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地図の広場

作者: 銀杏玲

 

 日中、街灯下のアスファルトには動物の足跡が二メートル間隔で五十ほど記してある。くま、きつね、とり。子どもたちは白いペンキの足跡を目印にしてきれいに並ぶ。

 僕たちはこのエリアを「地図の広場」と説明する。この二十メートル四方のアスファルトのエリアで到着式や出発式を行う。

 「明日の出発式では、何を話そうか」

 前日から、事務室で考えをめぐらせる。ウォークラリーの新記録達成を褒めるべきか、ラフティングでのチームワークをひろうべきか。ただ、先生はさらりと淡々とした挨拶を求めているかもしれないし。施設職員は黒子であって、目立ってはいけない。主役は子ども。たった一分の出発式の職員の挨拶でさえも、子どもたちが少しでも輝く言葉選びを心がける。団体打ち合わせは、材料集めの場でもある。

 「利用団体の皆様にお知らせです。十六時三十分より、団体打ち合わせを行います。代表者の方は、事務室へお越しください」

 今日は、一団体五十名。小学校一校、五年生が宿泊する。コロナ禍の秋、これでも、とても恵まれた子どもたちの数。やはり、館内に子どもたちの楽しげな声があると、ほっとする。

 職員が常駐する事務室は、十メートル四方の広い玄関脇の階段を十段ほど上がる、中二階にある。事務室の入り口横の窓から玄関のようすがうかがえる。懐中電灯をもって靴を履いていれば、ナイトハイクだし、バインダーももって帰ってきたら、ウォークラリーのあとだ。

 「おーい。早くしろ。十七時からレストランだぞ!」

 いつもどおり、玄関を、先生の声が突き抜ける。事務室から窓越しにふと、ようすを見ていると先生がひとり、窓下の死角に入った。スリッパの「パタ、パタ」という音が少しずつ近づいてくる。

 ドアにぶら下げている鈴の音が鳴った。

 「カラーン、カラーン」

 五十過ぎの男性の先生が事務室に入ってきた。

 「失礼します。桜小学校の伊東です」

 落ち着いたトーンで年季の入った声だった。もうすぐ定年退職だろうかとも思わせる。

 「こんにちは。どうぞ、こちらへ」

 僕は、スチールの事務机四つを向かい合わせた打ち合わせスペースへ案内した。桜小学校は夜に「星座観察」の活動を行う予定があった。行程の確認と館内利用の事務連絡をした後に夜プログラムの動きを確認しようと、頭の中で流れを決めていた。

 「お忙しいところ時間いただいて申し訳ございません。夜の館内の利用、この後の活動と、明日の活動内容、行程について確認させていただきます」

 定型の打ち合わせ原稿をもとに、館内の施錠時間、夜から明日の出発式までの行程をざっと確認した後、プログラムの話を始めた。

 「この後、二十時からの『星座観察』なんですが」

 必要な星座盤の数を確認しようとしたところで、先生の口元にためていた言葉をこぼした。

 「じつは、ひとつご相談がありまして」

 不安げな先生の声に、僕は自然と、座りながらも前かがみになって聞いた。

 「承ります」

 星座盤の貸し出し数を増やすのか。それか、職員指導はない活動だけど、僕に説明をしに来てほしいというお願いだろうか。そんなことを考えたが、じつにそれは教育的な相談だった。

 「子どもにひとり、目の見えない子がおりまして、光をほんのわずか感じ取ることはできますが、空を見て星のひかりまでは、無理なんです。でも私としては、ほかの子どもたちと近い形で活動させたいんです。でも、私にはそんな引き出しはなくて、何かいい案はないものかというご相談なんです」

 「んー。そーう、で、すねー」

 僕は少し机のへりを見つめながら黙り込んだ。先生とふたり、無音の空間だった。けれども教育施設として、このオーダーに応えられないのは、施設としても、施設職員としても失格だと、頭の中にそんなことがよぎった。

 「わかりました。何とか考えます。二十時になりましたら、私も『地図の広場』に行きます。その子は私に託していただいてもよろしいでしょうか?」

 先生は少し瞼を閉じながら言った。

 「本当にありがとうございます」

 先生が立ち上がったので、僕は、渡しそびれそうになっていた貸出用の星座盤が入った菓子箱を先生に渡した。

 「あっ、そうですよね」

 先生は菓子箱を受け取り、

 「それでは、よろしくお願いします。全体への説明は私が進めていますので、その間にさりげなく、その子の方に来ていただければ」と言って、事務室を後にした。

 僕は打ち合わせが終わってから、ひとりじっくり、目をつむりながら、椅子にもたれかかっていた。何でこの日に宿直が当たったのか。新米の僕には、重い課題だった。

 「目の見えない子どもに星座観察で何を伝えるべきか」

 視線の先にあるモニターごしの「地図の広場」がこんなにも、遠く感じたのはこれがはじめてだった。

 「およそ三時間後には、僕とその子があそこにいる」

 重い腰を上げて、事務室を出た。

 気づけば、三時間が経っていた。正面玄関脇の倉庫に眠るキャンプや科学体験教室など主催事業で使っていた物品の余りを、漁っては、戻し、漁っては、戻しを繰り返していたのである。

