愛くるしい女の子
森は、思ったより平穏すぎた。
黒い霧より解放された、ニブルヘイム。
アリオンは、多少の平穏は、想定していた。
それは、魔物が少ないとか、視界が開けているといった程度。
ここまでの平穏は想定外だ……
彼の脳裏に、清らかという言葉が浮かぶ。
そして、それを、強く否定した。
魔物の気配もなく、穏やかで、のどかな森。
それが、居場所を見失う感覚を聖騎士アリオンに与える。
当然だ。
聖騎士アリオンは、邪悪の中心を目指していたのだから……
彼は、騎乗する馬の速度を緩めた。
そして、馬上で軽く右手を挙げる。
聖騎士アリオン、彼を先頭して進む、討伐軍の歩みが止まった。
「気を引き締めろ! ここは、もう敵地だ!」
つまり、アリオンは、もう、魔の森、ニブルヘイムに入っていると、皆に告げた。
その叫びに、部隊長たちが続き、部下を鼓舞するように声を上げはじめる。
「邪悪な魔女を、この地に葬れ!」
とか、
「淫乱な売女に、正義を示せ!」
とか、乱暴な言葉で、士気をあげようと必死になる。
軍隊は、敵が明確だから、士気を維持できる。
敵とはなにか?
それは、自らの幸せを壊す者たちのことだ。
いっそのこと、アリシアとかいう、古の魔女が、実害になってから方が、やりやすいか?
聖騎士アリオンは、その思いに、首を振る。
その証拠に、ここは、彼がさっき兵士たちに告げたとおり、ニーベルンに間違いなかった。
迷ったりは、していない。
進んできた道に、間違いはない!
聖騎士アリオンは、再び、馬を前に進めた。
その時、彼が騎乗する馬は、鞭を入れたものだから、大きく目を見開き、ブルルと頭を振る。
聖騎士アリオンが率いる、アリシア討伐軍は、森の奥を目指して消えていく。
静寂を取り戻した、魔の森、ニーベルン。
その端から不穏な空気が漂いはじめた頃。
アリシアは、その異変の場所、すぐそばまで来ていた。
兵士たちの「淫乱」とか「売女」とかいう、乱暴な雄叫びが、青年の姿で、馬の手綱を握るルシファーの耳に入る。
彼は、とても愉快そうだ。
ルシファーの背中につかまるようにして、同じ馬に騎乗しているアリシアに声をかける。
「あいつら、君を見たら、どんな顔をするんだろうな」
彼の美しい金髪が風になびく。
木々の間を抜ける木漏れ日が、彼の髪にふれるたび、キラキラと輝いた。
ルシファーの背中につかまるアリシアに余裕はない。
馬に乗るのは初めてだからだ。
しかも、馬は、結構なスピードで、屋敷から駆けてきた。
ルシファーが、やたらと話しかけてくるけど……
今は、それどころじゃないの!
もう少し、丁寧に、馬を操れないのかしら?
アリシアが、
「きゃっ!」
と軽い悲鳴をあげる。
ルシファーの貴族のような手綱さばき。
馬が、倒木の障害を綺麗に飛ぶ。
馬術競技のような光景。
華麗で優雅な馬の動きだった。
「アリシア、そろそろ、俺を解放してくれないかな」
ルシファーが、馬を止める。
アリシアは、慌てて、彼の背中から回した腕をゆるめた。
その挙動を、ルシファーが笑う。
そして、彼の余裕が気にくわないアリシアは、ほほをふくらました。
「アリシア、どうやら目的地に到着したようだ」
彼女は、ルシファーの背中から、顔をのぞかせるようにして、その先を見る。
武装した兵士たちが、そこにいた。
アリシアが火刑で殺されてから、どれほどの時が経過したのか、正確な時間を、彼女は、まだ知らない。
じっさいに、数百年、アリシアが火刑で燃やされてから経過していた。
それは、兵士の装備、その質も、かなり向上しているようだと、戦に詳しくない、アリシアが見ても、わかるぐらい。
それでも、彼女は思う。
なにも、変わっていないと……
あれこれと理由をつけては、奪おうとする。
無理を暴力で押し通そうとするやりよう。
なにも、変わってない。
あたしが、焼かれたのも昨日のことのようね……
聖騎士ぽい人物が、かかとで馬を駆り立て、前に出ようとする。
口上でも言う気かしら……
アリシアは、馬から降りた。
すぐに、ルシファーは、
「君が相手することないさ」
と馬上から言う。
だから、あたしは、彼の前に出る。
「ルシファー、ありがとう」
今は、ただ、ルシファーには、その一言だけでいい。
だって、もたもたしてたら、あの聖騎士らしき人物の口上がはじまったちゃう!
「あたしの名前はアリシア。あなたたちのいう、破滅の魔女よ! 大人しく、あたしに従うか、力でねじ伏せられるか、どちらかを選びなさい!」
どうせ、あたしの言うことなんか、聞く耳ないでしょ!
さあ、ここからが、世界征服のはじまりよ!
アリシアは、気合いを入れてドーンと構えたつもりだった。
なんだったら、凄い闘気で威圧する勢い。
そんなつもりで、アリシアはドンと構えた。
それが、可愛らしい女の子が無理して強がっているように、彼らには見えた。
彼らとは、アリシア討伐軍だ。
ただ一人をのぞき、アリシア討伐軍は、大笑い!」
「選びなさいだとよ!」
「お嬢ちゃん、道に迷ったんなら、俺たちが案内をしてやるぜ」
「おうおう、力づくで案内してやれ」
アリシアは、
「なっ!」
と絶句した。
彼女の言葉は、別の意味で彼らの耳に入らなかった。
これじゃ、まともな会話ができないじゃない……
アリシアが、オロオロしている姿が、よりいっそう愛らしい。
討伐軍の笑いは、ますます止まらない。
だが、聖騎士アリオンは違う。
彼は、そんな和んだ空気を無視して、ゆっくり剣を抜いた。