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ニィッ…………
音も無く、色も無く、温度も無い。
そんな不気味な笑みを、追跡者の女が浮かべて見せた。
それは、まるで当然の勝利を手にした様な。
ジャンケンで勝った事よりも、パーでグーに勝った、と言う事象を観測したかの様な、予測されて然るべき反応がマウスに現れ、至極当然のモノを目の当たりにした学者の様な視線であった。
思わず、俺の背筋に嫌な汗が滴り落ちる。
コイツ、本当に人間なのだろうか?
まだ、侵略組織の誘拐担当、とか言われた方が納得出来るぞ?
と、そこまで内心で呟いてから、漸く気付く。
あの女、俺が与えた負傷から、出血していないんじゃないか?と。
俺から見える状態として、追跡者は軽く足を開いて立ちながら、両手をダラリと垂らし、返り血で真っ赤に染まった顔をこちらへと向けている。
当然、その両手の指先は、俺への攻撃兼拘束を行う際に、少なくない負傷を肌へと直接与えており、多くは無いながらも浴びた返り血にて口元と同様に赤く汚れている。
…………が、その一方で、追跡者本人の出血によって広がる赤が存在していない様に見えるのだ。
追跡者の服装は、この時期でも辛うじて怪しくは無い、トレンチコートじみたロングコート。
その腹部に、先程俺が突き出した拳が突き刺さり、確実に下の肉にまで風穴が開き、体内にまでめり込んでいたのは間違い無い。
その感触は確かにしたし、今も俺の拳には肉片と共に赤い粘液が残されている。
…………しかし、そのレベルの負傷を受けたのであれば、普通はその場で自らの血で血塗れになる。
そうでなくとも、腹部に風穴を開けられたのだから、確実に滝の様に出血し、瞬く間に周囲を血の池に変貌させるハズなのだ。
少なくとも、外見上は穴が空いている以外には、特に目立つ汚れが見受けられない、なんて事態には、確実にならないだろう。
中には、受けた負傷をその場で治す、なんて事も出来る者も居るだろう。
正直に言えば、俺も俺が与えた負傷程度であれば、瞬く間に治癒して油断した相手に猛然と襲い掛かる、なんて真似もやろうと思えば出来るし、出来てしまう。
しかし、そうであったとしても、現状の様にはならないだろう。
何せ、俺がソレをやった場合、確実に出血はするし、そうして溢れ出た血液によって周囲は赤く染まる事になるから、だ。
だが、この追跡者の女はそうはなっていない。
寧ろ、こうして遠目に見ても、負傷した傷口は外から覗く事が出来ている以上、確実に急速回復でどうにかしている、と言う訳では無い。
更に言えば、その手の能力持ちは、大概同時に身体も頑強になるモノと相場は決まっているので、俺の拳が当たった瞬間の、あの不気味な手応えや異常な脆さの答えにはなっていないと言える。
しかも、不気味な点はそこだけでは無い。
腹の風穴にばかり注目が行っていたが、よく見てみれば、俺を攻撃してきた追跡者の右手の指は全て明後日の方向へと拉げているし、拘束してきた左手の指は全ての爪が剥がれてしまっている様子。
おまけに、これまで笑っている、と思っていた口元は、確かに本人の意思にて口角は釣り上がって笑っている形を取っているのだろうが、その他が有り得ない状況となっていた。
より具体的に言えば、口が裂け、顎が砕けた状態であるにも関わらず、まるで痛みを感じていないかの様に、裂けた口角を釣り上げて見せていたのだ。
…………まるで、と言うか、確実に痛みは感じていないだろう。
でないと、あんな状態で、悲鳴の1つも挙げず、身体をふらつかせる事も無いままに、立っている事すらも不可能なハズだ。
なんて事を、肩や首筋に残っていた歯や爪を引っこ抜きながら考える。
痛みを感じず、出血までせず、身体は脆い。
それでいて、身体能力は考えられない程に高く、自らの欠損すらも度外視して襲い掛かってくる。
その様は正に…………
「…………もしかしなくてもお前、例の噂の吸血鬼だかゾンビだか、か……?」
その考えに至った瞬間、思わず背筋が粟立った。
気にも掛けて居なかった、半ばオカルトの話だと思っていた事が、実際に目の前で起きている。
その事実に、思わず向こうの世界に大半を置いてきたハズの恐怖が、俺の身体を駆け抜けて行く。
……………………おいおい、確かに、目の前のアイツは様子がおかしいが、まさか本当に噂の原因とかち合うだなんて思いもしないだろうがよ。
と言うか、噂だとアレじゃなかったか?