 「今の自分にできるのはここまでが限界だ」

 僕は、いったん事務室へ戻って、街灯のスイッチをオフにした後、ほこりとススでザラザラになった手でセロハンテープとバインダー、ビー玉を持ち「地図の広場」へ向かった。

 広場は、正面玄関前の階段を五段降りたところにある。バスの旋回場も兼ねているのである。

 階段を降りると、街灯を消した広場では、足跡を頼りに整列する子どもたちが先生の説明を聞いていた。先生は、観察シートと、グループにひとつ、星座盤を配っていた。子どもたちは観察シートをバインダーにはさめて、星座盤をくるくると回しながら、夜空を眺める。

 「あの子はどの子だろうか」

 あごを空に向け、数人でまとまる子どもたちの中に、ひとり、女の先生の左手首をつかんで立っている男の子がいた。もしかして、と女の先生に声をかけた。

 「こんにちは。緑陵自然の家の藤井と申します」

 「お世話になっています。桜小の河合です。伊東先生からお話があったかと思うんですが」

 先生は、その子の方を見たので、僕は少し膝を曲げて、すかさず声をかけた。

 「こんにちは」

 男の子は元気よく声を出した。

 「こんにちは」

 すごく元気がよかった。

 「名前は?」

 と僕が聞くと男の子は、

 「宮野良太です」

 と答えた。

 何と話を始めようかと考えていると、宮野くんの方から僕に話しかけてくれた。

 「みんなは今何をしてるの?」

 少し、緊張が解けた僕は、なぜか慎重に、

 「四、五人でグループになって、空を見上げて、星座盤をもって星座を探しているよ」

 と見たままの子どもたちの動きを説明した。すると、宮野くんは、

 「みんなが見ている空はどんな感じ?黒いの?」

 と聞いてきたので、僕は思わず

 「黒?」

 と聞き返してしまった。宮野くんを目の前に少しぎこちない僕をよそに彼はとてもしっかりと言葉をつなげてくれた。

 「ぼくは目が見えないから、朝の空は青で、夜は黒っていうことを言葉で知るようにしてるんだ」

 なるほど、そういうことか。目が見えないということの前提をここで知ったのである。僕は話を続けた。

 「そうか、そうだよね。ごめんね。お兄さん何にもわからなくて」

 僕がそう言うと、宮野くんはかえって申し訳なさそうに口をすぼめながら、

 「全然大丈夫だよ。だけどね。ぼく、黒って色だけどんな色かわかるんだ。ママがね、小さいときに教えてくれたんだ」

 と言って、瞼を閉じた。

 「こうやってね。見えるのが黒っていう色だってママが言ったんだ。だから、黒だけみんなと同じようにわかるんだよ」

 「すごい」

 心の中でつぶやいた。お母さんのやさしさを感じた。

 「そうなんだね。黒かぁ、だけどそう考えると、今ほかのみんなが見ているものと近いのかもしれないね」

 宮野くんは不思議そうな顔で

 「どういうこと?」

 と首をかしげた。

 「みんなは今、街灯もない広場で、上を見上げて真っ黒な夜空を見ているけど、これって瞼を閉じているときの世界に近いかもしれないよ。ただそこにはわずかな光の点がぽつぽつあるんだ」

 宮野くんは瞼を閉じて上を見上げた。

 「んーこんな感じ?」

 「そうそう」

 僕も空を見上げた。

 「その黒い世界に、点字のような点々の光がところどころに見えるんだ」

 「点字みたいな?」

 「そうそう、ほんとうに遠くに小さな明るい点が見えるんだよ」

 そう言いながら僕は、バインダーにビー玉を5個、ジグザグにセロハンテープで貼り付けた。

 上を見上げる宮野くんに、

 「今、右手を触っていい?」

 と聞いた。

 「いいよ」

 そう言ったので、僕は、宮野くんの右手首を軽くにぎって、

 「今、空に見える星座をバインダーにビー玉を星代わりに貼ってみたんだ」

 と言って、右手をバインダーに近づけた。

 「お兄さんすごいね」

 宮野くんは、バインダーのビー玉を指先で確かめるように触っていった。

 「これ何座っていうの?」

 「これはカシオペヤ座って言うんだ。秋の空に見えるんだよ」

 「これがカシオペヤ座って言うんだね」

 そう言って、宮野くんは上を見上げた。

 「これが光って見えるんだ」

 空を見上げる彼の横で、僕は、自然と横に立つ河合先生と目を合わせた。先生はにこりとしながら、小さな声で僕に言った。

 「『地図の広場』の『地図』ってこっちの意味だったんですね」

 僕は少し迷いながら、間をおいた。

 「はい」

 「学校ではできない体験っていいですよね。ほんとうに」

 夜空を見上げる宮野くんの目に映るものは、ほかの子どもたちとは異なるものであっても、瞼を閉じれば、きっとみんなで同じ星空を分かち合えるのだろう。

 僕はそう願って、子どもたちの活動を見届けたのであった。


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