見えない傷
ルシファーは、苛立っていた。
それは、腹の底から、込み上げてくる衝動のせい。
それは、確か、怒りという感情。
ずっと、ずっと、忘れていた感情。
いや……、彼は、元々は天使、堕天してからも、ずっと、怒りという感情を実感したことは、なかった……
ルシファーは、アリシアの部屋にいた。
猫ではなく人の姿で、この部屋の主、アリシアは、ベットの端に腰かけるようにして座っている。
その風景は、先生ができの悪い生徒を座らせて叱っているようにも見えた。
実際、ルシファーの口調と内容も、叱っているように聞こえる。
「それで、わざわざ、自分の命を狙ってきた相手を、拾ってきたと……」
「なんか、途中で、無理して、とどめを刺す必要もないか、なんて……」
アリシアは、自らの後頭部を叩いたのと同時に舌をだす、テヘペロをして見せた。
そう、テヘペロ……
「あの男は、真っ当な人間ではない、生かしておいては、きっと、犠牲者が増えるぞ」
などと、真っ当な説教は、ルシファーだ。
すごく真っ当な意見……
正義のために人を殺すのは、有り有りの、有りかもしれない……
ただ、その至極当然のことを言っているのは……
「あなたって、悪魔よね」
とアリシアは、ルシファーを、恐る恐る、下から覗き込むようにして見た。
ルシファーは、奈落の底。
地獄の第九階層、その主。
ルシファーという名前も、魔王サタンの別称だ。
「そうだ、俺は、悪魔だ。おまえが連れて来た男は、大勢を殺している。悪魔の俺が、断言しよう」
「断言されても困るのよ! そんな正義のために、なんで、あたしが無理して殺さないといけないのよ!」
「慈悲のつもりなのか? そんなものは、裏切られるぞ!」
「慈悲だなんて! そんなつもりはないわ」
「なら、なんだ?」
「気分の問題よ!」
ルシファーは、ひたいに、手をあてて、大きなため息をした。
アリシアは、あの瞬間を思い出している。
イクシオンの五番に、最後の一撃を入れようと瞬間だ。
多分、相手は、泣いていた。
それに、「ごめんなさい」だなんて……
何のために殺すの?
断罪?
それとも、力を誇示するため?
復讐なんてものもあるわね……
勝敗は、決した。
あとは、考えるのも面倒。
だって、あたしは、火刑で殺されたのよ!
世の中のために、悪人を断罪だなんて……
ルシファーは、鬼の形相のまま。
アリシアを糾弾する手を休める様子はない。
「そもそも、おまえなら、あの程度の男、出会って直ぐに殺せたはずだ」
アリシアが口を開こうとするも、間髪入れずに、ルシファーは話を続ける。
「反論は、許さない! なぜなら、おまえが、大馬鹿だからだ!」
きーーー、なんですって!
アリシアは、腰かけていたベットから立ち上がった。
「こんなことで、悪魔のくせに、怒っちゃって、あなたの方が、大馬鹿じゃない!」
ルシファーの手が、淡く光る。
「なによ! やる気!」
アリシアが、後ずさりをしながら、拳を構えようとする。
その光に見覚えがあった。
この世界に復活した時に見た光だ。
ルシファーの手が、敵意のない優しい動きで、アリシアの頭上に伸びてくる。
ルシファーの方が、アリシアより背が高い。
だから、彼女は、彼の顔を下から覗き込むように見た。
「ジッとしてろ」
ルシファーは、とても不機嫌で面倒くさそう。
アリシアは、抵抗しないで、
「はい……」
と返事をした。
「傷ついた服は、直してやる」
アリシアの服は、実際、傷だらけのボロボロだった。
その程度で、戦闘の激しさというより、一歩的にアリシアが攻撃を受けていたのが、ルシファーには分かっていた。
あの時の優しい光は、服を綺麗にしていく。
「服が破れたぐらいで、そんなに、怒らないでよ」
アリシアは、気が抜けて、また、ベットに腰掛けた。
その勢いは、腰抜けたような勢い。
その勢いを、ベットは、柔らかい弾力で数度、弾き返すことで、しっかりと受け止めた。
「怒るさ。だって、おまえは、大怪我をしてるじゃないか……」
ルシファーが、アリシアの頭上から、手を動かす。
彼女の服は、すっかり元通りになっていた。
そんなことよりも、大怪我?
アリシアは、不思議に思う。
体に傷はない。
ドラゴンズ・ミート、竜の肉質の特性には、ルシファーも、詳しいはずだった。
「怪我なんて、してないじゃない……」
とアリシアは、言った。
「それが、一番、心配なんだよ」
とルシファー。
悪魔に心配されて、大混乱してしまうアリシアだった。