確か……『様子のおかしいやつに襲われるとそいつもおかしくなる』だったか?
そこに思い至った俺は、慌てて修復しつつある傷口を手探りする。
すると、左腕は兎も角として、右肩にも首筋にも残留物として爪や歯が残されており、大急ぎでそれらを取り除くと同時に、治りかけていたそれらの傷口を半ば無理矢理抉り取る。
「…………っ!!
うっ、ぐぅ……!?」
迸る激痛に脳髄が焼かれ、思わず苦鳴が口から零れ落ちる。
塞がり掛けていた傷口を、無理矢理開く様な真似をしているのだから、当然痛みは激しいし、止まりかけていた出血だって再度激しく始まる事になる。
が、ふと視線を向けた先。
先程、腕に纏わり付いて来ていた追跡者の肉片と粘液等を振り落とした所へと眼を向けてみれば、そこには奇妙で悍ましい光景が広がっていた。
────ソレは、一見するとアメーバかそれともスライムか、と言った風に見えた。
俺から放たれた血溜まりに浮かぶそれらは、明らかに蠕動しており、風も無い路地であるにも関わらず、水面を波打たせていた。
しかも、俺の気の所為で無ければ、それらは自らが浮かぶ血溜まりを吸収している様であり、明らかに肉片も粘液も赤く染まりつつあると同時に、その体積を大きくしている様子であった。
かつて、向こうの世界で様々な光景を目の当たりにさせられた俺をして、悍ましい、と表現する以外に無い、と感じさせられる光景。
ソレを目撃した事で、俄に背筋が凍り付くと同時に、何故か皮膚の下で何かが蠢いて、まるで俺の脳を目指して動いている様な感覚が発生する。
咄嗟に、心臓に埋め込んだ賢者の石を、全力で稼働させる。
既に、傷を治療させる為に高機動状態にしていたが、そんな事は関係無い!と言わんばかりに、負荷を掛けてでも出力を優先してフル稼働させる。
すると、途端に皮膚の下に感じられた『何か』の動きが止まるのが感じられた。
ゆっくりと、じわじわと動きながら、上へ上へと何かしらの目的の様なモノを以て移動しようとする意思を感じられるソレに対しては、俺はハッキリと【恐怖】を抱いている事を自覚させられていた。
そんな俺の対応を目の当たりにしたからか、それとも目的を達成出来なかったからか。
ソレは不明だが、それまでニヤニヤと色の無い笑みを浮かべている様に見えた追跡者が、初めて別の感情とも取れる反応を見せる。
とは言え、ソレはほんの僅かなモノ。
微かに、眉を潜めて眉間にシワを寄せる、と言った程度であり、人によっては表情を変えた内に入らない、との判定を降すであろう程度の変化。
そんな些細な表情の変化を以て、ソイツは一歩後退する。
あからさまに逃げ出そうとしているその反応を以て、慌てて俺も突いていた膝を伸ばして、逃がすまいとして距離を詰めようとする。
…………頭の方では、このまま逃がすのは有り得ない、と理解もしていた。
が、身体の方が、先の冒涜的なナニカを仕掛けられた事と、交差した際のやり取りを以てして、これ以上何の策も無しに関わるのはマズイ!と判断してしまったらしく、ほんの少し足が前に出るのが遅れてしまう。
それにより、追跡者の女が、先の俺と同じ様に、三角跳びの応用にて、その場から壁を蹴りつつ離脱する事を許してしまう。
その際に、特に魔力による身体強化を行った形跡が無く、魔力の高まりを感じ取れなかった、と言う事実のみが、今回の俺に得られた情報の全てとなってしまったのであった……。
主人公実質的敗北?




