞳には、今も変わらぬ“推し”への熱が宿っている。
むしろ──日々隣で働き、笑い、支え合うたびに、その想いは深まるばかりで。
(本日も殿下……いえ、陛下が尊すぎて息ができませんわ……)
そんなふうに胸の中でこっそり叫びながら、リリエラは今日も、王の隣に立ち続ける。
──それが、彼女の人生で何より誇らしい“推し活”なのだから。
お読みくださりありがとうございました。
★★★★★評価をいただけると、励みになりますのでよろしくお願いします!
↓こちらもぜひ♪↓
ざまぁされたポンコツ王子は、真実の愛を見つけられるか。
https://ncode.syosetu.com/n7818ig/
(下のリンクから飛べます♪)